第6話:雨に濡れない声
第6話:雨に濡れない声
一通り私の話が終わると、星乃社長は手元に置いていた白紙のメモパッドを、人差し指の先でトントンと規則的に叩いた。
乾いた音が、静かな会議室に冷たく響く。その音の間隔が、まるで私の死期を刻む秒針のように感じられた。
彼女の微笑みは、まだそこにあった。けれど、その瞳の奥にある光が、ふっと温度を失ったのを、私は肌が粟立つような予感とともに感じ取った。
「……ねえ、如月さん。一つ、聞いてもいいかしら?」
「はい、何でしょうか」
私は、崩さない笑顔のまま問い返した。頬の筋肉が強張っているのが自分でもわかる。けれど、ここで表情を崩すわけにはいかない。「天才子役」のプライドが、私に完璧なポーカーフェイスを強要していた。
しかし、そんなポーカーフェイスですら粉々に砕けるかのように、星乃社長は、私の目をじっと見つめたまま、どこまでも透き通った口調で、残酷なまでに真っ直ぐに言葉を継いだ。
「あなたのそれは、子役時代の悪い癖なのかしら?」
「……え?」
言葉の意味が、一瞬、理解できなかった。
星乃社長は椅子に深く背を預け、憐れむような、それでいてすべてを突き放すような声を出す。
「今のあなたの言葉。どこかで聞いたような、誰かが書いたような……。面接としては100点の答えだけど、血が通っていない。あなたの喉から出ているはずなのに、あなたの心を通っていないように思えるわ。……ねえ、如月さん。あなたがさっきから並べている綺麗な言葉の、一体どこに『あなた』がいるのかしら?」
彼女は、何も書かれていない真っ白なメモパッドを、興味を完全に失ったかのように机の端へ押しやった。
「10年だったかしら?……ずっとつまらない答えしかしないのね、あなた」
「つまらない」。その言葉が、私の胸を鋭いナイフとなって貫いた。今まで培ってきた、私のすべて。100点を目指して、正解を探して、自分を押し殺してまで磨き上げてきた「完璧な演技」が、たった一言で価値のないゴミのように捨てられた。
呼吸が止まる。
指先から血の気が引き、視界の端がチカチカと明滅する。
私はこの10年間、この「完璧さ」だけを頼りに生きてきたのだ。期待に応え、正解を出し、波風を立てずに「如月瑞希」という偶像を維持すること。それが私の生存戦略だったはずなのに。
「……私は、一生懸命、自分ができる限りの誠実さを持って、お答えしたつもりです」
声が震えた。演じていない、制御不能な剥き出しの震え。
星乃社長は、机の上の資料をゆっくりと整え始めた。それは明確な面接の「終了」の合図だった。
「そうね、一生懸命『正解』を演じているのは伝わったわ。でもね、如月さん。私たちが探しているのは、そんな綺麗なだけの人形じゃないのよ」
星乃社長の言葉は、容赦なく私の傷口を抉る。
「……雨の中を走り、泥だらけになって、時間を過ぎてまでここへ来た。なりふり構わずここに飛び込んできた、その『泥だらけの理由』が聞きたかったのに。……あなたの声は、まだあの雨に濡れてもいないのね」
星乃社長の言葉が、あまりにも遠く、氷のように冷たく感じられた。
「残念だわ。……もういいわよ、如月さん。帰って温かくして休みなさい。今日のあなたは、期待していた……いえ、想像していたような表現者では、なかったわ」
そう言って、椅子から立ち上がろうとした。
私の視界が、屈辱と絶望で白く染まる。
帰れ?
あんなに走って、泥を被って、プライドをかなぐり捨ててまでここまで来たのに。
結局、私はまた「つまらない」「空っぽ」だと言われて、あの暗い部屋に戻るのか。また明日から、自分の本当の思いを押し殺して、何者でもない自分に怯えながら、誰かの書いた台本通りに生きていくのか。
――ふざけるな。
私の喉の奥で、ドロドロとした黒い塊が熱く脈動し始めた。10年間、深い地層の下に押し殺してきた感情が、地圧に耐えかねたマグマのようにせり上がってくる。それは「如月瑞希」という完成された虚像を、内側から食い破ろうとする、醜くも切実な「私」の胎動だった。
「……ふざけないでよ」
低い、濁った声が漏れた。
星乃社長が椅子から腰を浮かせたまま、ぴたりと動きを止める。
「あら?……何か言い残したことはあるかしら?」
彼女は椅子に座り直すことなく、立ったまま私を見下ろした。
その視線が、火に油を注ぐ。
私は、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
握りしめた拳が、怒りで、あるいは自分自身を解き放つことへの恐怖で、壊れた機械のように激しく震えている。
「つまらない……?人形……?私がどんな思いでここまで走ってきたかも知らないで、勝手なこと言わないでよ!」
私は、自分でも驚くほど、腹の底からの咆哮を上げていた。それは完璧な発声でも、計算された演技でも、誰かに望まれた正解でもない。
ただの、泥まみれで惨めな、一人の女の魂の決壊だった。
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