第12話 観音様の微笑み
蝋燭の火がちらつく室内は、花のような、果実のような、甘いとろんとした香り――だが、どこか胸の奥をざらりと撫でるような重たい香りで満ちていた。
二つの生花台の水鉢には、白百合の花が濃密に咲き誇っている。
気だるげに脇息にもたれ掛かって、千早は破れた布を握りしめていた。こぼれる笑顔とは裏腹に、その目は何を見ているのかわからない。ただ古い布を、愛おしそうに撫でさすっている。
しばらくすると、千早はそれを丁寧に広げた。子どもが着る藍の絣の着物が、千早の真っ白な巫女服の膝を覆う。裂け目の縁はほつれ、何度も繕われた跡が白い糸で浮いていたが、千早は気にする風もなく、まるでいたわるように手を添わせていた。
「千早様!」
御簾を隔てた扉の外から、突然野太い男の声がした。
「千早様にお頼みしたいことがあると、依頼人が来ております。お通ししてよろしいですか?」
千早は顔をあげて、扉の方をじっと見つめる。
「……少し、お待ちくださいな」
鈴を転がしたような穏やかな声で告げると、ゆっくりと膝の上の着物を丁寧に折りたたんでいく。真四角に小さくたたんで懐に入れると、千早は姿勢を正してわずかに口角を上げた。
「どうぞ。お入りくださいな」
千早の目には、昔、間近で拝んだ観音様の微笑が浮かんでいた。人の業も苦しみも、すべて許すようなあの微笑。その微笑みに、少しでも近づけているだろうか。
扉が静かに開き、御簾が風を受けて揺れた。
雪に濡れた着物の裾を引きずるような音が響くと、男女二人の人影が畳に膝をついた。
湿気を含みなよやかになってはいるものの、男の着物は張りがあり、仕立ての良さが一目でわかる。女の着物も柄は控えめながら、安物にはない艶やかさを帯びている。そしてその腕には、淡い光沢のある絹布にくるまれた、幼い子どもが抱きかかえられていた。
「千早様、どうか……どうか……」
男が畳に額をこすりつけて、腹の底から絞り出すような声を出した。普段は人に命令する側と思しき人間が、体裁をかなぐり捨てた必死の様子を見せてくる。
「この子は熱を出してから、一週間ほど意識がなくて……薬も飲めなくて、医者にももう打つ手はないと言われました」
横からは、女のむせび泣きが聞こえてくる。
「何とか助けてください!大事な、大事な一人息子なんです!」
男は叫ぶような声をあげて、より強く額を畳に打ち付けた。
御簾ごしにその様子を見つめていた千早は、ふうっとわずかに息を吐いた。その息は本当にわずかで、御簾を揺らすこともない。
しばらくの沈黙の後、千早は静かに立ち上がり、御簾をあげて二人の前に進み出た。
二人は見てはいけないものであるかのように、視線をあげずに低頭し続けている。千早は緩慢な所作で、女が抱える幼子に近づいていった。
「まぁ……かわいそうに……」
そう言いながら、千早は子どもにすっと視線を落とした。
小さな瞼は閉ざされていて、胸は浅く上下し、時々その動きがふっと止まる。青ざめてはいるが、眠っているようにも見える。二歳……いやまだ一歳そこそこだろうか。愛くるしい玉のような男の子だった。
「……まさお……」
千早は緩やかに口角をあげて小さく呟いた。それは、ほとんど音にならないかすれ声だった。千早の声は、母親の腕に眠る子どもに向けられたものではなかった。眠る幼子が、かけがえのない我が子の姿に重なったのだ。
だがすぐに表情を元に戻し、ゆったりとした動作で膝をついた。うっとりと溺れるような香りが幼子と女を包み込んだ。より間近に見えた幼子にとろけるような笑みを向けると、千早は両手を胸の前で厳かに合わせる。巫女らしい、一つの滴りから小さな波紋が広がるような、落ち着きのある声音に変わる。
「では、神におうかがいを立ててみましょう」
蝋燭の炎が揺れ、甘い白百合の香りが濃く満ちた。両親は幼子の顔を見つめたまま、小刻みに震えている。
わずかな黙祷を終えると、千早は子どもの胸にそっと手を置いた。その指先から、見えない何かが吸い寄せられるかのように空気が揺らぎ、部屋の温度が一瞬だけすっと下がった。
さすり続ける手を止めずに女は子の顔を覗き込み、男はぐっと息を呑んだ。
「……ああ……」
千早の顔が、快楽とも恍惚ともつかない表情にゆがんだ。そう時をおかずに、とくん、と子どもの胸が小さく上下した。女は目をつり上げると、「ひっ」と息を吸い込んだ。
「息を……息をした……!」
女の叫びにつられたように子どもの瞼がぴくりと動き、乾いた唇がわずかに開いた。すぐには言葉にならないが、小さな口がはくはくと陸に上がった魚のように動いた。うっすらと開けた目の焦点は定まらず、微かに動いた指先が、わずかに上に持ち上がった。ただ抱きかかえる女の手には、どこか心許ない冷たさが残っていた。
「一郎!一郎!」
女は泣きながら、何度も我が子の名を呼んだ。男はほとんどぶつかるような勢いで幼子を覗き込むと、そのまま妻と子を抱きしめ小刻みに震えた。
「千早様……!千早様、ありがとうございます!ありがとうございます!」
二人は泣き崩れ、幾度も幾度も頭を下げ続けた。千早は微笑んだ。優雅に、神々しく。
よく見れば、その両の瞳の底は、どこか空虚でとろんと淀んだ色を宿している。だがいつも伏し目がちで、相手を正視しない千早のそれに、気づくものはいない。
「わたくしは、ほんの少しお手伝いをしただけ。……すべては神の御心です」
その声は甘く、幼子をあやすような慈愛にあふれていた。幼子の頬に添えた指先から 温かくやわらかな感触が伝わり、千早の胸はえも言われぬ達成感で満たされていった。
千早は微笑みを絶やさぬまま両親の感謝に頷くと、そのまますっと立ち上がった。背を向けて、少しずつ衣をひきずりながら御簾の中に戻っていく。
千早は懐に手を滑らすと、潜ませた絣の着物の感触を確かめながら、静かに目を伏せた。
千早の瞳の先には、今日も観音様が微笑んでいる。
白百合の香りは湿り気を増し、むせるような濃い澱みを孕んで、滞っていた。




