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名前のナイ世界 「4」

 それこそ『あばら家』と銘打たれて額縁に収まるかのような、芸術的なまでの角度で右斜めに傾いた家屋。

 かつては赤かったであろう屋根の塗料は完全に剥げており、窓ガラスの大半は割れて機能を失い、玄関は頼みもしないのにスイングドアのように風で開いたり閉じたり。

 雨はおろか、風ですら凌げるかどうか怪しい佇まいに、有理紗も無意識に唇の端が引きつり始めている。

 そんなぼろ小屋の玄関を平然と押し開き、彼女は中へと入っていく。

 勝手知ったるとは、正しくそんな様を指すのだろう。有理紗もそれに倣って部屋へと入る。

 中は、こじんまりとした空間に木組みのテーブルが一つと椅子が三つ。

 そのうち二つは向かい合っているが、残る一つは足が折れて横倒しになっていた。

 食器棚の中には陶器製の食器が幾ばくか点在しているが、そのほとんどはあまり使ったような形跡が見受けられない。奥に見えた台所は思いの外清潔で、彼女曰く飲める水くらいは出てくれるとのこと。


「……」


 粗末なテーブルに、マトモな椅子は二つ。

 招かれてもいない客人が二人。

 ともすれば向かい合って座らざるを得ず、先に座った彼女に促されるかたちで有理紗も腰を掛ける。ギシ、と軋む音が耳障りだった。

 それから、しばしの無言。

 命の恩人とはいえ、素性も知らぬ相手と面と向かっているのは何とも微妙な居心地だった。

 沈黙に耐えきれなくなって、最初に口を開いたのは有理紗だった。


「……アタシが聞きたいコト、知りたいコトを、アンタは教えてくれるって言ったけど」

「知りたいのは二つ。ひとつ、此処は何処か? ひとつ、自分はどうなったのか? ……あぁいや、もうひとつ。私が何者か、も付け加えた方がいいか」


 コクリ、と有理紗は小さく頷く。

 まるで胸の内を見透かされているかのように、有理紗が疑問に感じたことを全て言ってのけて見せた。どうしてわかったの、と問えばさらにもうひとつと彼女は追加してくれるだろうが、何だか詮無い疑問のような気がしてそれ以上考えることは止めた。


「そういえば、まだ名前を聞いてなかったね」

「……田之上、有理紗」

「アリサ、か。私は……」


 そこで、何故か彼女は言い淀んでしまった。

 フードをすっぽり被った頭が明後日の方向に動いて、何かを思案している風に見える。


「…………すまないね、名前なんて考えたことが無かった」


 一拍、奇妙な間が出来上がる。


「……は? や、そんな、自分の名前でしょ……?」

「私にはあまり意味の無いモノだからね。……しかし、これから会話をするとなるとこのままでは少し不便だ」

「……」


 溜息。

 有理紗の欲する情報を知っていると豪語した割に、自分の名前は考えたことが無いと言い出すなんて。

 しかし、今にして思えば彼女のその「()()()()()()()()()()」という言葉はあまりにも奇妙だった。

 結局、当時の有理紗はそんな彼女の言葉を必要以上に気に留めなかったけれど。


「……《赤ずきん》」


 それは、パッと見ただけの印象で有理紗が勝手につけたあだ名。

 明後日の方向を向いていた彼女の首が、ひょいと動いて有理紗に向き直る。

 赤いフードの奥に、濁った色合いの瞳が見えたような気がして有理紗の背筋に一瞬だけ悪寒が奔る。


「や、何となく……」

「なるほど、私の今の格好からか。……悪くないセンスだ。なら、今日から私は《赤ずきん》と名乗るとしようか」


 素っ気ないセリフの割に、何処となく弾んだ調子の声の彼女――《赤ずきん》を見て、有理紗は微笑する。

 奇妙な距離の間に生じた、奇妙な縁。

 なんだか、田舎の祖母に久々に会ったかのような気分だ。

 尤も、有理紗の祖母はもうとっくの昔に他界してしまっているが。


「さて、本題に戻ろうか。この世界は、お前さんが生きていた世界とは別の世界。それっぽく言うなら、異世界ってヤツさ」

「……異世、界……」


 異世界。

 何処かの本屋でも行って、ティーン向けのノベルが立ち並ぶコーナーを訪れればイヤでも目に付く漢字三文字。

 異なる世界と書いて異世界と、文字にしてみれば大したことはない。意味も読んで字の如く。

 しかしそれを、活字の羅列で読むのと目の当たりにするとでは衝撃の度合いが違い過ぎる。

 だが、有理紗はここまでの状況から何となくそうなんじゃないかとは思っていた。

 思っていたからこそ、驚きも少なかったし大して表情にも出なかったらしい。彼女はそのまま話を続ける。


「ここは大陸の東南端に位置する廃村。名前は……はてさて、何だったかね。かつては工業で賑わっていたらしい話は聞いたが、今はまぁ御覧の有様さ」

「あの、バケモノがうろついてるから……?」


 尋常ならざるバケモノの存在は、ここが異世界という何よりの証左。

 野良犬ですら本当に存在しているのか眉唾な現代で、あんなのが蔓延っていたら全国ニュース程度では済まされない。


「……この世界には、夢起病ユメオコシと呼ばれている厄介な流行り病があってね。その病を患うと精神や、深層心理といったモノを蝕んで悪夢に苛まれるようになる。心も身体も蝕んでいって、やがては悪夢が現実へと湧き出て患者へと作用し、変貌させ、自身が望む願望を歪んだ形で遂げようとする。殺人衝動、飢餓からの暴食、支離滅裂な行動……まぁ、十中八九ロクなコトじゃない」

「じゃあ、あのバケモノも」

「そこらに潜んでた野犬が患って、ああなったのさ」

「……野犬が、夢?」

「夢を見ない生き物なんていないもんさ」


 脳裏に浮かんだのは、前にツイッターか何かで見かけた、眠ったままクッションの上で足をバタバタさせている愛玩犬の姿。

 泳いでいる夢を見ている――なんて説明文があったような気もするが、あの黒い獣が、そんな犬の末路だと言われても少しもピンとこない。


「分からなくても、分かりたくなくても、今にわかるよ」

「流行り病って言ったけど……薬とか、治療法とかは?」

「無い」


 にべもなく言い放った《赤ずきん》の圧が滲む言葉に、有理紗は思わず息を呑む。


「病といったが、何時、どうして、どんな風に患うのかは誰も詳しくは知らない。ある日突然悪夢に苛まれて、苦しんで、果ては異形と成り果てる。ああなってしまえば、ただただ『害』でしかない」

「そう……なん、だ」

「……普通の人間じゃほとんど太刀打ちが出来ない代物でね。私は、そういうバケモノ専門の『狩人』なんてモノを請け負ってる。夢から生まれたバケモノを狩るからって『夢狩』なんて呼ばれることもあるね」

「…………」


 そのまま流れで、彼女は自らの身の上を簡単に語り出した。

 もう何年もの間各地を適当に放浪しながら、道すがらに立ち寄った村や街で簡単に情報を集め、バケモノ狩りの旅を一人で続けている。この廃村に立ち寄ったのも、有理紗を助けたのも偶然だったという。彼女が助けてくれなかったら、今頃きっと見るも無残な女子高生の死体がもう一度生まれたことなのだろう。


「……何で、アタシがこの世界の人間じゃない、ってわかったの?」

「そんな見慣れない格好をしてれば誰でも……と言うのもあるが、実は決定的な要素がある。お前さんの、その目さ」

「目?」


 《赤ずきん》は、有理紗のその黒い瞳を指さす。


「どういうわけだろうね。この世界の人間はそんな色の目を持って生まれない。けれど、別の世界からここへやってきた人間は、必ず真っ黒い瞳を持っているとされてるのさ。実に不思議なことに、子供が読むような御伽噺ですら似たような記述がある。私は学者先生じゃないから詳しいことまではわからないが、専らそういうコトになってるみたいなんだ」

「……」

「死んだお前さんがどうしてここにやってきたのか、という答えに関してなら、残念ながら私は答えを持ち合わせていない。けれど、尤もらしい言葉なら思い付くよ。このクソッタレな世界に生きる誰かが、あるいは、この世界が、誰かが、お前さんに救いを求めている……とか、かね」

「す、救いって……言われてもな」


 所詮、有理紗は一度死んだだけの女子高生に過ぎない。

 よくあるテンプレートであるなら、今の有理紗には何か超常的な異能力が身に付いていて、それを以てしてバケモノ相手に立ち回れるのかもしれないが、今のところそんな不思議な力に目覚めたような兆候も気配も何もない。

 衣服も制服、背丈も髪の色も何一つ変わっていない。

 何処からどう見ても、平凡でか弱いティーンエイジャーそのものだ。


「アタシ、誰某と助けられそうな力なんて持ち合わせてないんだけど」


 シニカルに肩をすくめる有理紗を見て、《赤ずきん》は小さく被りを振る。

 少し、悩んでいるような、躊躇っているような、何かを品定めしているかのような。


「もし、お前さんにそんな力が在れば……どうする?」

「え……?」

「…………」


 その沈黙は、有理紗の答えを待つものだったのだろうか。

 フードの奥を覗き込んでみても、ぼんやりとした暗闇に阻まれて彼女の表情を窺い知ることは出来ない。

 どう答えようかと悩む有理紗よりも先に、腹の虫がくうと小さな音を立てた。


「……先に、飯にでもしようか」

「……うん」


 恥ずかしいような、気まずいような。

 でも、逡巡していた有理紗からしてみれば有難いタイミングだったかもしれない。

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