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第7話 白練(しろねり)という童女

 目覚めてから、何日過ぎただろうか。

 狼の背に揺られたまま、いつの間にか眠ってしまったらしい。気づくと、清潔な布団に寝かされ、障子越しに陽の光が射し込んでいた。 


 この里の人たちは丁寧で、甲斐甲斐しく世話をしてくれる。話しかけても必要以上に答えないので、最初は怒っているのかと思ったが、表情はやわらかいのでそうではないらしい。少しずつだが、微妙に表情も変化することがわかってきた。

 痛めた足は日に二回、清水につけるように言われている。たらいに入れた水を重そうに運んでくれるのも申し訳ないが、驚くほど急速に良くなってきた。聖なる池があって、そこから汲んできた治癒の水なのだと教えてくれた。


 あとはほとんどぶらぶらと、部屋と縁側の往復である。庭の景色は秋一色で、濃い紅葉の葉がしげる木々は圧巻だったが、一日中それだけを見て過ごすというのもどうなのだろうか。

話相手もいない……いや、いるか、話せてはいないが。

 朱華はちらりと後方に視線を送った。すぐに琥珀色の瞳と目があう。あの狼は目覚めた後もずっと、自分の傍を離れない。

 朱華の傍の狼を見ると、まわりの人たちは必ず「琥珀様」と頭を垂れる。瞳の色が印象的な狼は、なんと名前も琥珀だった。皆は“蘇芳様の霊獣様”と言っていて、なかなか近づこうとしない。琥珀も堂々と邸内を闊歩していて、誰に馴れることもない。それなのに、常に朱華の傍にいる。


 もしや監視かと疑う気持ちもあったが、そのわりには琥珀はリラックスしているようだ。朱華が座ると包み込むように背後から臥し、立ち上がるとすっと後からついてくる。モフモフした毛並みは羽毛布団に包まれているようでやみつきになりそうだ。ただ、さすがに厠の前で待たれるのは落ち着かない。

 ここは三食おやつ付きになっていて、昨日は団子が出た。口に入れようとして視線を感じ振り向くと、いつもは臥している琥珀が起き上がり、自分を、いや団子を凝視していた。それも、かなりの熱視線で。


「ほしいの……?」


 霊獣とやらが団子を食べて大丈夫なのかわからなかったが、朱華はとりあえず聞いてみた。琥珀は鼻先を朱華の手にすり寄せ、「くぅん」と犬のような甘えた声を出した。

 朱華は串に刺さった四個の団子を一つだけ取り、琥珀の口元に持っていった。琥珀は大きな口で器用に小さな団子をくわえ一瞬で飲み込むと、そのまま臥して目を閉じてしまった。


「一個で良いの……?」


 そんな大きな体で……?という言葉を飲み込んだが、琥珀は何事もなかったかのように動かない。

 巨体と小さな団子を比較して、朱華はふふっと久しぶりに声に出して笑った。この世界で初めて、自分の笑い声を聞いた気がした。

 何もわからない異郷で、どういうつもりかはわからないが、琥珀の存在は温かく心強かった。


 ***


「朱華様、お呼び出しでございます」

 

 琥珀がぴくりと耳を動かした。

 足もほとんど治ってきた頃、部屋にいた朱華は障子の外から突然声をかけられた。“様”と呼ばれる度、くすぐったくて落ち着かない。幾度か辞退を申し出たものの、この里の人たちは呼び方を改めようとはしなかった。

 誰からの呼び出しなのか、不安と恐れ、そしてほんの少しの期待が混じる。

 案内の者に導かれ、朱華は東対屋の廂に出た。板敷きは冷たく、秋の気配をそのまま宿していた。渡殿へ足を踏み入れたとたん、一層外界の音が遠のいた気がした。いくつもの渡殿を折れた先でひときわ広壮な建物の脇を通った。濃密な空気が漂い、そこがこの邸の中心なのだと説明されずともわかった。やがて踏み入れた開放的な渡殿では、吹き抜ける風が袖を揺らし、紅葉が視界の両側を流れていった。同じような景色が続いているはずなのに、柱の間合いも庭の広さも進むほどに曖昧になる。

 半歩後ろには、琥珀がいつものようにすました顔でついてくる。不意に、視界が開けた。

 突き当たりには格調高い小座敷があり、その前にはひときわ濃い紅葉の庭が広がっている。燃え立つような紅色を拒むように、とりわけ目立つ白銀色が浮かび上がっていた。


「来たか」


 まだ幼さの残る声だった。だがそこにはゆるぎない芯の強さがあった。


「苦しゅうないぞ。近くに来るが良い」


 やや時代錯誤ともとれる言葉が続き、朱華は姿と言葉の落差にたじろいだ。

 目鼻立ちの整った童女が座っていた。艶めく白銀の髪が華奢な背を覆い、弧を描くように上がった目尻に、紫水晶のような大きな瞳を湛えている。だが顔の下半分は、手に持つ檜扇で隠されていた。美しいという言葉で済ますには申し訳ない美貌だが、やはりどこか畏怖を感じさせる。それは蘇芳を見た時と同じだった。


「そちの名は?」


「は、はねず、です……」


 幼い外見に似合わぬ迫力に、朱華の指先は震えていた。


「ふむ……緊張せずとも良い。そこにお座り」


 複数いる侍女の一人が、朱華を少女の正面に導いた。もつれる足を必死に動かしながら、朱華は丁寧に裾を折り込んで正座した。


「我は白練。この世界を統べる、八翳の一人じゃ」


「やつかげ……?」


 不安げにつぶやいた朱華を、白練は怪訝そうに見つめた。


「八翳じゃ。蘇芳から何も聞いておらんのか?」


「……はい」


 白練はふぅと長い息をつき、風をもてあそぶように檜扇を動かした。


「何も教えず放置か。やつらしいの」


 くくっとくぐもった笑いをもらすと、白練は改めて朱華に向き直った。


「聞きたいことがいっぱいある、という顔をしておる。……何が聞きたい?」


 紫色の瞳は、表情につられてくるくると色の濃淡を変える。いかにも楽しそうだ。


「あの……ここはどこですか?」


「そんなことも知らんのか?ここは翳人の里、生者ひとの世と上界のはざまの世界じゃ」 


「かげびとのさと?」


「そう。つまり……そちたち人間が死ぬとやって来る世界じゃ。そちたちはここで三十三年を過ごす。何事もなければ、その先は上界じゃ」


「死ぬと来るって……じゃあ、ここには死んだ人がみんないるんですか?」


「普通はな。じゃが、極悪人はおらぬ」


 白練は檜扇をぽいっと放ると、雪のように白い華奢な手を組みにやりと笑う。


「そやつらは、“枉死おうしごく”に堕ちるからの……」


 朱華はひやりとして、視線を畳の上に落とした。畳の目地の一つ一つが妙にくっきりと鮮明に見える。その先は聞かない方が良いと本能が教えてきた。


「ところで……」


 白練の声が、少しだけ低く重くなった。


「そちは、まだ“生きて”おるの……ここは死者の世界、本来、生者が入って良いところではない」


 その言葉に、朱華の全身にじわりと汗が浮かんだ。


「本来ならば、そちはここで息をすることもできないはずじゃ。浄化されているとはいえ、死者の瘴気しょうきはあるからの」


「え……?」


 朱華ははじかれたように顔を上げた。


「そ、それなら、どうして私は平気なのですか?」


「気づかぬか?」


 白練が意味ありげな笑みを浮かべる。


「そちの周りからは、蘇芳の気が立ち上っておるわ。ここに入る前に、加護を与えられたはず……」


 加護?そんなものをもらっただろうか。蘇芳とはここに来て以来会っていない。だとしたら。


「あっ」


 朱華は小さく声をあげた。そうだ、あの雪の世界から出るとき、琥珀の背に乗せてもらったとき、あの人の目に炎のようなものが見えて体がじんわり暖かくなった。きっとあの時だ。


「蘇芳の気に守られておるから、そちはここの瘴気に害されることもなく、そうして息をしていられる」


 白練は乾いた笑いを漏らすと、手元の菓子を皿ごと持ち上げた。細い指で黒文字をつまむと、小さな餅にぶすっと刺してそのまま口に含んだ。


「うまいの……やはり菓子はわらび餅が一番じゃ」


 先ほどまでの物騒な物言いとは裏腹に、白練は無邪気に菓子をつつき始めた。きな粉に包まれた少し黒光りする餅が、次々と消えていく。


「わらび餅は、本蕨ほんわらび粉を使ったものでなければならぬのよ。……見よ、この艶やかな色を。最近はまがい物が多くて困る」


 菓子を食べる表情からは凄みが消えて、純粋な童女そのものに見える。朱華は突然の話題変更についていけず、なんとも言えない顔で白練を見上げた。それに気づいたのか、白練は優雅に茶を一口啜ると、こほんと一つ咳をした。


「そちにも食べさせてやりたいが……それはできぬ相談じゃ。この世界で作られたものを食べた者は、二度と生者の世に帰れぬゆえな」


「えっ!?」


 朱華の顔色は気の毒なくらいに青白くなった。

 ここに来て何日になる?これまで何回食事をしただろう。昨日の夜も完食してしまった。ぶりの照り焼きに、こんにゃくと人参の白和え、かぶのお味噌汁に、茶飯に……こんな時にかぎってなぜか、食べたものが妙に鮮明に浮かんでくる。


「私、食べてしまいました!この世界でたくさん……!もう戻れないんですか!?」


 朱華の必死な形相に押されたのか、白練は虚を突かれたように目を見開いたが、ふっと余裕の笑みを浮かべた。


「……そんなわけなかろう。そちが食べたのは生者ひとの世の食べ物じゃ。その証拠にそちはまだ“生者ひと”の気を漂わせておる」


 白練は、子供をなだめるような声を出す。


「蘇芳は、その辺もぬかりはないはずじゃ……なんと言っても我らの頭領じゃからな」


 白練はもう一度茶を含むと、紫の瞳で朱華を見つめてくる。そこには威圧的な色はなく、激しい動悸を感じていた朱華は小さく細い息を吐いた。

 だがその直後、白練の瞳が薄い光を含んで朱華の後方に向けられた。廂からの微風が動きをとめ、室内の空気が張りつめた。


「喋りすぎですよ、白練」

 

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