第10話 消えない記憶
音がする。
複数の足音と、勢いよく水を流す音だ。
ピクリと瞼を動かした朱華の鼻孔が、食欲をそそる芳しい匂いにひくついた。これは味噌?いや米の匂いか。
突然強烈な空腹を感じて、朱華は目を開いた。天井は煤けた木目で、見慣れた自室のものだ。
障子を通して、朝の光が部屋の中まで入り込んでいた。
ゆっくりと身を起こして、朱華はそのまま布団を見つめていた。
帰ってきたのだ。自分の家に。何だか長い夢を見ていたような気がして、軽く頭を左右に振った。色々なことがあった気がする。その一つ一つは、一体何だったろうか。
突然、朱華は大きく目を見開いた。
冷たい汗が総身からじっとり吹き出した。
――覚えている。すべてを。
白無垢を着た自分、黒装束の行列と消えていった弥一……朱の橋を渡ってたどり着いた異郷、そして……。
「どうせあちらに帰れば、この世界のことなどきれいさっぱり忘れておる」
白練の声が、大きく頭の中をかき回した。
嫌な汗が背を伝い、心臓がうるさく鳴りだした。これは由々しきことではないか。置いてきたはずのものを、すべて持ってきたなんて。他人に知れたところで死者の世界に行ってきたなどと信じるはずもないが、気がかりは翳人の里の方だ。里の掟を破った者を、はたして見逃してくれるのか。
朱華の思考は急速に悲惨な方へ向かっていった。こんな時だけ想像力が豊かな自分が恨めしくなってくる。
「お嬢さん」
突然名前を呼ばれた。朱華の肩が大きく跳ねた。
「朝餉の準備ができましたよ」
冷たい女中の声を浴びて、朱華の思考は一気に現実に引き戻された。
「はい、今行きます」
答えた時には既に遠ざかる足音を聞きながら、朱華はひとまずあの里のことは考えないようにしようと決めた。自分はもう戻ってきたのだ。ただこちらではどれくらいの時間が経ったのか。突然消えただろう自分を、家族はどのように受け止めているのか。正直なところ、階下に行くのが怖かった。この現実の世界で、自分がどんな立場になっているのかが一番気がかりだった。
不安で押しつぶされそうになりながら、のろのろと重たい体をひきずって、朱華は布団から抜け出した。
急いで身支度を整えて一階に降りると、味噌の匂いがますます濃くなった。女中はせわしなく朱華の前を横切り、台所へと小走りに入っていく。
通り土間の採光窓からは、淡い日差しが入り込んでいた。外は、よく晴れているらしい。
手前で一度深呼吸をして、朱華は居間に足を踏み入れ、膝を折り両手をついた。
「……おはようございます」
深く下げた頭を上げるのが怖かった。父も母も既に着座しているようだ。すぐに返事のない重苦しい空気の中から父の声がした。
「おはよう」
低い声が、少ししわがれて聞こえた。見上げると、困ったように見つめている父と目が合った。少し見ない間に、何だか少しやつれたようだ。
「早くお座り」
「……はい」
「体は、大丈夫かい?」
膳の前に座った朱華に、父が重ねて声をかけてきた。いつもは朱華に無関心な父が珍しい。
「大丈夫です」
「そうかい。……朝餉が終わったら、ちょっと座敷においで」
父はそれだけ言うと、几帳面に手をぴたりと合わせて、「いただきます」とそのまま箸を手に取った。
母は朱華をしばらく見つめていたが、何も言わずに父に倣って食べ始める。
朱華は何だか息苦しさを感じながら、膳に視線を落とした。
真っ白なご飯からは、細い湯気が上がっていた。鮭の塩焼きと、切り昆布と油揚げの煮物、葱と豆腐の味噌汁、香の物……唐橋家お決まりの朝食であった。帰ってきた実感を新たにしながら、朱華はどこか落ち着かなかった。なにとは言えないが、異質なものを心に宿した自覚はある。
あの里で食べた食事が懐かしかった。箸をとり、少しずつ口に運んだ味噌汁や鮭の塩気が以前より増したような気がするのは、気のせいではないかもしれない。
朱華は自分の気持ちの揺れがわからないように、手早く食事を済ませた。
***
「そこにお座り」
朝餉の後、座敷に入ってきた朱華を見上げて、父の清吉は自分の正面に座るように言った。
父の座敷は内蔵の奥にあり、朱華は数えるほどしか来たことがない。店以外だと父はここにいることが多いらしく、重要な客が来た時に接待する場所だとも聞いた。
座敷の畳は塵一つなく掃き清められていて、床の間には何やら重々しい達筆の掛け軸がかけられている。朱華には読めないが、きっと大層な貴人の書いた高価な書なのだろう。落ち着いていて格式高い座敷は、山城屋という店そのものという感じだ。
「お前、これまでどうしてたんだい?」
清吉は短い煙管からふぅと煙を吐き出すと、探るような瞳を朱華に向けた。
清吉は壮年になっても若々しく、結構な男前である。高い身長とがっしりとした体つきが、その若々しさを一層際立たせている。
雪深い田舎ではあるが、かつての藩御用達、由緒正しき呉服屋の跡取りであり、加えてこの男前である。縁談は山のようにあったと聞いた。母の紀美も少しきつめの美人であり、朱華の恵まれた容姿もまたこの二人の賜物だった。
朱華は何をどう問われているのかつかめなくて、無言のまま下を向いた。清吉はもう一度煙を細く吐き出すと、少し眉根を寄せた。
「お前は一週間ほど行方不明だったんだよ。店の者はもちろん、知り合いの手も借りて探し回ったが見つからなかった。それが昨日突然、香山神社の鳥居の下に倒れてたんだ」
「……え?」
「神社の鳥居の下なんざ、皆で探し回ったとき何度も通ったさ。その時は何もなかったのにおかしいだろ?一体どこに行って何してたんだい?」
重ねた手が少しずつ汗ばんできた。父と目を合わす勇気もない。どこに行って何をしていたかなんて、言えるわけもない。
「覚えてないのかい?」
大方予想していたのか、清吉の声に責めるような圧はなかった。細かい蒔絵細工を施した、いかにも高級そうな煙管をカタンと机に置くと、朱華の方に少し身を寄せた。
「お前、冥婚って知ってるかい?」
以前深夜に聞いた、父と母の会話が蘇ってくる。ただそれを聞いていたとは言えず、頭を横に振った。
「子どもには、あまり教えるもんじゃないからね……」
父の声は低く、ささやくようだった。
「独身で死んだ男があの世で一人前になれるようにって、架空の花嫁と一緒に絵馬に描くんだよ。そして荒沢の観音堂に奉納する。この前、島田屋の弥一さんが亡くなっただろ?だからその儀式をしたんだ」
父の目は、朱華の表情から何かを読み取ろうとするかのように真剣なものに変わっていた。
「それで後日、島田屋の奥さんがお堂に詣でたら、その絵馬が落ちていて……花嫁のところにお前の名前が書かれていたんだ」
朱華は出てもいない声を抑えて、咄嗟に手で口元を覆った。汗で濡れた掌は徐々に冷えて小刻みに震えだした。
「知らせを受けて、すぐにお前を探したんだ。でもどこにもいなかった。探し続けてあきらめかけて……そしたら昨日、鳥居のところで倒れているのを神職さんが見つけたんだよ」
清吉の声は淡々としつつも、疲労の色を隠せないようだ。深い溜息をつくと、朱華の目をまたしっかりと捉え直した。
「冥婚の絵馬にはね、生きてる人間を描いちゃいけないって掟がある。名前なんてとんでもない。そんなことしたら、あの世に引っ張られてしまうからだよ。だから、そんな罰当たりなことをしたのは誰だってことになって……」
清吉は一度口をつぐんだ。言うべきか言わないべきか、本気で悩んでいるようだった。
「錦屋の手代が白状したんだ。お嬢さんが自分を連れて観音堂に行って細工したって。……紗枝っていう娘、知ってるだろう?」
朱華は手で口元を覆ったまま、頭だけ縦に振った。
「紀美に聞いたら、なんでも通夜の時にお前に食ってかかったって言うじゃないか。とんでもない娘だよ」
清吉は、吐き捨てるように言った。父が、朱華のために怒っている。
朱華は話の内容にも驚いたが、父が自分のために感情を露わにしていることにも驚いていた。
いつも空気のように扱われてきた。父は母を溺愛していて、奥のことは母に任せっきりの言いなりだった。母に疎まれている自分を見る父の目はいつも冷ややかで、自分に興味などないと思っていた。だが少しは気にかけてくれていたのだろうか。
今まで感じたことのない温かい希望が見えて、朱華は少しだけ嬉しくなった。だがその直後、その期待は敢えなく散った。
「でもね、こんなことに巻き込まれるのは、お前の普段の行いのせいでもあるんだよ」
清吉はほんの一瞬だけ、言葉を選ぶように間をとった。
「え……?」
朱華の声はかき消えそうなほど微かなものだった。
「お前はよく、人の背に影が見えるとか何とか、おかしなことを言っているみたいじゃないか。紀美も怖がっているし、そういうところが、人を不安にさせて恨まれるもとにもなるんだよ」
「え……でも、お父様……」
すがる思いで出した朱華の声は、清吉の力強い言葉に打ち消された。
「こんな不祥事、二度とごめんだよ。この山城屋が舐められるなんてあってはならない。錦屋にも厳重に抗議しておいたよ。娘や手代の処分は任せたけどね。……ああ、もう行っていいよ」
清吉はいつの間にか、机の上に帳簿を広げ始めていた。
朱華は清吉を見つめ続けていたが、清吉はさっぱりと興味を失ったかのように、そのまま帳面に顔を近づけている。再びその視線が朱華に向けられることはなかった。




