第5話 蘇芳という男
かばうように、誰かが朱華の前に立った。
驚いて顔をあげた朱華は、雪の隙間に色濃い赤がたなびいているのを見た。呆然としてその背を見つめていると、突然、地を揺るがすような獣の咆哮が響いた。力強く、澱んだ空気を攪乱するかのように、それは幾度も繰り返される。
朱華は雪をつかむように両手に力をこめると、よろめきつつも立ち上がった。気を抜くと目に飛び込みそうな雪を、手をかざして振り払う。目前の背からずれて前に出ると、うずくまっている弥一が見えた。低い、苦悶の声が途切れ途切れに聞こえてくる。
朱華の目は、そのまま隣に立つ男に移った。吹雪く視界の中でも、その姿だけがはっきりと見えた。蘇芳色の羽織が雪の中に脈打ち、艶を帯びた短い黒髪は風をはらんで乱れていた。上背のあるしなやかな立ち姿には、余裕と隙のなさが息を潜めているようだ。ほぼ同時に朱華に視線を向けた男は、黒々とした双眸に一瞬深緋の光を走らせたが、表情を変えずに弥一に視線を戻した。
「あるべきところに還れ」
男は小さく言葉を発すると、右の袖を一閃させた。と同時に、弥一の体から細い光のようなものが立ち始めた。呻き声は徐々にくぐもっていき、とうに落ちていた黒い覆面の下から、苦しげにゆがんだ表情が現れた。険しくもそれはまさしく弥一の顔だった。
「弥一さん……!」
朱華の呼びかけに、弥一は肩を揺らして顔を上げた。誰かをさがすように目線が彷徨ったが、朱華を捉えることはなかった。体を包む細い光が集まり、弥一の顔まで覆い尽くすと、すべては金沙のように舞い上がり消えていった。
朱華は胸をわし掴みされたような息苦しさに耐えながら、ただそれを見ていることしかできなかった。
弥一の体を包んだ光が完全に消えると、薄い粉雪だけが静かに舞い落ちていた。黒装束の行列もいつしか姿を消し、しん、とした静寂が満ちていた。
朱華は思いを振り切るかのように、涙をわざと乱暴に拭うと、隣の男に向き直った。
「あの……助けていただいて、ありがとうございました」
男は朱華を凝視したまま、すぐには言葉を発しなかった。
「あの……私……」
朱華が言葉を継ごうとしたとき、突然背後から鈍い衝撃を受けた。
「え?……きゃっ!」
驚いて振り返った朱華は、さらに反射的に身をのけぞらせた。
――犬がいる。しかも、ものすごく大きな犬が。
雪と見紛う白銀の毛並みを持つ犬が、大きな黄色い瞳で朱華を見つめていた。いや、でもこれは人に飼われるような目ではない。これは、狼だ。多分。
朱華の背中に冷たいものが走った。恐怖で叫びたい衝動に駆られたが、ここで逃げてもどうせ無駄だろう。これはもう腹を括るしかない。握りしめた拳からは汗が滲み出ていたが、覚悟を決めて目を閉じた。どうせ食べるなら一気にやってほしい。
だがいくら待っても、その瞬間はやってこなかった。恐る恐る目を開いた朱華の前に、位置を変えずに自分を見つめる宝石のような瞳があった。透き通った蜂蜜のような色だ。
「琥珀みたい……」
恐怖も忘れて思わず漏らした一言に、横にいた男がピクリと肩を揺らしたようだった。朱華の気も知らず、白銀の狼は体をすり寄せてきた。
「えっ?ちょっと……痛!」
狼の圧にバランスを崩した朱華は、痛めた足に重心をかけすぎて顔をしかめた。緊張で麻痺していた痛覚が戻ってきたようだ。
「怪我をしたのか?」
朱華に向けて、男が初めて口を開いた。決して威圧的ではないが、静かな中に自然と人を従わせるような威厳を含んだ声だ。
「足をちょっと……でも、大丈夫です」
全然大丈夫ではなかったが、朱華はなぜか取り繕おうとした。
「ところで……あの、ここは、どこですか?」
言葉が不自然にぶつ切りになってしまった。普通の場所でないことはわかる。季節がこんなに急に進むはずもないし、なにより自分は白無垢姿だ。尋常じゃない。
「……生者の住む世界と、別の世界の狭間、といったところだ」
淡々とした言葉の意味を理解しようとするが、朱華の頭の中では、言葉が意味としておりてこない。
「はざま……」
処理しきれない情報が脳内をぐるぐると回り、極度の疲労がそれに追い打ちをかけてくる。
「あの……それで……あなたは誰ですか?……あっ、私は朱華、唐橋朱華と言います」
何だか無様な自己紹介になってしまったが、朱華は頭を下げた。男はいま一度朱華を正面から見据えると、ひとことつぶやいた。
「……蘇芳だ」
「……蘇芳、さん」
確認するように、朱華はその名を繰り返した。蘇芳……蘇芳色。少し青みを帯びた赤色。どこか寂しげで、でも目を離せない、不思議な色。この人の羽織も、そういえば蘇芳色だ。
「あの……ところで、どうしたら家に帰れますか?」
朱華は思い出したように、一番大切なことを尋ねた。ここがどこかは今は考えても仕方がない。大事なのは、一刻も早く家に帰ることだ。
「ここから直接、生者の世には戻れない」
朱華の期待を映した瞳を見ても、蘇芳の声には揺らぎがなかった。一拍遅れで意味を理解した朱華は、硬直したまま目だけで蘇芳を見つめた。この極寒の雪原で、白無垢姿の自分にどうしろというのだ。落胆がそのまま体の力を奪ったのか、よろめいた朱華を支えたのは温かな毛並みだった。
「あ、ありがとう……」
白銀の狼は、そのままぐいぐいと頭を押しつけてきた。
「えっ?……なに?」
朱華は訳もわからずうろたえたが、琥珀色の瞳は何かを訴えているようだ。
「乗れと言っている」
蘇芳の言葉に、朱華は呆けたように目を見開いた。そしてそのまま、じっと狼を見つめた。
「乗せて、くれるの……?」
立派な耳が、ぴくんと動く。
「え……?本当に?乗って、いいの……?」
信じられない思いで確認すると、狼はすっと背を低めた。
「あ……ありがとう。……の、乗ります……」
朱華は慎重に、すべらないように、狼の背に少しずつ体を委ねていく。足首の痛みは増していて、額にはじっとりと脂汗が浮かんでいた。足元で固まっている雪の冷たさも、指先から突き刺すように心臓に届く。
恐る恐る蘇芳の方を見ると、ほんの一瞬、赤い炎のようなものがその瞳をかすめたように見えた。なぜかわからないが、朱華の体がほんのり暖かくなる。
「ついてくるといい」
蘇芳はさっと背を向けて歩き出す。狼がゆっくりとその後に続いた。朱華は大きな揺れを覚悟してふわふわの毛並みにしがみついたが、驚くほど安定していた。その背で体を強ばらせていると、ほどなくまばゆい光に包まれた。




