名前のナイ世界 「1」
ビン詰めにした蟻が蠢くかのように人でごった返す、渋谷のスクランブル交差点。
夜が明けてまだ幾ばくも無いというのに、首都を忙しなく生きる大勢の人間は意思のない群れとなり、やがては荒れ狂う海となって有象無象の流れを生み出している。
「まぁまぁ、どうしましょう……」
そんな人混みが生み出した波に呑まれ、一人の老婆が交差点の真ん中で途方に暮れていた。
華の東京と言えど、明朝であればピーク時の日中に比べずっと人がいないものだと高を括っていたのに、いざ新幹線に乗り込み、迷路のような駅構内を抜け出してみれば、そこにはブラウン管テレビの向こう側よりも圧倒的な迫力を醸し出す大勢の人の姿。地元の駅前ロータリーの人込みの比ではない。これが都会というものかと老婆の小さな身体は強く打ちひしがれている。
意を決して、どうにかこうにか人の海の中に飛び込んでは見たものの、いつの間にか揉みくちゃにされ、交差点に辿り着いたのも束の間、気が付けば周囲は動き回る老若男女の壁で囲まれてしまっていた。
孫夫婦を驚かせたい一心でちょっと張り切ってみただけなのに、老婆の身体は既に後悔と息切れに蝕まれて滅入ってしまっている。
「……え?」
ぶつかっては無言で過ぎていく機械のような人の冷たさに溜息を吐いていたそんな折、ふと誰かに腕を掴まれて老婆はハッと振り返る。
見知らぬ女子高生が、老婆の腕を掴んでいた。
ビルの窓ガラスに乱反射した朝陽で眩く光る綺麗な金色のツインテール。
細くしなやかで、モデルのようなすらりとした長身から気だるげに老婆を見下ろすその黒い瞳には、未だ驚き戸惑う老婆の顔が映り込んでいる。
何かよからぬ輩に絡まれた――なんて感慨は、実はほとんど感じなかった。
少女のその眠たげな視線には威圧的な色合いが一切なく、例えるなら路地裏を生きる野良猫が、時折餌を求めて人間にすり寄ってくる時にも似た不器用な愛嬌が見え隠れしていた。
「何処、行きたいの」
「へ? あぁ、ええっと」
何処と少女に問われ、老婆は成すがままに巾着袋から娘夫婦が新しく店を立てたという洋菓子店のパンフレットを差し出す。
指先でちょいと摘み上げ、しげしげと見つめている合間も、少女は老婆の腕を掴んだままだった。
それが、実は老婆の身体を支えてくれているのだと気づいたときに少女は唐突に歩き出した。
「……時間、早過ぎ。このお店開店するの九時過ぎだよ」
「え、えぇえぇ。ここは、私の孫夫婦が新しく建てたお店でね。ちょっと早く来て、驚かしてみようかなって」
「……ふーん」
そんな老婆の声が届いたのかどうかは不明だが、腕を引いて歩く少女は人間が織りなす波を泳ぐかのようにかき分けて、あっという間に交差点を抜ける。
老婆が感心しているのも束の間、少女はそのまま地図で見たルートを先導して歩き続けた。時々、老婆を気遣うかのような流し目を寄越しては、ぷいと視線を戻してしまう。
なんてことを繰り返しているうちに、真新しいライムグリーンの屋根の店舗が見えてきた。
「あぁ、ここなのね。助かったわぁ、本当にありがとう。何かお礼をしないと」
「や、えっと……そういうの、別に」
ぱちんと両手を打って感嘆を示す老婆に対し、少女は途端にそっぽを向いて不器用そうに照れ隠しをする。
せっかく有名になったお菓子屋の前にいるのだから、と老婆は未だに持たされている感の強いスマートフォンを取り出し、皺だらけの指でどうにか暗証番号を打ち込んで、どうにかこうにか電話帳を開く。
「もしもし? 今お店に着いたんだけど、親切な女子高生に助けられてね、それで……あら?」
どうしても慣れないハイテクに悪戦苦闘しながらようやく孫に連絡がついたときには、既に少女――田之上有理紗の姿は、雑踏の中へと溶け込んでしまっていた。
※
後ろ髪を引かれる、そんな言葉がある。
有理紗の性格は、この言葉が文字通りに作用してしまう体質と言えば伝わるだろうか。
例えば、目の前でゴミが放り捨てられるのを見て一度は素通りするが、結局は引き返してゴミを拾って、わざわざ分別してゴミ箱に捨てたり。
例えば、道端で子供が泣いているのを見て素通りこそするも、結局は踵を返して助けに入ったり。
例えば、通学途中に老婆が困っているのを目の当たりにして――以下、ご覧の通り。
正義感が強いとも違うし、お礼が欲しいみたいな下心で動いているというワケでもない。
有理紗は口下手で捻くれで、その癖見て見ぬフリが出来ないという何とも屈曲した性分で、正義だとか優しいだとか、そんな綺麗な言葉は自分には不相応だと知っている。
もっと単純に、有理紗は後悔したくないだけ、と思っている。
時に、親や学校の先生が『あの時ああしていればな』みたいに遠い過去に想いを馳せ、当時出来もしなかったことを今更になって出来たらなと振り返るそんな様が、何だか無性に情けないと感じたからなのだろうか。正直、自分でもあまりよくわかっていない。
「……」
来た道をそそくさと引き返し、人でごった返す渋谷駅のホームへと向かう。有理紗は通学の途中だ。
自動券売機に硬貨を突っ込んで切符をつかみ取る。電子マネーは、何だか信用ならないからと嫌っている。
微熱を帯びる切符を改札機に通して、流れ作業のようにして順路を進んでいく。
ホームに辿り着くと、スマホを手に手に電車を待つ人々の山。
このご時世、ベンチで文庫本を読むサラリーマンの姿の方が少し浮いて見えさえする。
五番線、時刻は07時19分。
定刻通りに電車がやってきて、ホームに僅かばかりの緊張が漂う。ちょっとした椅子取りゲームの様相。
「……有理紗!」
ふと、自分の名前を呼ぶ声が聞こえて振り返る。
「優里」
広いとは決して言い難い交友関係の中、とりわけ付き合いの長い友人の古賀月優里が階段から顔を覗かせていた。
丸眼鏡のよく似合う、小柄でちょっと目立たない女の子。
優里は白い息を吐きながら手を振って、有理紗も軽く手を振り返す。
まるで飼い主を見つけた子犬のように人混みの中をかき分けて有理紗の下へと駆けつけてくる。
だいたい券売機の辺りかここで合流して一緒に登校している。それが普段の日常だった。
列車の接近を告げる駅員のアナウンスが響いて、それから、銀色の車体が横目に見えてきて――、
――トンッ。
不意に小さな衝撃に襲われ、ふわ、と有理紗の身体がホームから放り出される。
その刹那、有理紗を取り巻く世界の何もかもがスローモーションになって、動揺で揺れる瞳に全ての光景がゆっくりと焼き付いていく。
自分の身に何が起こったのか、満足に理解出来ないまま有理紗の身体は線路へと吸い込まれていく。
落ちていく有理紗の姿を目で追う周囲の人々。
異常にいち早く気づき、咄嗟に緊急停止ベルを叩きつけようとする駅員。
垣間見た優里の――今まで見たこともないような憎々しげな表情。
一拍遅れて、爆発するかのようにホームに広がる悲鳴と騒然。
有理紗が無意識に伸ばした腕を尻目に、優里はさも何事もなかったかのように表情を戻し、ひっそりと人混みの中に溶けて消えていく。
誰かが伸ばしてくれた指先が触れたような気がしたが、もう何もかもが手遅れだった。
「ッあ」
迫る車体。
鼓膜が破れそうになるほどのブレーキ音。
めちゃくちゃな雑音が耳朶から全身まで貫き、有理紗の身体は――




