第28話:4つの「正解」という壁
第28話:4つの「正解」という壁
アフレコ収録という険しい山を一つずつ、泥にまみれながら越えてきた私たちに、ついに最後の、そして最大の試練が課せられた。
プロジェクト『FVS』の象徴となるユニット楽曲。タイトルは――『Future Visioned Star』。
5月の半ば。窓の外では初夏の陽気が街を包み始めている。これまでの狭いアフレコブースとは違う、数十人が一度に入れるほどの巨大な空間。その中心に立つ4本のマイク。横一列に並んでそれに向かう光景は、どこか神聖な儀式のようでもあり、同時に処刑台を待つ囚人の列のようにも思えた。
ヘッドセットを装着すると、外界の音がふつりと消え、自分の心臓の鼓動だけが耳の奥で重く鳴り響く。コントロールルームの分厚い防音ガラスの向こう側では、無数の精密なインジケーターやスイッチが青白く、静かに明滅していた。
「皆さん、準備はいいかしら?これがデビュー前、最後の大きな仕事よ」
白河ディレクターの声がスピーカーから響き、スタジオ内の空気が一気に数度下がったような錯覚に陥る。モニターの向こうには、星乃社長も腕を組んで立っていた。
彼女の鋭い視線が、まるで物理的な質量を持って、私たちの肌をチリつかせる。「どれだけ成長したのか見せて?」――その沈黙の問いかけが、私の背筋を冷たく、けれど逃げ場のないほど熱く撫で上げていく。
実は、それぞれの個人楽曲の収録は、数日前にすでに終えていた。
かつての子役時代、私は「演技」という形であらゆる感情を模倣し、出力してきた。悲しみ、怒り、喜び。台本に書かれた記号を、100点の表情と発声に変換することに関しては、誰よりも長けていた自負がある。
けれど、「歌」として自分自身の声をさらけ出すのは、今回が人生で初めてだった。一人でマイクの前に立った時、自分の吐息一つさえ頼りなく、奈落の底に落ちるような不安に足がすくみそうになった。演技という仮面がない状態の自分の声が、これほどまでに無防備で、不格好なものだとは知らなかったのだ。
けれど、今は違う。
隣を見れば、共に泥を啜り、傷を分かち合ってきた仲間がいる。
静寂を盗む詩音さん、真実を抱えた若菜さん、そして墜落から立ち上がったひよりちゃん。3人の体温を感じるだけで、私の震える喉は不思議と力強く支えられていた。
「……瑞希ちゃん、大丈夫?手、震えてるわよ」
詩音さんが、マイクのセッティングを直しながら、私にだけ聞こえるような小さな声で言った。私は自分の握りしめた拳をそっと解き、小さく頷く。
「……大丈夫です。ただ、少しだけ、武者震いしているだけですから」
イントロが流れ出す。デジタルな電子音と、重量感のある生楽器が融合した、疾走感溢れるアップテンポなナンバーだ。
歌詞には、過去に傷つき、立ち止まった者たちが、新しい自分を「予知」して未来へ踏み出す決意が込められていた。まるで、私たちのこれまでの泥臭い道のりを、そのまま残酷なまでに鮮やかに書き留めたような言葉たち。
最初は、一人ずつフレーズを繋いでいく。
まずは私だ。西園寺イブとしての低体温な、けれど芯の通った声。私はこれまでのレッスンの成果をすべてぶつけるように、機械のように正確無比なリズムを刻んだ。一分の狂いもないピッチ。完璧なブレスの制御。
続いて、詩音さんが声を重ねる。彼女の歌声は、まるで聴く者の耳元で囁くような遊び心と、大人の色気が同居している。自由奔放に旋律を跳ね回る彼女のスタイルは、聴く者を一瞬で「怪盗」の世界へと誘う。
さらに若菜さんの声が、地響きのような圧倒的な安定感で土台を支える。一音一音が重厚な鐘のように、深く美しく響く。それはアナウンサーとしてのキャリアで培った「言葉への責任」が、歌声という形に昇華されたような重みがあった。
そして最後、ひよりちゃんの歌声が、雲を突き抜けるようにどこまでも真っ直ぐに、純粋な高音として響き渡る。病み上がりとは思えないほどの力強さと、泥臭いまでの生命力。
個々で見れば、それは紛れもなく、誰からも称賛されるであろう100点の音だった。
私がこれまでずっと、自分を殺してでも必死に守り抜いてきた「正解」そのもの。これなら文句は言われない。私たちは完璧なチームだ。そう、確信した瞬間だった。
「……瑞希、少し止めて」
白河さんの手が、無造作に、けれど冷徹に止まった。ヘッドフォンを外すと、スタジオ内に、先ほどまでの熱狂が嘘のような、耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。
「……個々の声は完璧よ。不備なんて一箇所もないわ。でもね」
白河さんの声が、スピーカーを通じて、冷たく私たちの足元を濡らしていく。
「今のままだと、4つの『正解』が空中でぶつかり合って、お互いを消し合っているわ。……瑞希、あなたは周囲の顔色を伺いすぎ。3人の声に合わせようとして、自分の核を消している。詩音さんは自由すぎて、隣の誰かが溺れていることに気づいていない。若菜さんは丁寧すぎて、歌の中に壁を作っているわ。ひよりちゃんは、明るくあろうとするあまり、みんなの音に無理やり自分を埋め込んでいる」
白河さんの言葉に、私たちは顔を見合わせた。
「4つの楽器が、それぞれの部屋で100点の演奏をして、それを強引に合わせただけの音よ。そこには『共鳴』がない」
仲間になり、もやしを食べ、絆を深めたつもりでいた。
けれど、歌という剥き出しの、ごまかしの効かない表現になった途端、私たちはまだ、自分自身の「守り方」を捨てきれずにいる。他人の領域を侵さないように、自分の弱さが露呈しないように。その臆病な「正しさ」が、かえって音を濁らせ、4人の間に見えない境界線を引いていた。
コントロールルームの星乃社長は、何も言わずにただ私たちを見つめている。私たちは、マイクの前で立ち尽くした。100点を出しながら「不合格」を突きつけられた。
私たちはまだ、『仮面』を脱ぎ捨てていなかった。
私の時計が、混乱と焦燥の中で、空回りするように音を立て始めようとしていた。
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