第11話 巫女の噂
――雪が、降っていた。
白く、音もなく降り積もっていく。
あの日から、一年以上が過ぎた。
何も変わらないようでいて、それでも確かに季節は巡り、時間だけは過ぎていた。
弥一の死、黒装束の行列、そして……この世とあの世の境を越えた日。
すべて夢だったのではないかと思う時もあるが、時間が経つほどに記憶は鮮やかだ。ありえない再会への淡い期待が、時折、胸を強くしめつける。
いっそ、すべてを忘れてしまえばよかった。
朱華は一片の雪の軌跡を目で追いながら、身を乗り出して窓の外をのぞいてみる。朝早すぎたのか、通りにはまだ誰もいない。それを確認してから、くるりと向きを変えて、窓際の壁にずるずると背を預けた。
「……琥珀、白練さん、青藍さん……」
小さな、本当に小さな声で、その名を呼んでみる。
あれから追っ手のような人は来なかった。自分に記憶があることを知らないのか。それとも、覚えていたところでさして問題はないと判断されたのか。
「……蘇芳さん」
真っ白な世界の中に、突如現れた赤い色。別れの橋で背に届いた言葉は今もはっきりと覚えている。時間が解決しない想いがあることを初めて知った。
朱華は室内に響くほどの溜息をつくと、立ち上がって窓の外に顔を向けた。
あの時のことは、忘れよう。忘れなきゃいけない。
かじかむ指先をすり合わせながら、朱華は窓をゆっくりと閉めた。雪の白さに佇む赤い残像は、まだ瞼の奥に残っていたけれど。
空が白み始めると、町は一面の銀世界となっていた。
屋根の上にも、路地の隅にも、重いぼたん雪がずっしりと積もり、雪掻きをする人が大勢通りに出てきている。
朱華は玄関先で、足袋の上から脚絆を巻いた。かじかむ指先では紐がすぐに結べず、吐く息は白くゆらめく。なかなか面倒くさい日課だが、これをしないと学校に着いたころには足元が濡れて悲惨なことになってしまう。お気に入りの黒のブーツで登校していた季節が懐かしい。
ようやく結び目を固く締めると雪下駄を履き、袴の裾をそっと脚絆の上にかぶせた。
戸を開けると、刺すような冷気が吹き込んできた。通りは朝の淡い光に包まれ、雪国独特の湿った匂いが漂っていた。
「……行ってきます」
小さく呟き門を出た。
「あっ、お嬢さん、行ってらっしゃいまし」
店先で開店前の掃除をしていた丁稚の孝太が、明るい声を出した。その素直な表情に、朱華の緊張が少しだけほどけた。
「行ってきます」
しっかりと響く声で返事をした。雪下駄の歯が雪を噛むように、コッコッと乾いた音を立てた。歩く度に裾がふわりと揺れるが、準備万端の足元に冷気は届いてもそう気にはならない。道端の商店では、丁稚や手代が協力して、黙々と雪を搔いていた。
「おはよう、朱華ちゃん。足元に気ぃつけてな」
声をかけられ、朱華は軽く会釈を返した。吐く息は白く広がり、溶けていくようだ。
「……もうすぐ、卒業式か」
雪景色の中を進みながら、朱華は思い出したように呟いた。あの世界にとらわれる心を持て余しながらも、今は現実をみて歩いていかねばならない。通りを抜け角を曲がってしばらく進むと、丘の上に煉瓦造りの建物が見えてきた。急な坂道にさしかかり、息を切らして上がっていく。
真新しい二階建ての校舎は、雪の朝に不思議とよく映える。
雪の重さで屋根から落ちそうな雪庇がきらりと光り、玄関前では用務員が黙々と雪をよけていた。
下駄箱の前には濡れた雪下駄がずらりと並び、どこかでストーブにくべた薪がバチバチとはねる音が聞こえてくる。
冬の女学校特有の匂い――濡れた杉の床と、燻る木片と、ほのかな石鹸の香り。吸い込んだ匂いが、ここが“日常”なのだと思い出させてくれる。
「朱華!」
背後から弾む声がして、朱華は振り返った。
頬を赤く染め、マフラーを外しながら駆け寄ってくるのは、小学校時代からの友人である澄世だった。
「積もったよね、雪。大丈夫だった?あたしなんて途中で滑りそうになったんだから!」
「大丈夫。澄世こそ転ばなかった?裾、すごく濡れてる」
「あー、もう!」
澄世はしかめっ面で裾を見ると、両手で袴の股立ちを持って、ぱたぱたと空気を入れ込もうとする。
「そのうち乾くかな?張りついて気持ち悪い!中まで濡れてるし!」
脚絆の紐を丁寧に解きながら澄世の愚痴を聞いていた朱華は、久しぶりに声を出して笑った。
二人でストーブのある教室に入ると、既に何人かの生徒が暖を取りながら談笑していた。窓の外では、先ほどまでやんでいた雪がまた降り出していた。
席に藍染めの風呂敷包みを置くと、澄世はすぐに朱華の近くにやってきて声をひそめた。
「あのね……ちょっと聞いたんだけど……」
「なぁに?」
「最近、町で噂になってる巫女の話、聞いた?」
澄世はあたりをうかがいながら、益々声をひそめた。朱華の手が、風呂敷包みをつかんだまま止まる。
「巫女……?」
「そう。なんか千早っていう巫女さん、どんな病気も治してくれるらしいよ?この前なんて、お金持ちの家の子が歩けなかったのに歩けるようになったって、みんな話してた」
澄世は少し興奮しているようにも、少し怖がっているようにも見えた。
「なんか、“神様に選ばれた人”なんだって」
「……神様に、選ばれた……?」
朱華はその言葉を繰り返して眉をひそめた。
「あの……さ、朱華のお家、進之助くん、まだ調子が悪いんでしょ?もしかしたら……」
澄世は言葉を切ったが、言わんとしていることは朱華にすぐ伝わった。弟の病気を心配してくれているのだ。
進之助は、朱華がいない間大変な高熱を出し、その後も一進一退を繰り返している。朱華が付き添っていると呼吸が楽になると言うので、家ではほぼ弟の傍にいる。母やヨネはそれを不満げに見ていて、嫌味を言われることもあるが、進之助が離れないのだ。
何でも治してくれるなら、すぐにでもすがりつきたい気分だったが、すぐに信じるにはためらいがあった。人の生死を人がどうこうするなど出来るのだろうか。異郷を垣間見た今だからこそ、人の生死はそんなに簡単なものではないとわかる。
神に選ばれた巫女、千早。
澄世に気づかれないように、朱華はうごめく胸騒ぎをぐっと呑み込んだ。




