第4話:刻み始める秒針
第4話:刻み始める秒針
アパートを飛び出した瞬間、鉛色の空から降り注ぐ氷のような雨が、容赦なく私を叩いた。傘なんて差していられない。そんな暇があるなら、一秒でも早く駅へ行かなければならない。
「……はぁ、はぁっ、っ……!」
冬の冷たい空気が肺に突き刺さり、喉の奥でじわりと鉄の味がした。
アスファルトが雨を吸い、私のリクルートスーツの裾を無情に汚していく。パンプスの中に冷たい水が侵入し、足先から体温を奪っていく感覚がひどく不快で――けれど、その不快感がかえって「生きている」という生々しい実感を私に与えていた。
駅までの道を、私は文字通り泥だらけになって走った。
周囲を行き交う人々が、ずぶ濡れでスーツ姿の私を、奇異の、あるいは蔑みの目で見てくる。
「就活のストレスで壊れたのか」
「かわいそうに」
そんな無言の囁きが、激しい雨音に混じって聞こえてくるようだ。いつもなら、そんな視線に晒されるだけで、私は縮こまって、消えてしまいたくなったはずだ。
けれど不思議と、今はそれが心地よかった。
私は今、誰かの期待する「如月瑞希」でも、就活生という無個性な記号でもなく、ただの「狂った女」として、自分の足で地を蹴っているから。
滑り込むように電車に飛び込み、座席には座らずドアの横に立った。
濡れたスーツが鉛のように重く肌に張り付く。床に広がる小さな水たまりが、私の惨めさを残酷に視覚化していた。車内の鏡に映った自分は、見るに堪えない姿だった。髪は乱れて顔に張り付き、メイクも雨で滲んでドロドロだ。
「……最寄り駅まで30分、駅から会場まで、10分……」
震える手でスマートフォンの画面を見る。午後5時30分。物理的な時間を考えれば、もう間に合わない。それでも、胸の高鳴りは止まらなかった。
10年間、ずっと止まっていた私の秒針が、この激しい雨音に合わせて狂ったように時を刻んでいる。もしこのまま辿り着けなかったとしても、たどり着いて門前払いを食らったとしても。
この「衝動」だけを信じて、台本のない世界へ飛び出した。その事実だけで、私は初めて自分を赦せるような気がしていた。
駅の改札を抜けると、雨はさらにその勢いを増していた。駅ビルの巨大なデジタルサイネージが、極彩色の光で雨粒を照らしている。その光の下を、私は濁った水飛沫を上げて駆け抜けた。
坂道を登るたびに、体力が削られていく。スーツは完全に雨を吸い、私の自由を縛る。足がもつれ、一度派手に転んだ。掌に砂利が食い込み、膝が汚れる。
けれど私はすぐに立ち上がった。痛みさえ、私が前進している証拠だと思えば愛おしかった。
たどり着いたオーディション会場のビルの入り口。
そこには、数分まで賑わっていたであろう『FVSプロジェクト・オーディション会場』の立て看板が、すでに片付けられ、壁に立てかけられていた。
時刻は、午後6時10分。
オーディションの終了時刻から、すでに10分が経過していた。自動ドアが開き、ロビーに足を踏み入れる。そこには、数分前まで繰り広げられていたであろう喧騒の余韻さえ残っていなかった。
静まり返ったフロア。掃除機をかける清掃員と、カウンターで淡々と書類を整理している受付の女性。
「……はぁ、はぁ……っ、はぁ……!」
私は、ロビーの中央で立ち尽くした。
濡れた服から雫が滴り、磨き上げられた大理石の床に不吉な染みを作っていく。その音が異様に大きく響くほど、建物の中は静かだった。
「……あの、お客様?」
受付のそばにいた警備員が、怪訝そうな顔をして歩み寄ってきた。当然だろう。ずぶ濡れで、泥だらけのスーツを着た女が、肩を大きく上下させて絶望的な形相で立っているのだ。不審者以外の何者でもない。
「オーディションを……受けに、来ました。如月、瑞希です」
私は、震える声で自分の名前を口にした。
10年前、私が拒絶し、隠し、忌み嫌ってきた名前。
けれど、その名を聞いても警備員の顔には何の反応もなかった。彼はただ、困ったように時計を見ただけだ。
「オーディション?ああ、FVSの……。でもお客様、オーディションは先ほど終了しました。面接官の方々も、もう撤収しています」
「……お願いします。1分……1分だけでいいんです。声だけでも、聴いてください……!」
自分のプライドが粉々に砕ける音がした。かつての「天才子役」が、ルールを破って、見苦しく食い下がっている。
惨めだった。
滑稽だった。
けれど、ここで引くわけにはいかなかった。ここで引いたら、私は本当に「死ぬ」のだと本能が叫んでいた。
「ダメですよ。……さ、風邪を引きます。お帰りください」
警備員の手が私の肩を掴み、外へ促そうとする。その力は強く、明確な拒絶そのものだった。
ああ、やっぱり。
私は、最初から分かっていたんだ。遅れてきて、準備もしていなくて、こんな格好で。
未来は変わらない。私はまた、この冷たい雨の中を、自分の「過去」という名の遺体を背負って帰るだけなのだ。
絶望が視界を遮り、膝の力が抜けそうになった、その時。
「――騒がしいわね。何事かしら」
背後から、凛とした、けれどどこか春の風のような柔らかさを孕んだ声が響いた。
振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
上質な紺色のビジネススーツを完璧に着こなし、タイトにまとめた髪が知的な印象を与える、美しい女性。彼女は、厳格な経営者というよりは、どこか浮世離れした、飄々とした空気を纏っていた。その瞳はすべてを見透かしているかのように澄み、私を真っ直ぐに射抜いた。
警備員が慌てて手を離し、姿勢を正す。
「星乃社長。……申し訳ありません、この方がどうしてもと……」
彼女はゆっくりと歩み寄り、私の目の前で止まった。鼻をくすぐる上品な花の香りと、私の体から漂う雨と泥の匂い。ずぶ濡れの私を、頭の先から泥だらけのパンプスまで、慈しむような、それでいて鋭い観察眼を湛えた瞳で見つめた。
「……面接リストにない名前。終了時刻を過ぎての到着」
彼女は、ふふ、と喉を鳴らして悪戯っぽく微笑んだ。
「でも……。そこまでして自分を届けたいという熱意は、確かに伝わったわ」
星乃社長は、私の震える指先をそっと見つめ、それから再び私の瞳を覗き込んだ。
「面白いじゃない。予定外だけど……少しだけあなたの時間を、私にちょうだい?」
彼女は優雅に踵を返し、奥の会議室へと歩き出した。
「来なさい。あなたの『声』に、私を納得させるだけの価値があるのか。……試してあげるわ」
「あ……ありがとうございます!」
私は、濡れて重くなった足を一歩、前に踏み出した。
10年間、止まっていた私の秒針が、今、重厚な音を立てて未来を刻み始めた。
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