第3話:5時15分の亀裂
第3話:5時15分の亀裂
1月8日、午後5時。
1週間前に降り始めた冬の気配は、さらにその鋭さを増し、私の薄い心臓を外側から凍らせようとしていた。
六畳一間のアパート。窓ガラスは外気との温度差で白く曇り、外の世界を曖昧な境界線の中に閉じ込めている。私はその曇りガラスに、指先で意味のない円を描いた。
指先に伝わる結露の冷たさが、じわりと体温を奪っていく。垂れてきた雫が私の指を濡らし、そのまま手首を伝って袖口に吸い込まれた。湿った不快感が、今の私の輪郭を象徴しているようだった。
机の上では、ノートパソコンがスリープモードに入るたびに、私のわずかな動きを感知して、青白い光を放ちながら再起動する。開かれているのは、プロジェクト『FVS』のオーディションページ。今日が最終日。
「……バカみたい」
何度、その言葉を独り言として虚空に放っただろうか。
この1週間、私はまるで何かに取り憑かれたように、このページを眺めていた。就職活動の合間に、冷めた食事の最中に、寝る前の暗闇の中で。
画面の向こう側に、いつの間にか公開されていたメインキャラクターのビジュアル。彼女のプロフィールを読み返すたびに、私の喉の奥には、酸っぱい胃液のような不快感と、同時に、どうしようもないほどの渇望がせり上がってくる。
『未来が見えるから、何にも期待しない』
彼女の冷めた視線の先にあるのは、物語の中の絶望かもしれない。けれど、私の視線の先にあるのは、あまりにも現実的で、解像度の低すぎる未来だ。
明日も、明後日も、私は自分を殺して面接会場へ向かう。そこで「如月瑞希」という過去の残像に晒され、愛想笑いを浮かべ、そして不採用通知を待つだけの、予定調和な敗北。
そんな未来なら、私にだって嫌というほど見えている。
分かっている。今さら役者に戻ったところで、何が変わるわけでもない。ましてやVtuberだ。キャラクターの皮を被り、声をあて、架空の存在として振る舞う。
それは、私が幼少期に吐き気がするほど繰り返した「お芝居」そのものではないのか。また誰かの書いた台本を渡され、求められるままの「健気な少女」を出力する。そんな場所に、わざわざ戻って一体何の意味があるというのだ。
――いや、違う。
心の底の、黒い澱のような場所から、小さな、けれど鋭い声が響く。
顔を隠せるのなら。名前を捨てられるのなら。
日本中の誰もが知っていた「天才子役・如月瑞希」という忌々しい看板を、完全に下ろした状態で叫ぶことができるのなら。
それは、私にとって「芝居」ではなく、人生で初めての「告白」になるのではないか。
時計の針が5時15分を指した。
オーディション最終日。
「……無理だよ。今から何を準備するの」
私は力なく立ち上がり、姿見の前に立った。
1時間前に面接から帰ってきたままの、黒のリクルートスーツ。白のシャツの襟元は、緊張の汗と埃で少しだけ汚れている。鏡の中の私は、どこからどう見ても、ただの「就職に失敗し続けている大学生」だ。
準備なんて何一つできていない。プロとして、いや大人としてあるまじき無計画。
『瑞希ちゃんは、本当にいい子ね。大人の言うことを何でも聞いてくれるし、完璧だわ』
ふと、かつての監督の、温かいけれど逃げ場のない言葉が耳元で蘇る。
私はいつだって「いい子」だった。計算して、間に合うように、失敗しないように。監督が求めるタイミングで瞬きをし、カメラが回る瞬間に最高の笑顔を作り出した。
周囲の顔色を伺い、期待を先回りして、誰からも愛される「如月瑞希」という偶像を維持すること。その「計算」と「臆病」の成れの果てが、この空っぽの22歳だ。
「……失敗したって、いいじゃない」
声が震えた。
自分を繋ぎ止めていた鎖に、初めて目に見えるほどの亀裂が入ったような音がした。
完璧主義という名の病。失敗を恐れて動けない臆病さ。それが私をこの六畳一間に閉じ込めていた。
もし、今ここから走り出さなければ。
私は一生、この狭い部屋で「あの時もし……」という後悔を抱えたまま、生きた屍のように腐り続けるかもしれない。オーディションに受かるかどうかじゃない。
この「如月瑞希」という名の檻から、自分の意志で一歩外へ踏み出せるか。不格好でも、無計画でも、泥だらけでも。それだけが、今の私にとっての死活問題だった。
「間に合うとか、間に合わないとか……そんなこと、どうでもいい!」
私はカバンを乱暴に掴み、財布とスマートフォンだけを放り込んで、部屋を飛び出した。
玄関の鍵を閉める手さえもどかしい。しかし、力強く閉めた扉の音が、私の過去との決別を告げる銃声のように響いたように思えた。
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