第8話:動きだした時間
第8話:動きだした時間
あの日、どうやって家まで辿り着いたのか、記憶は曖昧だ。
ずぶ濡れのスーツが肌に張り付き、体温を容赦なく奪っていく。街の喧騒も、電車の振動も、すべてが水槽の底から眺める景色のように遠く、解像度が低かった。
アパートの鍵を開け、玄関に倒れ込むようにして靴を脱いだ瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。冷え切った身体とは対照的に、視界の端が熱く、拍動に合わせて世界がぐにゃりと歪む。
私はお風呂を沸かす気力もなく、濡れた服を這うようにして脱ぎ捨てると、冷たい布団の中へと転がり込んだ。
夜中に目を覚ますと、ひどい熱が私を襲っていた。
朦朧とする意識の中で、何度もあの会議室の光景がフラッシュバックする。星乃社長に向かって吠えた、身の程知らずな怒声。剥き出しの醜い感情。思い出すたびに、心臓が握り潰されるような羞恥と、二度と取り返しのつかないことをしたという絶望感が、交互に私を責め立てた。
(……あんなの、受かるわけがない。私は、また自分の手で、すべてを台無しにしたんだ)
熱に浮かされながら、私は自分の過去と対話していた。12歳の夏。糸が切れたあの日。私は逃げ出し、そこから先は「何者でもない自分」を必死に演じてきた。
けれど、あの日あの場所で、私は自分からその偽りの平穏を食い破ってしまった。
この熱は、きっとその痛みだ。10年間、私を閉じ込めていた「如月瑞希」という名が、泥と雨に濡れて剥がれ落ちていくような、そんな錯覚を覚えるほどの激しい熱だった。
3日目。ようやく熱が下がり、私は再びあの中途半端な自分を繋ぎ止めるように、皺ひとつない予備のリクルートスーツに袖を通した。
けれど、鏡に映る自分は、以前とはどこか違って見えた。瞳の奥に宿っていた、あの淀んだような諦念が、僅かに薄れている。
それからの数日間は、まるで地獄のような静寂だった。
他の企業の面接へ向かう道中も、駅のホームで電車を待つ間も、スマートフォンの通知が気になって仕方がなかった。けれど届くのは、いつも通りの無機質な不採用通知か、興味のないダイレクトメールばかり。
灰色の街並みを歩きながら、私はあの日叫んだ「一等星」の定義を、何度も反芻していた。
誰かの期待ではなく、自分のための物語を創る。
その言葉は、私の中に確かに小さな火を灯した。けれど、結果が伴わなければ、それはただの「負け犬の遠吠え」で終わってしまう。その恐怖が、夜な夜な私の喉元を締め付けた。
1月15日。
約束の1週間が経った、その日の夜。窓の外は底冷えがし、雲の切れ間から、針先で突いたような鋭い星がいくつか見えていた。
私は、机の上に置いたスマートフォンを、ただじっと見つめていた。期待してはいけない。期待すれば、裏切られた時の痛みが深くなるだけだ。そう自分に言い聞かせ、画面を消して布団に入ろうとした、その時。
――震えるバイブレーションと共に、一通の通知が届いた。
【重要】FVSプロジェクト・オーディション結果のお知らせ
指先が、凍りついたように動かなかった。喉が小さく鳴る。私は、死刑宣告を待つ囚人のような心地で、震える指を画面に滑らせ、その件名をタップした。
『如月瑞希様。厳正なる選考の結果、貴殿を本プロジェクトのメンバーとしてお迎えすることに決定いたしました。』
視界が、一瞬で歪んだ。
「合格」の二文字が、何度も何度も網膜の上で反転し、熱い涙となって頬を伝い、スマートフォンの画面を濡らす。
今度こそ嘘じゃない。
私は、誰かの書いた台本をなぞるためではなく、自分の足で走り、自分の喉で叫び、そして、初めて「今の私」として、この世界に選ばれたのだ。
ふと、部屋の隅にある古い壁掛け時計に目が向いた。
12歳の夏、役を降りたあの日。電池を入れ替えても、修理に出しても、なぜか私の心の中でだけはずっと止まったままだった時計。
――チチッ。
静寂を裂いて、小さな音が聞こえた。
錆びついて重たかった秒針が、一秒、先へと力強く進んだ。
続いてもう一秒。確かなリズムを刻みながら、私の時間は動き始めた。
もう二度と、誰かの期待に怯えるだけの自分には戻らない。私は私として。「新しい自分」の仮面を被り、この世界を塗り替えていく。
「……見てて」
窓の外、冷たく澄んだ夜空には、私だけの一等星が、あの日よりもずっと強く、揺るぎない光を放って輝いていた。私の時間は、今、この瞬間から加速し、再び幕を上げた。
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