第22話:3月の残響と、特別条項
第22話:3月の残響と、特別条項
3月も終わりに近づき、街のあちこちで桜の蕾が今にも弾けそうに膨らんでいる。
プロジェクト『FVS』のアフレコと平行して、私たちを待っていたのは、デビューに向けた、目も眩むような膨大な準備作業の濁流だった。Vtuberとしての立ち振る舞い、複雑な配信ソフトの設定、そして、これから一生を共にするかもしれない「西園寺イブ」としての設定の深掘り。
私は1人、自室でモニターの青白い光に照らされながら、アバターの細かな挙動をチェックしていた。カーテンを閉め切った暗い部屋の中で、液晶の光だけが私の顔を無機質に縁取っている。
「……ここの目線の動き、もう少し冷淡な感じにできないかな。イブちゃんは、視線だけで相手を突き放すような子だから」
マウスを握る手に力を込め、設定数値をコンマ単位で微調整する。画面の中の金髪の少女が、私の意図を汲み取るように、わずかに顎を引いた。その冷ややかな視線が、モニター越しに私を射抜く。指先に神経を集中させていると、時間の感覚は容易に溶けて消え、気づけば窓の隙間から差し込む光が橙色に染まり始めていた。
かつての子役時代なら、こうした地味で緻密な作業はすべて大人が用意してくれた「既製品」だった。私はただ、用意された衣装を着て、指定された場所に立ち、完璧な「解答」を出力すればよかった。
けれど今は違う。このデジタルの器に魂を吹き込み、一人の人間として完成させるのは、私自身なのだ。その圧倒的な責任の重みと、心の奥底から湧き上がるような高揚感に、私は静かに胸を震わせていた。
その時、PCのスピーカーから、空気を弾くような小気味よい通知音が鳴った。画面の端に浮き上がったのは、ディスコードの着信通知。
『月見こはく』
意外な名前だった。規律を重んじ、仕事とプライベートの境界を厳格に引く彼女が、休日の、しかもこの中途半端な夕暮れ時に、特に急ぎの用件もなく通話をしてくるなんて。私は少しだけ背筋を伸ばし、強張った肩を回して緊張をほぐしながら、マウスの左ボタンをクリックした。
《お疲れ様です、瑞希さん。今、お時間はよろしいでしょうか?》
ヘッドセット越しに届いたのは、相変わらず一音一音が水晶のように透き通る、若菜さんの美しい声だった。スタジオの緊張感から解放されたせいか、その声には以前よりも柔らかな余韻が含まれているように聞こえる。
「はい、大丈夫です。若菜さんも、準備作業ですか?」
《ええ。月見こはくのアバター操作を練習していたのですが……。どうしても手の動きが、ニュース原稿を捲るような、あるいは式典での挨拶のような、硬い動作になってしまって。瑞希さんに、コツを伺えればと思いまして》
そこから、私たちは互いの画面を共有し、作業の手を動かしながら、とりとめもない話を始めた。
アバターの指先の動かし方から、配信中に濁流のように流れるであろう視聴者のコメントをどう取捨選択すべきか。若菜さんは「不適切な言葉を拾ってしまった際の配信者としての規律」について、おそらく画面の向こうで深刻な顔をしているであろうトーンで悩み続けていた。私は彼女のあまりの生真面目さに、とうとう耐えきれなくなって声を上げて笑ってしまった。
「若菜さん、そんなに身構えなくて大丈夫ですよ。私たちは『完璧な道徳家』じゃなくて、キャラクターを生きる『表現者』なんですから。少しの失敗だって、月見こはくなら『化かし』の一部にしてしまえるはずですよ」
《……そう、ですね。瑞希さんにそう言われると、不思議と重みのある説得力を感じます》
話題は次第に、先日の収録のこと、そしてあの日、私たちが彼女の心を救うために仕掛けた「優しい嘘」のことに移っていった。
《あの時のこと、改めてお礼を言わせてください。……私、あの日から少しだけ、自分を許せるようになった気がするんです。真実だけが正しいわけではない。誰かを想って、心を震わせるために吐く嘘には、これほどまでの温かさがあるのだと、初めて知ることができました》
若菜さんの声が、微かに潤んだように聞こえた。
画面越しでは、彼女の表情までは見えない。けれど、きっと彼女は今、あの綺麗な瞳を少し細め、冬の終わりを告げる梅の花のような、安らかな微笑みを浮かべている。そう確信できるくらい、私たちの声の距離は、この3時間で驚くほど縮まっていた。
気づけば、話は尽きることがなかった。
互いの好きな物語の話、これからどんな景色をリスナーに見せていきたいか。時には言葉が途切れても、その沈黙さえもが春の夜気のように心地よく、私たちは作業を進める手を止めて、ただ同じ時間を共有している実感を噛みしめていた。
「……あ」
ふと、モニターの右下にある小さなデジタル時計に目をやって、私は驚きの声を上げた。
《どうしましたか、瑞希さん?》
「若菜さん、時計を見てください。もう、19時を回っています」
《……えっ?まさか。……本当ですね。3時間以上も話し込んでいたなんて》
スピーカー越しに、若菜さんの、これまでに聞いたことがないような間の抜けた、けれど楽しげな驚きの吐息が漏れる。
お互いに、時間の経過を忘れるほど何かに没頭し、誰かに心を開くということが、これほどまでに密度の濃い、豊かなものだとは知らなかった。
《……瑞希さん》
少しの間を置いて、若菜さんがどこか照れくさそうに言った。
《もし、まだご予定がなければ……。これから、夕飯をご一緒しませんか?》
「えっ、今からですか?」
《はい。……実は、先日の『もやしパーティー』以来、私の中で守ってきた食の規律が、少しだけ崩れてしまいまして。……無性に、あの、ひよりさんが愛してやまないもやしが山盛りのラーメンが、食べたくなってしまったのです》
生真面目の権化のような若菜さんの口から飛び出した「ラーメン」というジャンクな単語。そのあまりのギャップに私は目を丸くし、次の瞬間には、今日一番の、本当の笑顔になっていた。
「ふふ、いいですね。私も、ちょうどお腹の虫が騒ぎ始めていたところでした」
30分後。私たちはいつもの、黄色い看板が目印のラーメン屋の前で合流した。
街灯の光に照らされながら待っていた若菜さんは、寒さのせいか、あるいは高揚のせいか、少し顔を赤らめて立っていた。
「お待たせしました、若菜さん」
「いえ。……行きましょうか。19時を過ぎたこの時間に、あのような高カロリーなものを摂取するのは……規律に著しく反しますが、今日だけは例外、特別条項です」
店に入ると、威勢のいい掛け声と共に、脂と醤油の混ざった暴力的なまでに食欲をそそる香りが私たちを包み込んだ。
その熱気の中、奥のテーブル席から一際通る声が聞こえてきた。
「……ちょっと待って、まだ食べちゃダメ! まずはスープの表面に浮いたこの脂の層を見て。これが麺をコーティングして熱を逃がさない『守護壁』なのよ。この厚み、今日は完璧な仕上がりだわ……!」
見れば、女性三人組が身を乗り出して丼を囲んでいる。一人の女性が、箸を持とうとする友人を制しながら、まるで聖典を読み上げるような真剣さでラーメンを語っていた。
「いい?この山盛りのもやしは、ただの野菜じゃない。濃厚なスープを中和し、次のひと口をより鮮烈にするための『休息地』。麺、スープ、もやし……この黄金比を崩さずに食べ進めるのが、この店に対する礼儀なのよ!」
「大袈裟ですよ莉央さん。こんなにラーメン熱く語る人初めてみたアタシw」
「明日香ちゃん……このくらいで熱くって言わないで。ラーメンに失礼よ」
「まぁまぁ。分かりましたから……もう食べていいですか?伸びちゃいますよw」
「は?はるちゃん……伸びるんじゃない、スープを吸って『進化』するの!さあ、五感のすべてをこの一杯に集中させて!」
「もう、莉央ちゃんとラーメン屋さんに行くのやめますねw」
「なんでそんなこと言うの!?私たち運命共同体でしょ!?仕事もプライベートも!」
あまりに真っ直ぐな、そしてどこか求道者のような彼女たちの熱量に、私と若菜さんは思わず顔を見合わせて、言葉の代わりに小さく笑い合った。
私たちは空いていた使い古されたカウンターに、並んで座る。
「……瑞希さん。世の中には、私以上に厳しい『独自の規律』を持って食事に向き合う方がいらっしゃるのですね」
「ふふ、そうですね。でも、あんなに楽しそうなら、規律を破るのも悪くないって思えませんか?」
「……ええ。本当に」
「運命共同体は言い過ぎかもしれないですけどねw」
運ばれてきたのは、もはや私たちの「絆」を形にしたかのような、湯気を上げてうず高く積まれたもやしの山。
「……いただきます」
若菜さんは、一口、丁寧にスープを啜ると、とろけるように幸せそうに目を細めた。
デビューという荒波が来る前の、この静かで熱い準備期間。1人でモニターに向かっていた時には感じられなかった確かな体温が、今は隣に座り、一緒に麺を啜る仲間から伝わってくる。
「美味しい、ですね」
「ええ。……本当に」
もやしを一生懸命に頬張る若菜さんの横顔を見ながら、私は確信していた。私たちはもう、ただのビジネスパートナーじゃない。
同じ「嘘」を愛し、同じ「真実」を追い求める、魂の戦友。……大袈裟さもしれないけど、ひよりちゃんも詩音さんも合わせて、4人の運命共同体。それがFVSなんだ。
私の時計は、19時の街の喧騒の中で、かつて経験したことのないほど温かく、そして力強いリズムで加速していた。
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