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第6話 かくりよの里

 強い光に目を閉じた朱華は、その光が徐々に穏やかなものになっていくのを感じた。

 薄く目を開けると、霧のようなものがあたりを包み、少し先もぼんやりとしか輪郭を見せない。前を歩いている蘇芳の背も陽炎のようにゆがむが、そこに、突然朱色の橋が現れた。

 霧の中でもなお、その朱色だけが濃く滲むように目立っていた。上に見える擬宝珠ぎぼしは見たこともないような形をしているが、何だか怪しい気品をたたえている。まるで、うつつと夢の境を縫い止めているかのようだ。


 狼は迷いなく一定の速度で進んでいく。時折背につかまる自分を気遣うような仕草を見せる風だが、気のせいかもしれない。だが安定感のある背にゆられて、握りしめていた拳はいつのまにか緩んでいた。初対面の自分を迷いなく背に乗せ運んでくれることに違和感もあったが、澄んだ琥珀色の瞳の奥には、それを甘受しても良いと思える特別な光が見えた気もした。

 ただ、この先への不安は依然としてある。


 自分はこれからどこへ行くのか?


 朱華は霧の合間に見え隠れする、蘇芳色の羽織に視線を転じた。

 蘇芳という人は自分を助けてくれた。悪い人でないことは確かだ。でも正視をためらうような美貌と超然とした姿は完璧に浮世離れしていて、少し怖さもある。

 考えれば考えるほど混乱する頭を振った朱華は、突然右手の前方からたたきつけるような水音を聞いた。目を凝らせば滝が見えた。遠くに連なる峻厳な岩間から、白い筋が勢いよく流れ落ちていた。

 空気の匂いも変わった。少しひんやりとして重い空気だが、霧の合間に感じていた息苦しさは軽減していた。町の雑踏の中で吸い込む空気とは違っていて、木や水の、自然の匂いが濃くなった。

 橋を渡り終えると、朱華は別の世界に入ったと直感した。と同時に、前を歩いていた蘇芳が足を止めた。


「あとは、琥珀そいつが連れて行く」


 蘇芳が振り返ってひと言告げると、突然風が吹き、木々の葉がざわりと波立った。反射的に閉じた瞳が開いた時、もうそこに彼の姿はなかった。


 ***


「お帰りなさいませ」


 一斉に頭を垂れる者たちの間を抜け、蘇芳は板敷きの長い廊下を進んでいった。

 茜に染まる空の下、庭の紅葉がかすかな風に葉を鳴らしていた。足元にもひらひらと葉が舞い落ちては、すぐに風にさらわれていく。

 ここは死者の住まう翳人(かげびと)の里――生者の世でいう“かくりよ”。

 八人の翳守えいしゅ――八翳やつかげによって守られているこの世界では季節がめぐらない。動かない季節こそが、生を終えた証でもあり、頭領である蘇芳の邸は常に秋景色であった。


 部屋に戻った蘇芳が羽織りを脱ぐと、細く引き締まった背のラインがあらわれた。そのまま帯に手をかけ、慣れた所作で刀を外すと静かに脇に置いた。


「蘇芳!」

 

 その瞬間を待っていたのかのように、幼さを残す高い声が響いた。


「……また来ていたのか?」


 蘇芳は視線だけを向け、少しうんざりした声を出した。

 同じ八翳の一人・白練しろねりが立っていた。


「またとは何じゃ!これだけ部屋があるというのに、けちけちするでないわ」


 フンと口をとがらせてそっぽを向く。その拍子に、銀糸の髪がふわりと宙に弧を描いた。“体は幼女、心は熟女”――それは青藍(せいらん)の言葉だが、器に似つかわしくない老成した精神を宿す八翳の最古参である。


「生者が境界を越えた。ぬしが、連れて来たのであろう?」


 紫の瞳には、責める色と興の色が混じっていた。


「ぬしらしくもない。なぜじゃ?」


 白練は腕を組み、尊大な態度のままたたみかけた。


「冥婚に巻き込まれた」


「冥婚?」


 白練が片眉をつり上げた。


「生きたまま絵馬に描かれたということか?あれは亡き者を想う祈りの形じゃ。どこのれ者が」


「危うく、魘界えんかいに引きずり込まれるところだった。……どのみちあそこから生者の世には戻れない。しかも怪我をしていた」


「だから連れてきたと?」


「ああ」


 白練は胡乱うろんな目で蘇芳を見つめる。蘇芳の表情はいつものごとく微動だにしない。


「男?それとも女か?」


「女だ」


「娘か?それとも婆?」


「……娘だ」


「ふぅん」


 白練は細めた瞳に笑みを宿し、すっと蘇芳の前まで歩み寄った。


「珍しいのぅ……ぬしが女を連れてくるなど。永い時を経れば、さすがの氷も溶けるということか?」


「……下らんことを言うな」


 蘇芳はわずかに眉をひそめ、視線を逸らす。


「それとも――その娘、何か“る”のか?」


 白練の声音が一転、鋭く低くなった。


 蘇芳が視線を白練にゆっくりと戻す。


「……気づいたか?」


「当然じゃ。ぬしの纏う気もいつもと違う。その娘、ただの人間ではあるまい」


「……まだわからん」


「そうかのぅ……ぬしの目は、すでに答えを知っているように見えるが?」


 白練は頬にかかった髪を払いながらふわりと笑う。


「まぁ、よい。ぬしが連れてきたのなら、いずれ何かわかろうというものじゃ」

 

 白練はそう言い残すと、くるりと向きを変えて広縁に向かった。銀糸の髪が風を含み、白い背には夕日の光が淡く染み入っていた。

 

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