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第9話 隔ての橋

 静かに流れる水の上にかかる、緩い反り橋。

 変わった擬宝珠(ぎぼし)をもつその赤い橋を渡ったのは、何日前のことだろう。染み入るような水音とは対照的に、左手の彼方には白い瀑布の音がほとばしる。辺りを包む薄い霧は橋の中央からさらに濃くなり、その先は何も見えない。


「ここを進めば、帰れるんだよね……?」

 

 頼りない声色に反応したのか、傍らの琥珀が朱華を見上げた。物言わぬ瞳は落ち着いていて、でも少しだけ哀しそうにも見える。朱華はわずかに屈むと、琥珀の頭にそっと手を置いた。


「ここまで送ってくれて、ありがとうね、琥珀」


 琥珀は大きな黄金色の目を見開きながら、グルルと低い声をあげた。


「一緒にいられて、楽しかった……」


 柔らかい毛並みを整えるように、朱華は琥珀の大きな頭を包み込んだ。琥珀は甘えるように、その大きな体をすりつけてくる。

 里の人々は橋には無断で近づけないと聞いたが、琥珀は当たり前のようについてきてくれた。なぜ自分にだけなついてくるのか、理由はわからなくても、指先に離しがたい温もりが残った。


「もう、会えないけどね……」

 

 消え入るような声は霧に飲み込まれた。重みを増した風が、朱華の耳朶(じだ)をかすめていく。湿って緩んだ目をその毛並みに押しつけても、琥珀は動こうとはしない。琥珀の体温に身を預けていた朱華は、耳に届いていた水音が、ふっと途切れたことに気づいた。


「……帰るのか」


 朱華ははっとして、声のした方に視線を滑らせた。細かな霧が漂う中でも、その蘇芳色の衣ははっきりと見えた。


「……蘇芳さん」


 間をおかずに立ち上がった朱華の前で蘇芳は足をとめた。手を伸ばせば、触れるか触れないかの距離をおいて。


「……もう歩けるのか?」


 見下ろす瞳に冷たさはなく、凪いだ光を包み込んでいるようだった。


「はい。あの……お世話になりました」


 頭を下げた朱華に軽く頷くと、蘇芳はわずかに顎をあげて朱色の橋を見やった。


「あの橋を渡れば、元の世界につながる。……行き先は、都度(つど)変わる」


 蘇芳に倣うように橋を見つめていた朱華は、ゆっくりと目線を蘇芳に戻した。

 この人は心を読むのだろうか?行き先への不安を見透かされたようで、朱華の心臓が小さく跳ねた。だがその動揺を見せないように、朱華は改めて深々とお辞儀をした。


「今回は本当に……ありがとうございました。このご恩は決して忘れ――」

 

 “ません”と言おうとして、朱華は口ごもった。ここでのことはすべて忘れると言われた。そう、すべて忘れるはず……琥珀のことも、目の前のこの人のことも……。

 横たわった沈黙に、顔をあげるきっかけを失ってしまった。早鐘を打つ心臓を抑えようと胸に手をおいた朱華の上で、蘇芳の落ち着いた声が響いた。


「礼はいい」


 わずかに間が落ちた。


「そろそろ行け」


 顔を上げると同時に、琥珀が濡れた鼻を腕に押しつけてきた。


「元気でね、琥珀」


 朱華は震える指先で琥珀の頭をもう一度撫でると、思い切るように顔を背けた。橋に向かい、所々朱の剥げた橋板に踏み出すと、ギシっと沈むようにきしんだ。障害物があるわけでもないのに、なかなか足が先に進まない。琥珀に乗せられてやってきた時は、知るよしもなかった狭間の重みがのしかかってきた。

 朱華はいま一度橋の前方に視線を送った。橋の終わりは濃い霧に阻まれて、確かなものは何も見えない。あの先に、再び冥婚の雪原が現れることは本当にないのだろうか。心の怯えと足の震えが重なって踏み出せなくなった時、背後から硬い声が届いた。


「……俺が見ている。振り返らずに行け」


 やはりあの人は心が読めるのかもしれない。蘇芳の言葉を握りしめるように胸の前で強く両手を握ると、朱華は足に力を込めた。一歩、また一歩、かかとをつけてはつま先を落とすを繰り返す。目尻からは温かい滴があふれてきた。別れの悲しさか、帰る嬉しさか、理由はわからないが、胸の奥に残ったぬくもりは嘘ではなかった。

 最後の橋板から足が離れたところで、朱華の意識は微睡みの闇に落ちていった。


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