第16話:静寂という名の毒
第16話:静寂という名の毒
収録が中断された後のスタジオには、湿り気を帯びた沈黙が重く澱んでいた。
コントロールルームの機材が放つ無機質な電子音だけが、耳障りに響く。ブースから出てきた詩音さんは、先ほどまでの華やかなオーラを無惨に剥ぎ取られたかのように、肩を落として立ち尽くしていた。
「詩音さん、お疲れ様です。あの、私、すごく格好良いと思いました!本当に!」
ひよりちゃんが、いたたまれないような顔をして健気に駆け寄った。けれど、詩音さんは「ありがとう、ひよりちゃん」と短く、どこか上擦った声で答えるだけだった。その視線は、いつものように相手を射抜く強さを失い、出口近くの床の暗がりに、まるで逃げ場を求めるように張り付いていた。
若菜さんも、かけるべき適切な言葉を見つけられないようだった。元アナウンサーとして「声」の現場の厳しさを知っているからこそ、安易な慰めが逆効果になることを理解しているのだろう。彼女は硬い表情で、ただ静かに、唇を強く噛んで詩音さんの横顔を見つめていた。
その日の帰り道。
私たちはいつものラーメン屋に寄ることも、コンビニに立ち寄ることもしなかった。ただ、冷え切った駅までの道を、互いの距離を測りかねるような不自然な歩調で、黙々と歩いていた。
夜の東京の街は、暴力的なまでの色彩と音に溢れている。けれど、私たちの間には、冬の夜風が溝をなぞるように冷たく通り抜けていくだけだった。アスファルトを踏む靴音だけが、不規則に、そして空虚に響き渡る。
「……ねえ、瑞希ちゃん」
不意に、隣を歩いていた詩音さんが足を止めた。
振り返った彼女の顔は、街灯の青白い光に照らされて、完璧に引かれたアイラインが、かえって彼女の瞳に宿る深い影を際立たせていた。
「私ね、ラジオの仕事を始めてからずっと……沈黙が怖かったの」
その声は、かつての更衣室での私の独白と同じように、隠しきれない震えを伴っていた。いや、それ以上に切実で、長い年月をかけて蓄積された「呪い」のような重みがあった。
「放送事故っていう言葉、知ってる? ラジオの世界ではね、3秒以上音が消えると、それはプロの敗北なの。リスナーが離れていく。番組の歴史が止まる。スポンサーの顔がよぎる……。だから私は何年も、何年も……1秒の隙間も作らないように、言葉で自分を、そして番組を埋め尽くしてきた」
詩音さんは、自分の細い喉を、自ら締め上げるように強く抑えた。まるで、そこにこびりついた沈黙という名の汚れを、掻き出そうとしているかのように。
「マイクの前に立つと、静寂が肺に回る『毒』みたいに感じるのよ。喋り続けないと、自分の存在が、自分の価値が、シュワシュワと泡になって消えてしまうような気がして……。オペラを演じなきゃいけない、彼女の余裕を表現しなきゃいけないって分かっているのに、私の防衛本能が、あの静かな5秒間を拒絶しちゃうの」
いつも余裕に見えた元ラジオDJの詩音さん。その薄い皮を剥いだ先にあったのは、放送事故という名の奈落に怯え続ける、孤独な表現者の姿だった。
それは、100点の演技という鎧に縋っていた私とはまた別の、積み上げてきた輝かしいキャリアゆえの重すぎる「呪縛」だった。プロであればあるほど、その恐怖は本能の深い場所に根を張り、自分でも制御できない反応として現れる。
「……詩音さん。私は……」
私は、必死に言葉を探した。
けれど、今の私に一体何が言えるだろう。声の仕事に関しては、技術も経験も彼女の方が遥かに上で、私はまだ自分の「空っぽさ」を仲間に打ち明けたばかりの、足元もおぼつかない新人。栄美さんに「0点」と言われたときのあの痛みを共有できても、彼女が背負ってきたラジオの歳月までは、私には分からない。
「ごめんなさい。変なこと言っちゃったわね。……今日は、もう帰るわ。1人で、少し考えたいの」
詩音さんはそう言い残すと、無理やり作ったような歪な微笑みを残して、駅へと続く雑踏の中へ逃げるように消えていった。
残された私、ひよりちゃん、若菜さんの三人は、彼女が消えた人混みを、ただ呆然と見送ることしかできなかった。
「……詩音さん。あんな顔、初めて見ました。……どうしたらいいんですか、私たち……」
ひよりちゃんが、今にも泣き出しそうな声で呟いた。その小さな声は、通行人たちの話し声や車の走行音に掻き消され、夜の冷気に溶けていく。
私たちは、確かに仲間になった。更衣室で心をさらけ出し、同じ「もやし」を食べたことで、一つのチームになったと思っていた。
けれど、お互いの仮面の下にある闇は、思っていたよりもずっと深く、そして冷たく、暗い。
私の止まっていた秒針は動き出したけれど、その先にあるのは、決して綺麗なばかりの景色ではない。夜の冷気が、私の身体を容赦なく突き抜けて、動き始めたばかりの私の心まで、再び凍らせようとしていた。
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