名前のナイ世界 「3」
――見たことも無いような灰色が、瞳の中を埋め尽くす。
目が覚めた有理紗は、白とも黒ともつかない暗鬱で淡白な空を――所在なく、ぼんやりと見つめていた。
いったい、自分の身に何が起こったのか。
どうして、こんな空を見つめているのか。
状況を把握するべく思考を巡らせようとしても、寝起きのような頭の中身は有理紗の思うようには機能してくれず、何とも曖昧なイメージだけがふわりふわりと浮かんでは消え、浮かんでは消えと覚束ない。
何か、あまりにも衝撃的すぎる出来事があって、自分の心が何処か遠くに吹っ飛ばされてしまったかのような感覚。
感覚――と、そこまで思い至って有理紗はようやく身体を起こした。
今の今まで、地べたに大の字で転がっていたことに気づけないでいた。
「…………」
全く覚えのない光景が容赦なく、愚直なまでに視界に飛び込んでくる。
ブティックのような二階建ての建物、誰も何も通らない道路、溢れかえるゴミ箱、レンガ造りの時計塔。
しかし、その全てに「壊れた」とか「朽ちた」みたいな形容詞がくっついてくる。
言うなれば、街……だった場所、と表現するのが適切か。
東京はおろか、もはや日本なのかどうかすら怪しいまでの、荒み切ってあまりに寂しく浮世離れしたカントリーな世界。
有理紗は、そんな廃墟同然の見知らぬ街の十字路の真ん中でひっくり返っていた。
「……何、アタシ、どう……なって……?」
ザザッ、と砂利を擦るような物音が聞こえてアリサは視線を弾くように動かす。
情けない限りだが誰か他の人に――と、有理紗の思考はそこで強制的にブレーキがかかる。
他の人、なんてちゃちな存在ではなかった。
そこに居たのは、今まで決して見たことも無いようなおぞましい獣だった。
燃え盛る焔の中から焼け爛れて生まれたかのような、禍々しい赤と黒の色合いの、大型犬と同等の体躯。
怖気が背筋を駆け巡るほど異様なまでに痩せこけていて、骨はその役目を捨て臓腑をも剥き出しにしている。
大小滅茶苦茶に生えた乱杭歯には腐臭を漂わせた涎で滴っていて、もはやファンタジーを飛び越えて完全にホラーの様相を呈したクリーチャーとしか思えない。
そんな異常な獣が、いつの間にか有理紗の周囲を囲んで四匹も歩いていた。
あぁ、人がいないんじゃない。
コイツらの所為でいなくなったんだ。
背筋が凍りついても何らおかしくない状況下、有理紗の頭の中は恐ろしいまでに冷静でクリアに澄んでいる。
どうやら、一度死んだお陰で気でも触れたらしい。
……。
「……あぁ、アタシ……」
死んだんだ、と唇が言葉を紡ぐその瞬間に獣が駆け出して有理紗の喉元目がけて飛びついてくる。
鼻が曲がりそうな異臭を放つ獣の息が掛かるかどうかの瀬戸際、有理紗の目前で獣の首が、ごきり、とイヤな音を立ててほぼ直角に圧し折れて吹っ飛んでいった。
「驚いたよ。生きている人間が、まだ居たんだね」
しわがれた声が有理紗の頭の上に降ってきて、身を捩ってみると、いつの間にか傍らに一人の人間が立っていた。
有理紗より幾ばくか低い身の丈に、真っ赤な外套を頭から全身まですっぽりと被っている。
右手には刃だけ妙に大きい手斧――ハチェットを握りしめていた。声の感じからして女性、六十代辺りだろうか。
外套の所為で顔はほとんど見えないが、その視線は周りを囲む獣を威嚇しているようだった。
不意に、ちらと外套姿の女性が有理紗へと視線を落とす。
一瞬だけ目が合ったような気がして、有理紗の胸に緊張が奔る。
睨まれた、とは違う。
でも、彼女は何だか有理紗の顔を見て驚いたような、そんな風だった。
「お前……」
彼女が何か言いかけた瞬間、残っていた獣が一斉に駆け出す。
そのうち二匹は両サイドから挟み込む形で、殿の一匹はゴミ箱を踏み台に高所からの急襲に出る。
獣という生物としての本能が、偶発的に作り上げた拙い連携攻撃。
有理紗の前に一歩出るようにして、彼女は小さく呟いた。
「目を瞑ってな」
左から迫り来る獣は、突然ハンマーで真上から叩きつけられたかのように潰れてあっという間に血だまりと化す。
右から吼え猛る獣は、彼女が振り払った手斧が横っ面に突き刺さる。
何事でもないかのように、彼女は獣が突き刺さったままの手斧で、飛び掛かってきた獣諸共を薙ぎ払う。
それは、有理紗が目を瞑ろうとする、ほんの数瞬の間の出来事だった。
目を瞑る間もなく、ガラス細工でも壊すかのように殺された獣はまだ小さく痙攣していたが、彼女はそんな残り香のような命を躊躇なく踏み潰した。
「……」
彼女の視線が、有理紗に向く。
劫火のような色合いの外套、飛び散った獣臭い血潮、惨たらしいまでの『赤』を滴らせる手斧。
ともすれば、その姿はまるで殺戮を司る死神。恐怖か畏怖の象徴でしかない。
……だが、どういうわけだろうか。
その出で立ちを見て、有理紗はずいぶんと的外れなセンチメンタリズムを感じた。
哀愁、寂寞、退廃。
有理紗を見下ろす彼女が纏う雰囲気は、まるで疲れ切った退役軍人のようなやりきれなさで溢れているような気がした。
「……あの」
何か――それは助けてくれたことへの御礼か、彼女の纏う雰囲気への言及か、自分でも何を言おうとしたか覚えていない。
有理紗が口を開こうとすると、彼女は手斧を持っていない左手を差し伸べた。
「一先ず、私が使わせてもらっている小屋に行ってからにしよう。……お前さんが聞きたいコト、知りたいコト、こんな出来損ないでよければ話してやるさ」
皺だらけの手の平なのには鋼のように硬くて、そして鉄のように冷たい手を取って有理紗は立ち上がる。
それが、《赤ずきん》との邂逅だった。




