第11話:100点の回答用紙
第11話:100点の回答用紙
防音室の重厚な扉が閉まると、そこは外界の喧騒を一切遮断した、無菌室のような静寂に包まれた。
分厚い鉛が練り込まれた扉の向こう側には、外の騒がしい喧騒も、冬の冷たい風の唸りも存在しない。ただ、空調の微かな稼働音と、自分の耳の奥で鳴る拍動だけが、私が生きていることを証明していた。
プロジェクト『FVS』の契約から2週間。
発声基礎、ストレッチ、滑舌練習――それらの基礎レッスンを終えた私たちが今日挑むのは、初めて映像に合わせて声を当てる「アフレコ訓練」だ。
コントロールルームのモニターの前に、白河ディレクターと並んで座る1人の女性がいた。
柔らかなベージュのカーディガンを羽織り、どこか春の陽だまりを思わせる穏やかな笑みを浮かべてこちらを見つめるその人は、霧島栄美さん。
彼女はVtuber事務所『Fmすたーらいぶ』4期生、皇ジャンヌとして活動する現役のトップVtuberだ。けれど、私たちが彼女を仰ぎ見る本当の理由は別にある。彼女の正体は、かつて数々の有名アニメ作品でキャラクターを務めてきた元実力派声優。
つまり、この事務所における私たちの直系の先輩であり、声の表現において決して届かない頂に立つ「本物」だった。
《皆さん、初めまして。霧島栄美です。今日は皆さんの『最初の一歩』を見届けに来ました。緊張しないで、リラックスして。自分の中のキャラクターを信じてあげてね?……なんて、私も偉そうに言えるような立場じゃないんだけどねw》
マイクを通した彼女の声は、鼓膜を優しく愛でるように心地よく、それでいて不思議な重みがあった。それは単なる美声ではない。幾千の台詞を喉から絞り出してきた者だけが纏う、言葉の厚みだ。
隣でひよりちゃんが「はいっ! よろしくお願いします!」と元気よく応じ、詩音さんと若菜さんもわずかに表情を和らげる。
けれど、私だけは違った。霧島さんのような「本物のプロ」を前にして、リラックスなどできるはずがない。むしろ、私は自分の神経をかつてないほど鋭利に研ぎ澄ませていた。
霧島さんのような完璧な表現者の前で、一分の隙も見せたくない。私は台本を握りしめ、指先が白くなるほど力を込める。
かつて「天才子役」と呼ばれた私の中に眠る、防衛本能に近い自負が目を醒ます。
大人たちに失望されないために。期待という名のレールから踏み外さないために。私は、誰よりも早く「正解」を叩き出さなければならないから。
アフレコブースの中には、4本のマイクが等間隔で並んでいる。私は中央のマイクの前に立ち、足の位置を固定した。視線の先には、線画段階の西園寺イブが映し出された大型モニターがある。
モニターの端で、タイムコードの数字が目まぐるしく刻まれていく。
今回の課題シーン。設定は、お昼休みに友人の誘惑に負けて高カロリーな弁当を食べてしまい、凄まじい自己嫌悪に陥りながらも、周囲にはそれを悟らせまいと冷めた態度を崩さないシーンだ。
(……タイミング、よし。トーンは低体温。語尾は投げ捨てるように。呼吸は極限まで浅めに)
私は台本に書き込んだ細かなマーキングを脳内のスキャナで読み込み、瞬時に計算を終える。
この呼吸の間隔なら、口の開きにちょうど合う。この音域なら、キャラクターデザインに馴染む。
私は自分の中に、一つの「スイッチ」を構築した。
それは感情に寄り添うためのものではなく、最も効率的に「正解」を出力するための論理回路だ。かつて、何十人もの大人たちが囲む撮影現場で、監督が「もう一回」と口にするのを防ぐために磨き上げた、私の生存戦略そのもの。
モニターの赤いランプが点灯した。
三、二、一――。
『……また、やっちゃった。未来が見えてるのに、自分の食欲すら予知できないなんて。……今日の夜は、もやしね。確定事項』
完璧だった。
自分でも驚くほど、喉が滑らかに動いた。
画面上の口の開きに寸分違わず声を乗せ、低体温な設定を記号的に守りつつ、微かな自嘲のニュアンスをコーティングした。言葉の粒立ちは明瞭で、語尾の消え際まで計算し尽くされている。
ブースの外、ガラス越しのコントロールルームで、白河ディレクターが満足げに小さく頷くのが見えた。
私は、自分の内側で安堵の溜息を吐いた。
やはり、これだ。
私を救うのは、この「技術」なのだ。
私は心のどこかで確信していた。今の演技は、誰にも文句を言わせない「100点」の解答用紙だと。
10年前、監督たちが私を褒めちぎり、母親が満足そうに微笑んだ時と同じ、あの勝利の手応えが、今の私の指先には確かに残っていた。
演技を終えた後、ブース内には再び無機質な静寂が訪れた。他の3人は、私の淀みないパフォーマンスに圧倒されたのか、一瞬だけ言葉を失っているようだった。ひよりちゃんに至っては、尊敬の眼差しさえ向けてきている。
私は、わざとらしくない程度の控えめな態度で、白河ディレクターの指示を待った。次にくるのは「OK」の2文字か、あるいは、より完成度を高めるための細かな修正指示か。
いずれにせよ、私は「優等生」としての立場を盤石なものにした
はずだった。
――けれど。
コントロールルームの霧島栄美さんは、すぐにはマイクを握らなかった。彼女は椅子の背もたれに深く腰掛け、モニターに映る「私の声が乗ったイブ」を、じっと見つめていた。
その沈黙が、一秒、二秒と伸びるたびに、私の自信は僅かな不安へと形を変えていく。
彼女の瞳には、賞賛の色はなかった。
かといって、怒りや失望があるわけでもない。
ただ、深い霧の奥にある深淵を覗き込むような、何とも言い難い静謐さがそこにはあった。
ようやく、彼女がゆっくりとマイクを手に取るのが見えた。
《……ごめんね。初めてでここまで出来るのは、本当にすごいことだよ。一回、止めようか》
霧島さんの、穏やかで落ち着いた声がスピーカーから響いた。その声音は先ほどと変わらず優しい。
けれど、その奥に潜む、本物の表現者だけが持つ「冷徹なまでの観察眼」が、私の張り巡らせた防御壁を容易く突き破ってくるのを感じた。
「如月さん。技術は100点だね。タイミングも、発声も、滑舌も、文句の付けようがない。現役の声優さんでもなかなか1回で合わせるのは難しいよ。すごい」
私は小さく胸を撫で下ろそうとした。「天才」としての面目は保たれた。そう思ったのだ。けれど、霧島さんの言葉は、そこで途切れてはくれなかった。
《でもね……。西園寺イブちゃんとしては、0点かな》
頭を巨大な槌で直接殴られたような、激しい衝撃だった。
0点。
私が、誰にも文句を言わせないために。
この場所から追い出されないために。
私の持てるすべてを動員して叩き出したはずの「正解」が彼女の目の前で、音を立てて崩れ落ちた。
コントロールルームの向こう側で、ひよりちゃん、詩音さん、若菜さんが固唾を呑んで見守っているのが分かる。彼女たちの視線が、針のように鋭く私の肌を刺す。
私は1人、マイクの前で立ち尽くした。自分が信じていた100点の解答用紙が、実は真っ白な白紙に過ぎなかったことを告げられたかのような、底なしの恐怖。
霧島さんの射抜くような眼差しを直視できず、私は自分の足元を見つめるしかなかった。
私の秒針が、激しく、痛みを持って軋みながら、再び「本当の絶望」へと向けて動き出そうとしていた。
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