第14話:5点の主人公
第14話:5点の主人公
1週間後のスタジオ。防音扉の向こう側に広がる光景は前回と同じはずなのに、私の網膜に映る色彩はどこか違って見えていた。
コントロールルームに座る霧島栄美さんの、すべてを見透かすような深い眼差し。隣で腕を組む白河ディレクターの、妥協を許さないプロの横顔。そして、ガラス越しのロビーで、自分のことのように拳を握りしめて私を見守る、詩音さん、若菜さん、ひよりちゃん。
私は、1人きりのブースで、マイクの前に立った。
手元の台本は、1週間前よりもずっとボロボロになっていた。書き込まれた「正解」のメモを、私は昨夜、すべて消しゴムで消した。
代わりにそこに残っているのは、何度も何度も指でなぞった跡と、消しきれなかった思考の断片だけだ。
《如月さん。準備はいいかな?宿題の答えを期待してるからね》
霧島さんの声が、スピーカーから静かに流れる。
「……はい。お願いします」
私は短く答え、目を閉じた。
この1週間、私は自分の中にある「空っぽな器」と向き合い続けた。3人と食べたもやし山盛りのラーメン。胸が焼けるような脂の匂いと、仲間たちの体温。
そして、西園寺イブという女の子が、なぜ「もやし」を選び続けるのかという、設定資料の行間にある絶望を、私の身体に流し込んできた。
彼女は、未来が見えてしまう。
結末が分かっているからこそ、自分の意志で選べる「今夜の食事」だけが、彼女に残された数少ない、血の通った抵抗なのだと。
モニターの中で、イブが自嘲気味に口角を上げる。
『……はぁ。また描かれた。最難関の結末。……結局、抗ったところで、この未来日記通りってわけね』
私の喉が、微かに震える。今までなら完璧に制御していたはずの吐息が、コントロールを離れて漏れ出した。
『はぁ……お腹、空いた。……でも、今の私には、これがお似合いよ』
私は、前回「0点」を突きつけられた、あの決定的なセリフに辿り着いた。
『ふふ、……もやしね、確定事項』
その声は、1週間前のような「綺麗な梱包」はされていなかった。
少しだけ掠れ、語尾には、やり場のない感情の「ゆらぎ」が混じっている。けれど、そこには確かに、私が食べた「もやし」の苦味と、それを分かち合った仲間たちの熱が宿っていた。
セリフを言い終えた瞬間、スタジオ内を支配したのは、呼吸さえも躊躇われるような沈黙だった。私は、マイクを握りしめたまま、ガラスの向こう側を凝視した。
……また、間違えただろうか。技術的には、今のテイクは「掠れ」が入りすぎていたかもしれない。
不安が、再び私の器を侵食しようとした、その時。
コントロールルームの霧島さんが、『ふふ』と吹き出すような小さな音をマイクが拾った。
《…… 如月さん、今のテイクだけど》
霧島さんは椅子に深く背を預け、意地悪く、けれど最高に楽しそうに目を細めた。
《……うーん、5点かなw》
「え……っ」
予想だにしなかった「低得点」に、私は思わず呆然と立ち尽くした。ロビーの3人も、一瞬で顔をこわばらせるのが見える。けれど、霧島さんの言葉には続きがあった。
《技術的には、前回よりずっと下手。声も掠れてるし、声量も少ないし、リズムも少し重い。……でもね。前回の100点には何の価値もなかったけど、今日のこの「5点」には、西園寺イブとしての命が宿ってる。 残りの95点は、これから作品を作っていく中で、如月さんがイブちゃんと一緒に見つけていけばいい》
霧島さんは立ち上がり、ガラス越しに私へ向かって、力強く親指を立てた。
《合格。……最高の、5点だったよ。でも録りなおしだねw》
「合格」という言葉が脳に届いた瞬間、全身の力が抜け、膝が折れそうになった。白河ディレクターも、いつになく穏やかな顔で深く頷いている。
ブースの扉を開けると、そこには自分のことのように涙を浮かべたひよりちゃんと、誇らしげに胸を張る詩音さん、そして静かに拍手を送ってくれる若菜さんの姿があった。
「瑞希さん!すごかったです!今の声、本当にもやしの匂いが……あ、いえ!イブちゃんがそこにいるみたいで……!」
「……ふふ、おめでとう瑞希ちゃん。100点の偽物を捨てて、ようやく泥だらけの『主役』になれたわね」
「規律の中にある、真実の響き。……素晴らしいテイクでした、瑞希さん」
三人の体温が、私の空っぽだった器に、温かい色彩を満たしていく。
私はもう、ただの「正解を出す機械」ではない。彼女たちと共に、傷つき、迷い、それでも前を向く、一人の表現者としてここに立っているのだ。
霧島栄美さんが、コントロールルームから出てきて、私の肩をぽんと叩いた。
「如月さん。あなたの器が空っぽなのは、それだけ多くの『命』を受け入れることができる、最大の才能かもしれないね?……これからが楽しみだね、5点の主人公さん」
「……はい! ありがとうございます!」
私は、深く頭を下げた。
私の止まっていた秒針は、今、仲間たちとの共鳴という、力強く、瑞々しいリズムで加速し、未来を刻み始めた。
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