第25話:太陽の休息
第25話:太陽の休息
空気が止まったような静寂の中で聞こえてくるのは、加湿器の微かな動作音と、ベッドに横たわるひよりちゃんの穏やかな寝息だけだ。点滴のボトルから一滴、また一滴と規則正しく落ちる透明な液体が、彼女の疲弊しきった体へと静かに吸い込まれていく。
いつもスタジオを眩しいほどに明るく跳ね回っていた彼女が、こうして白く冷たいシーツの上で、あまりにも小さくなって眠っている。その姿を見るのは、私の胸の奥を鋭い針で刺されるようにざわつかせた。
「……解熱剤が効いて、今はぐっすり眠っているそうよ」
窓際で、詩音さんが静かに振り返った。その表情からは、いつものような不敵な余裕は消え失せ、一人の年上の女性としての、痛切な沈痛さが滲み出ていた。
「若菜さん、瑞希ちゃん。……マネージャーから、彼女の家庭事情を少しだけ聞いたわ」
詩音さんは声を潜め、私と若菜さんをじっと見つめた。その瞳には、知ってしまった者の戸惑いと、やるせない怒りが混ざり合っている。
「ひよりちゃん……実は、大家族の長女なんですって。下に何人も弟や妹がいて、ご両親も共働き。彼女、ここでの過酷なレッスンの後、毎日家に戻ってから、山のような家事と下の子たちの世話を一人でこなしていたそうなの」
「……家事を、一人で?」
若菜さんが絶句するように呟いた。彼女の瞳には、同じチームの仲間としての、隠しきれない動揺と後悔が波紋のように広がっている。
「ええ。それだけじゃないわ。弟たちの学費や家計を助けるために、このプロジェクトにすべてを懸けていた。『私が一番若くて元気なんだから、お姉さんたちを支えなきゃ』って、マネージャーにずっと言っていたそうよ。……あんなに高い熱が出るまで、自分を削って、ずっと無理を重ねていたのね」
脳裏に、ひよりちゃんのあの「完璧なひまわりの笑顔」が鮮明に蘇る。19歳の彼女が、あんなに天真爛漫に振る舞い続けていたのは、それが彼女に許された唯一の「役割」だったからなのだ。
家では弱音を吐けない「頼れる長女」。
スタジオでは現場を冷やさない「みんなの太陽」。
どこにも、ただの「ひより」という一人の女の子として息を吐ける場所はなかった。甘えることも、泣き言を言うことも、彼女は自分に課した峻烈な規律の中で禁じていたのだ。
私は、ベッドサイドの硬い椅子に座り、彼女の指先にそっと触れた。驚くほど細く、頼りない。こんなにも小さな体で、彼女は一体どれほどの未来を一人で支えようとしていたのだろうか。
かつて子役だった頃、私は「周囲の期待」に応えるために自分を殺した。けれどひよりちゃんは「愛する誰か」を守るために自分を燃やし続けていた。
その純粋すぎる献身が、今の私にはあまりにも眩しく、そして、見ていられないほどに痛々しかった。
「……私たち、甘えていたんですね」
私の声が、沈黙の中に低く、重く響いた。喉の奥が焼けるように熱い。
「ひよりちゃんが笑ってくれるから大丈夫だって、どこかで安心していました。彼女が一番、自分の傷を隠して、一番重いものを背負っていたのに。……最年少だからって、私たちが守っているつもりで、実は私たちが彼女の光に、無自覚に守られていただけだった」
自分の「空っぽさ」を嘆き、自室でアバターの微調整に没頭していた自分が、ひどく傲慢で幼いものに思えた。
ひよりちゃんは、自分の許容量を遥かに超えるほどの愛情と責任感で自分を埋め尽くして、それでも溢れ出さないように、必死に、必死に蓋をしていたのだ。
「彼女の『きらり』が、あんなに眩しすぎた理由が、今ならわかるわ」
詩音さんが、眠るひよりちゃんの柔らかな髪を優しくなでた。その指先がわずかに震えているのを、私は逃さなかった。
「自分を殺してでも誰かを照らそうとする……それは彼女の生き方そのものだったのね。でも、そんなの、いつかこうして限界が来てしまうに決まっているじゃない。どうして、私たちはもっと早く、彼女の光の『不自然さ』に気づいてあげられなかったの……」
若菜さんは、ひよりちゃんの細い手首に触れ、祈るように静かに目を閉じた。
「……規律に反します。自分を大切にできない人間が、誰かを真に幸せにすることなど、あってはならないことです。ひよりさんは……あまりにも優しすぎました」
若菜さんの言葉は、自分自身への鋭い戒めのようにも聞こえた。
私たちは皆、欠けたパズルのピースのように、何かを失い、何かを埋めるためにこの場所に集まった。けれど、ひよりちゃんというピースは、自分自身を削り取って、私たちの隙間を埋めようとしてくれていたのだ。
窓の外では春の星座が冷たく無機質に輝き、病院の廊下からは時折、看護師の忙しない足音だけが聞こえてくる。
白河ディレクターからは「収録はひよりが回復するまで延期」との連絡が入った。けれど、私たちの心は少しも晴れなかった。
もし彼女が目を覚ましたとき、彼女は以前と同じように笑えるのだろうか。「若いから大丈夫です!」と、また血を吐くような努力で自分を偽ってしまうのではないだろうか。
私は、彼女の少し冷たくなった手を、自分の体温を分けるように強く握りしめた。
「ねえ、瑞希ちゃん、若菜さん」
詩音さんが、暗闇の中で静かに口を開いた。
「ひよりちゃんが起きたとき、私たちはもう彼女に『太陽』なんて求めちゃいけない。彼女が、自分の弱さを、汚い部分を、全部吐き出せるような……そんな場所を私たちが作らなきゃ。それが、彼女への本当の恩返しになるんじゃないかしら」
「……ええ、賛成です。規律は、彼女を縛るためではなく、彼女を守るために使いましょう」
若菜さんが力強く頷きながら答える。私は、眠る彼女の穏やかな横顔を見つめた。
ひよりちゃん、あなたはもう、一人で無理に光らなくていい。
あなたが暗闇に沈むときは、私たちが星になって、あなたが進むべき道を照らすから。
私の止まっていた秒針は、今、彼女の微かな寝息に合わせて、かつてないほど切実な祈りを込めて時を刻んでいた。
「……ひよりちゃん。ゆっくり、休んで」
私の呟きは、静かな病室の闇に溶けていった。
西園寺イブとしての私の物語は、かつてない停滞の中にあった。
太陽を一時的に失った世界で、私たちは、彼女がもう一度自分のために、誰の期待も背負わずに笑えるための「居場所」を作ろうと、心に誓った。
夜が明ければ、また新しい戦いが始まる。
けれど今の私たちは、もう今までの「バラバラな4人」ではない。
ひよりちゃんという痛みを共有したことで、私たちの魂は、目に見えない強い糸で結ばれ始めていた。
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