第9話:西園寺イブ
第9話:西園寺イブ
1月21日。
合格の通知を受け取ってから1週間が経ち、私は再び、あの急な坂を登っていた。
あの日、絶望と焦燥に突き動かされ、泥を跳ね上げながら駆け上がった時とは、目に映る景色の色彩が全く違う。冬の晴天はどこまでも高く、凛とした空気が肺の奥まで清めてくれるような気がした。
リクルートスーツの裾が、冷たい風にさらさらと揺れる。カバンの中には、印鑑と、あの日書くことさえできなかった熱い思いを詰め込んだ、まっさらな履歴書が入っていた。
これまでの人生で、私は常に「過去の自分」を説明するために書類を書いてきた。けれど今は、これからの自分を刻みつけるために、その紙の重みを感じている。
かつての私を縛っていた「如月瑞希」という完成された物語を、今、自分の手で書き換えるためのペンを持つ。その重圧が、心地よい震えとなって指先に宿っていた。
ビルの10階。
洗練された受付を抜けて案内された会議室には、あの日と同じ星乃社長、そしてもう一人、鉄のフレームの眼鏡越しに外科医のような鋭い眼光を放つ中年の女性が座っていた。
「待っていたわ、如月さん」
星乃社長は、どこか楽しげに、それでいて迷子を見守るような慈しみの微笑みで私を迎えた。その隣の女性が、私に席を促す。
「プロジェクト・ディレクターの白河です。……如月さん、まずは契約を交わす前に、今回のプロジェクトにおけるあなたの『役割』を発表します」
白河ディレクターの声には、一切の妥協を許さないプロの厳しさが宿っていた。私はごくりと唾を飲み込み、膝の上で拳を強く握りしめた。かつてオーディションの結果を待つ時に感じていた、あの喉元までせり上がるような心臓の昂鳴りが、今は恐怖ではなく、心地よい緊張感として私を支配している。
机の上に、四枚の精緻なキャラクターデザインが並べられた。そこには、私が一瞬で目を奪われた、あの金髪の少女もいた。
「メインキャラクター、主人公の西園寺イブ。……演じるのは、如月瑞希さん。あなたよ」
白河ディレクターの言葉が、静かな室内に重く響いた。
頭の中が、一瞬で真っ白に弾けた。
「えっ……。わっ、私が……主人公、ですか……!?」
椅子から腰が浮きそうになるほど驚き、声が裏返った。10年の空白がある、いわば「素人」同然の私を、いきなりこの巨大プロジェクトの主人公に据えるなんて。
その言葉は、期待という名の甘い果実ではなく、巨大な責任を伴う鉄の弾丸のように私の胸を撃ち抜いた。震える指先を必死に隠しながら、私は自分の中に眠っていた「表現者」としての矜持が、再び熱く脈動し始めるのを感じていた。
星乃社長は、私の動揺を掌の上で転がすように、くすりと笑った。
「驚くことはないわ。あの日、すべてのルールを壊してでも、泥だらけで自分の声を届けに来た。その、喉の奥に隠し持っていた『熱』こそが、未来を書き換える西園寺イブにそっくりだった。だから、あなたには主人公を任せたいわ」
私は、震える手で渡された分厚い設定資料を手に取った。そこには、金髪のクールな美少女という外見からは想像もつかない、奇妙な日常が記されていた。
【西園寺イブ】
持っている『未来日記』に未来が記されるがゆえに世界に絶望している、低体温な女子高生。
特徴:極度の健康管理アプリ信者。カロリー計算を人生の唯一の指針としている。
日常:昼休みに友人の誘惑に負けて高カロリー摂取をしてしまい、アプリに叱責される。夜ご飯は「もやし」のみで調整し、明日への希望を繋いでいる。
「……もやし」
思わず、独り言が漏れた。
未来が見えている少女が、夜な夜な自分の部屋でもやしを啜りながら、スマートフォンの画面に小言を言われている。そのあまりにも不器用で、けれど必死に「正解」を求めて生きようとしている少女の姿に、私は抗いようのない親近感を覚えた。
完璧であろうとして、けれど隠しきれない綻びに怯え、もやしで帳尻を合わせる。それは、誰かの期待に応えようとしてボロボロになっていた、私自身の姿そのものではないか。
大人が描いた100点の図面に自分を押し込めようとして、はみ出した部分を削り取りながら泣いていた、あの頃の私。
イブの抱える滑稽なほどの必死さは、かつての私の絶望と、どこか深い場所で繋がっている気がした。
「よろしくお願いします。私、この子を……西園寺イブを、精一杯、私の声で生かしてみせます」
「ふふ。良い顔してるわね?ただ如月さん、アニメーションプロジェクトはあくまで企画。あなたは、Vtuberになる。それが本業よ?忘れないでね?」
「はい。精一杯頑張ります」
私は、自分の名前が記された契約書に、迷いなく印鑑を突いた。朱肉の赤が、新しい物語の始まりを告げる刻印のように見えた。重厚な紙の感触と、指先に残る印影。それは、私が「如月瑞希」という役を降り、「西園寺イブ」という運命を背負う覚悟の重みそのものだった。
この子は私だ。そして私は、この子になる。
お芝居じゃない。これは、一度死んで泥水を飲んだ私にしかできない、命を削った「告白」の始まりだから。
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