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第8話 翳視(かげみ)の瞳

 穏やかな声だった。だが、その穏やかさの奥には、その場の空気を正すような支配の気配があった。


「まだ生きている人間に、こちらのことをぺらぺらと……」


 溜息交じりに歩いてきた男を見て、白練は檜扇を広げて自らをあおぎだした。


「はは!良い良い!どうせあちらに帰れば、この世界のことなどきれいさっぱり忘れておる!……にしても青藍せいらん、ぬしはいつも小言ばかりじゃ」 


「たまには小言がいらないように、振る舞ってほしいものですね」


 紫紺色の衣にすらりとした長身を包んだ青藍は、ひと目で上に立つ者だとわかる風貌をしていた。わずかに藍を含んだ長い黒髪を束ね、整った柔らかい面差しは中性的でもあったが、その美は人を和ませるものではない。朱華に向けて細められた双眸には、一歩引いた観察者のような光を宿していた。


「……あなたが朱華殿ですか?蘇芳が連れてきた」


「……はい」


「なるほど……」


 礼節を守った穏やかな笑みを口元に浮かべつつも、そこには静かな観察の気配があった。何かを判じかねているのか、その視線や立ち姿にも一切の無駄がない。


「あの……?」


「ああ、失礼。私は青藍と申します。立場は蘇芳や白練と同じようなものです。……ところであなたは、ここに来た理由をご存じで?」


 無駄な抑揚を排した声が、重く静かに落ちた。命令でも忠告でもないのに、その声に朱華の背筋が自然に伸びた。


「いえ……あの……怪我をしていたので……理由とかは、とくに……」


「怪我は良くなりましたか?」


「あっ……はい!おかげさまで」


「それは良かった」


 青藍は微笑を返したが、視線は朱華の背後に移っていく。


「それにしても……」


 青藍の目線を追うように振り返った朱華は、いつの間にか琥珀が寄り添うように背後に立っているのに気づいた。


「琥珀がよくなついてますね。狼を飼ったことがおありで……?」


「いえ!そんな……!ないです!」


 朱華が焦って否定すると、青藍はまた少しだけ表情をゆるめた。


「冗談ですよ」


 朱華は少し脱力し、呆けたように青藍を見上げた。官吏のような堅実な雰囲気を漂わせて、まさか冗談を言うとは思わなかった。つかみ所のない底知れなさがある。

 返す言葉も見つからず、両手を握りしめていた背を琥珀がつつき、朱華は一気に現実に引き戻された。目下の課題は家に帰ることだ。


「あ、あの……どうしたら家に帰れますか?いつになったら……?」


 勇気をふりしぼって切り出した。初対面の人に聞くべきか否か迷ったけれど、この人なら答えてくれるのではないかという根拠のない勘が働いたのだ。その期待に応えるかのように、青藍は事もなげに応じた。


「怪我が治れば、あなたがここにいる理由は何もありませんよ。明日にでもお送りしましょう。そもそもここは生きている人間が来るところではないですから……」


 青藍の言葉に凄みが増したような気がしたのは、気のせいだと思うことにした。少なくとも対する青藍の表情は変わらず穏やかなものだった。


「何じゃ、明日帰るのか?息災にせよ、朱華」


 再びわらび餅をつまんでいた白練が、思い出したように軽快な声を出した。見つめる庭の紅葉はますます濃く深く散りつもり、その異様な赤さが、ここが生者の世でないことを語っているかのようだった。


 ***


「どうじゃ?」 


 一人と一頭の背が長い廊下の角を曲がり完全に見えなくなってから、白練がおもむろに切り出した。


「……どうとは?」


「あの娘のことじゃ。わかっておろうに」


 ぞんざいな物言いとは裏腹に、白練は侍女に目配せして青藍の席を用意させる。青藍は衣の裾をすっと折り込むと、そのまま音もなく座った。


「普通のお嬢さんでしたね。特に邪気のようなものは感じませんでしたし、まずは問題ないかと。ただ……」


 青藍は自分自身にもう一度確認するかのように、一旦言葉を句切った。


「あの目は、翳視かげみの目ですね」


「……じゃな」


 白練はわらび餅をつついた黒文字をくるくると回しながら、鷹揚に頷いてみせた。


 ――翳視かげみの瞳。


 人は誰でも必ず、かげを伴って生まれてくる。どんな時もその翳はぴたりと身に寄り添い、すべての時間を共にするが、生命力が弱り、命の灯火が揺らぎ始めると翳が身から離れ始める。そして死を迎えると、翳は完全に体から離れ、この翳人の里にやって来るのだ。

 その翳を、生者は普通視ることができない。ただ本当に稀に、視ることのできる人間が生まれてくる。翳視の瞳を持つ者――それが朱華だった。


「翳視じゃから、蘇芳は連れてきたのか……?朱華が言っておったように、怪我をしたから連れてきたのじゃろうが、本当にそれだけか?……そもそも冥婚から救い出すのも、何も自分で行く必要はなかろう?部下に任せれば十分じゃ」


「確かに……それと琥珀もおかしいですし」


 肩に滑り落ちてきた黒髪を指先ですっと払うと、青藍は茶を持ってきた侍女に軽く会釈を返した。


「琥珀は蘇芳の霊獣とはいえ、蘇芳になついているかは微妙です。でも朱華殿には明らかになついていました。何かこう、彼女を守ろうとしているような……」


「まったく訳がわからぬ。あの鉄面皮すおうに聞いても、何も答えそうにないしの。……ただ最近封印に揺らぎが出たことと関係なければ良いが……」


 考えるのに疲れたように、白練は大げさな溜息をついた。青藍は黙って静かに頷くが、その瞳の奥ではまだ何かをじっと考えているようだ。


「蘇芳や琥珀もそうですが、あの朱華殿、翳視のうえに冥婚に巻き込まれるとは……生者の世に帰っても、また何か波乱がありそうですね」


 その言葉に、白練はふっと笑みをこぼした。そこにいつもの揶揄の色はない。


「ぬしは、意外と優しい男じゃ」 


「意外と、は余計では?」


「そこは譲れぬ」


 声をあげて笑いながら、白練は真っ白な衣をはたいてさっと立ち上がると、広廂に向かって歩いていった。手を添えた高欄はひんやりとしていて、冷たさと湿気が混ざった風が頬をなでていく。

 今まさに、山の稜線に陽が落ちようとしていた。夕陽に照らされ、白練の横顔は年齢も性も越えたかのような、不思議な空気を漂わせている。


「我はな……青藍」


 逆光を背にして、白練が双眸をすっと細めた。


「朱華とは、また会う気がしておる」


 その言葉は予言か、それとも呪いなのか、白練の表情を読み取ることはできなかった。


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