第2話:1月1日の雨
第2話:1月1日の雨
1月1日。
世界が新しく始まるはずの日に、私はまた一つ、自分の未来を諦めようとしていた。
窓の外からは、時折、遠くの寺から響く除夜の鐘の名残や、新年を祝う人々の微かな喧騒が聞こえてくる。けれど、私の住む築20年のワンルームアパートだけは、まるで時間の流れから切り離された空白地帯のようだった。
実家に帰る気力は、とうの昔に枯れ果てていた。内定の一つも取れず、過去の遺産で食い繋いでいるような今の私が、両親の期待に満ちた眼差しに耐えられるはずもない。狭い部屋に充満するのは、埃っぽい空気と、コンビニで買った安っぽい蕎麦の残り香だけ。
私は一人、暖房の効きの悪い部屋で、冷え切った布団の中に潜り込んでいた。手元のスマートフォンが、暗闇の中で青白く心臓の鼓動のように明滅している。
新年の挨拶で賑わうSNS。幸福の押し売りのようなそのタイムラインを、私は自傷行為に近い感覚で、無意識にスクロールし続けた。
「今年も最高の一年に!」
「内定先の同期と新年会!」
眩しすぎる言葉の礫が、網膜を通り越して直接脳を突き刺す。画面の向こうにいる彼らは、確かな実体を持って未来を歩んでいる。
一方の私はどうだろう。指先一つで消えてしまいそうな、解像度の低い幽霊のような存在ではないか。
その時だった。
毒を飲むような気持ちで眺めていた画面に、一つの広告が異質な熱量を帯びて滑り込んできた。
『Future Visioned Star ~未来を見通す煌星~』
――プロジェクトFVS、始動。
【Vtuberオーディション:あなたの「声」で未来を書き換えろ】
「Vtuber、ね……」
乾いた声が、誰もいない部屋に虚しく響いた。
画面の中で歌い、踊り、感情を爆発させる彼女たちの姿は、ここ数年で嫌というほど目にしてきた。アバターという「肉体」を被り、現実の自分とは切り離された場所で、誰かの理想を体現する表現者。
それは、今の私とは正反対の、一番遠い宇宙にある仕事のように思えた。
けれど、私の指は磁石に吸い寄せられるように、募集要項のページをタップしていた。
読み込みの数秒間、暗転した画面に自分の顔が映る。目の下に隈をこしらえた、生気のない女。10年前の「如月瑞希」とは似ても似つかない、ただの抜け殻。
画面が切り替わり、一人の少女のイラストが映し出された。
新しく始まるプロジェクトの主人公。
金髪を揺らし、どこか冷めた、それでいて何かを激しく拒絶しているような鋭い瞳を持った少女。キャラクター設定の欄には、こう書かれていた。
『未来を視ることができるがゆえに、確定した未来を恐れ、未来に絶望している女子高生。彼女が求めているのは、運命という名の台本を破り捨てるための力』
心臓が、今日一番の強さで脈打つのを感じた。
台本。絶望。確定した未来。
そこに描かれている言葉の断片が、私の皮膚の下を這うドロドロとした感情と、恐ろしいほどの精度で共鳴していく。
そのキャラクターの瞳は、まるで鏡のように私を見つめていた。あの公園のベンチで、誰にも届かない悲鳴を押し殺していた時の私の瞳だ。
「……今さら、また『役』を演じるなんて。それも、アバターを被って、正体を隠して?」
自嘲気味に呟きながらも、私の目からはその姿が離れなかった。役者という仕事は、あの12歳の夏に捨てたはずだった。
誰かの書いた言葉をなぞり、期待された涙を流すだけの、心のない出力機械。あんな苦しい場所には、2度と戻りたくない。
けれど、もし。
もし、このアバターという鉄壁の仮面の下でなら?
「元天才子役」でもなく、ましてや「無能な就活生」でもない、何者でもない私として、息をすることができるのだろうか。
世界中が私を知っていても、誰も本当の私を見つけることができない場所。
それは、想像するだけで震えが止まらないほどの、甘美な誘惑に思えた。
「……どうせ、私には無理だよ。もう、声の出し方だって忘れた」
自分を繋ぎ止めるように布団を強く握り込み、スマートフォンを枕元に放り出した。新しい世界に飛び込む勇気なんて、どこを探しても見当たらない。私はただ、このまま静かに朽ちていくのがお似合いなのだ。
外では、予報通りに雨が降り始めていた。
窓ガラスを叩く不規則な雫の音。
その冷たい調べを聞きながら、私はただじっと、光の届かない天井を、瞬きも忘れて見つめ続けていた。
1月1日。
世界が新しく始まる日に、私の心には、名もなき小さな火が灯ろうとしていた。それは希望と呼ぶにはあまりに危うく、呪いと呼ぶにはあまりに切実な、再生の予兆だった。
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