第十八話 名前のないもの
プールに行こう、と言ったのは私だった。
言ったのは私なのに、その日が近づくほど落ち着かなくなった。
水着は買った。
予定も決まった。
集合場所も、時間も、何も問題はない。
なのに、問題しかない気がした。
――これは、何なんだろう。
かなでといると落ち着く。
かなでといると、少し楽しい。
かなでに見られていると、落ち着かないのに嫌じゃない。
かなでの言葉は、時々胸の奥へすっと入ってくる。
それを、何と呼べばいいのか分からなかった。
恋愛。
その言葉を思い浮かべるたびに、胸の中が変にざわつく。
私は、誰かと付き合ったことがない。
男子ともない。
女子ともない。
だから、自分の中にあるものが恋なのかどうか、比べるものがなかった。
かなでは、どうなんだろう。
あれだけ人を見ていて。
あれだけ落ち着いていて。
距離の取り方も、踏み込み方も、妙に自然で。
案外、付き合ったことくらいあるのかもしれない。
そう思って、なぜか少し胸が重くなった。
でも、今誰かがいるようには見えない。
そもそも、かなでは自分の話をあまりしない。
私のことは見る。
よく見る。
怖いくらい見る。
けれど、かなで自身のことは、いつも少しだけ輪郭がぼやけている。
そして、答えの出ないまま、約束の日が来た。
プールは思っていたより人が多かった。
夏の匂い。
水の匂い。
人の声。
足元に跳ねる水。
明るすぎるくらいの光。
その全部が、普段より少し遠く感じる。
「山本さん」
かなでの声で、私は我に返った。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫」
そう答えたけれど、多分あまり大丈夫には見えなかったと思う。
かなでは何か言いたそうにした。
けれど、結局何も言わなかった。
それが逆に怖い。
気づいているのに、口にしない。
見えているのに、見えていないふりをしている。
かなでは、そういうことができる人だった。
流れるプールに入ると、水が体を押していく。
力を抜くと、勝手に前へ進む。
少しだけ不思議な感じがした。
「こういうの、嫌いじゃないかも」
私が言うと、かなでは隣で小さく笑った。
「山本さん、流されるの苦手そうなのに」
「え」
「何でも自分で考えて、自分で決めようとするから」
また見抜かれた。
でも、水の中だと少しだけ逃げやすい。
「……別に、そんなことないし」
「そう?」
「そう」
かなではそれ以上言わなかった。
ただ、流れに合わせるみたいに、ゆっくり隣を進んでいた。
何度か泳いで。
少し遊んで。
疲れて、休憩することになった。
プールサイドの端。
人の声はあるけれど、中心から少し外れた場所。
濡れた髪から水が落ちる。
紙コップの飲み物は、思ったより冷たかった。
かなでは、隣でタオルを肩にかけている。
何も言わない。
その沈黙が、いつもより長く感じた。
そして、ふと。
かなでが言った。
「迷っているね」
ただ、それだけだった。
なのに、胸の奥をそのまま見られた気がした。
「……え」
「今日はずっと、考えてる顔してる」
かなでは前を見たまま言う。
「プールが嫌なわけじゃない」
「私といるのが嫌なわけでもない」
「でも、楽しむ前に何かを確かめようとしてる」
私は、何も言えなかった。
かなでは、ゆっくりこちらを見る。
「その迷いは……多分」
少し間を置く。
「“恋愛かどうか”を考えすぎてる」
息が止まった気がした。
「な、なんで」
「見てれば分かるよ」
かなでは静かに言う。
「山本さん、分からないものに名前を付けたがるから」
「名前が付けば、扱えると思ってる」
「でも、付けた名前が違ったらどうしようって、そこでまた迷う」
言い返したかった。
でも、あまりにもその通りだった。
「……変、かな」
「変じゃないよ」
かなではすぐに言った。
そこだけは迷わなかった。
「誰かのことを考える時間が増えることも」
「一緒にいると落ち着くことも」
「少し意識してしまうことも」
「全部、別に変じゃない」
風が少しだけ通った。
濡れた髪が冷える。
「でもね、山本さん」
かなでは続ける。
「好きって、全部同じ形になるわけじゃないから」
「恋愛になる好きもある」
「憧れに近い好きもある」
「安心できる好きもある」
「一緒にいると、世界の見え方が少し変わる好きもある」
私は、紙コップを両手で持ったまま俯いた。
「……じゃあ」
声が少し震えた。
「私のこれは、何なの」
かなでは、少しだけ考えるように目を伏せた。
けれど、答えはすぐには言わなかった。
「それを私が決めるのは、違うと思う」
「……」
「でも」
かなでは、少しだけ笑う。
「今すぐ恋愛って名前に入れなくてもいいんじゃないかな」
その言葉は、妙に優しかった。
逃げ道みたいで。
でも、誤魔化しではない。
「名前がないままでも、特別なものはあるよ」
「名前がないから曖昧なんじゃなくて」
「まだ、形が決まりきっていないだけかもしれない」
私は、かなでを見る。
かなではいつも通りだった。
近いのに、近すぎない。
優しいのに、甘やかすわけじゃない。
全部分かっていそうなのに、答えだけは渡してくれない。
その距離が、少し悔しい。
でも、安心もする。
「かなでは」
私は聞いた。
「そういうの、分かるの?」
かなでは少しだけ目を細めた。
「秘密」
「……またそうやって」
「全部話したら、つまらないでしょ」
そう言って、かなでは飲み物に口をつける。
やっぱり、ずるいと思った。
でもそのずるさを、私は嫌いになれなかった。
恋なのかもしれない。
恋ではないのかもしれない。
まだ分からない。
でも、一つだけ分かったことがある。
私は、かなでと付き合いたいのかと聞かれると、うまく答えられない。
けれど。
かなでと一緒にいるこの時間を、終わらせたいとは思わなかった。
帰り道。
駅へ向かう途中、かなではいつも通りだった。
私も、少しだけいつも通りに戻っていた。
「山本さん」
「なに?」
「今日は、最初より顔が楽」
「……また見てたの」
「見てたよ。結構」
前にも聞いた言葉だった。
それなのに、今日は少し違って聞こえた。
見られている。
でも、決めつけられてはいない。
迷っていることを知られている。
でも、急かされてはいない。
それが、少しだけ心地よかった。
かなでの隣は、恋と呼ぶには静かすぎて。
ただの友達と言うには、少しだけ特別だった。
おわり




