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第13話 影喰(かげばみ)の兆し

「記憶が、残っているようですね……」

 

 無機質な青藍の声が、部屋の空気を引き締めた。

 冷たくはない。ただ、余計なざわつきをぴたりと止める――そんな力を帯びた声音だった。

 蘇芳は書面に目を落としたまま、筆運びを乱さない。傍らのれんが、二人の間を気遣うように視線を走らせた。


「……そうか」


 蘇芳は短く返し、視線ひとつで側近の煉以外を下がらせた。


「おや、“誰の”とは聞かないのですね」


 青藍は微かに笑った。その笑みは柔らかいのに、どこか試すようでもある。


「……朱華だろう」


「名前は覚えているのですか?」


「あたりまえだ」


 素っ気なく言い放つと、蘇芳はようやく筆を置いた。


「少し、話しませんか?」


 青藍は庭から遠くに見える、東屋あずまやの方に視線を送る。


「あの、それでしたら……」


 煉が大量の書類を片付けながら、口をはさんだ。


「休憩になさるのがよろしいかと。東屋の方に、お茶と軽食を用意させます」


「……そうだな」


 蘇芳は息をつくと、椅子から立ち上がった。


 蘇芳の執務室を出て、黒く艶を帯びた渡り廊下をいくつか越えると、庭の奥、水面の上に浮かぶようにして、朱塗の東屋がひっそりと佇んでいた。

 渡り廊下を抜けた途端、ふっと空気が変わる。邸が秋で満ちている中でも、この池のほとりだけはことさらに赤が濃い。紅葉は深い赤のみで、黄も橙もなかった。

 

 池は鏡のごとく静まり、そこには蓮の花が、季節を忘れたように咲いている。本来ならば初夏の花であるはずのそれが、ここでは絶えることなく淡い白と薄紅を湛えていた。

 東屋は池にせり出すように建ち、朱の柱が射し込む光を跳ね返している。

 蘇芳が歩を進めるとその赤は水面に揺らぎ、まるで水底へ続く長い廻廊のように映り込んだ。


「ここの季節感はおかしいですが、なぜか落ち着くんですよ」


 天鵞絨ビロードの敷かれた、ゆったりとした椅子に背を預けて、青藍が言う。


「蓮は初夏の花……私のやしきに咲くならわかりますけどね」


「お前の邸は、いつも清々しくていい」


「そうですか?いつでもお越しを……といっても、貴方あなたは忙しすぎですからね」


 茶器の蓋をすっと開けながら、青藍は微かに息をついた。


「我々は生者とは違いますが、それでも食や睡眠は必要だってこと、忘れてませんか?違うのは、“死なない”ということだけです」


 少しとがった言い方になるのは、蘇芳の身を案じているからだ。それがわかっているからか、蘇芳の瞳も穏やかだった。


「……で、そんなご多忙の貴方あなたが、自ら助けたあの朱華殿ですけどね」


 今日の本題はそこだとばかりに、言葉に少し棘と力がこもった。


「本来生者が、この翳人かげびとの里に来ることはできません。すぐに瘴気しょうきにあてられて死んでしまう。でもそこは貴方が事前に加護を与えていたので問題ありませんでした。ただ……生者の世に帰れば記憶は全て失うはずです。そうですよね?」


「……ああ」


「それが、全て覚えているようなんです。先日は、我々の名前を呼んだようでした。貴方にも届いたでしょう?」


 茶を一口啜ると、蘇芳は小さく頷く。


「なぜですか?なぜ、記憶が消えていないのです?」


「わからん」


「は?」


 考える間もなく即答した蘇芳に、青藍は虚を突かれたように目を見開いた。


「わからんって……それに、琥珀のなつきかたも異常でしたし……翳視かげみの瞳の持ち主であることは承知していますが……」


 蘇芳の言葉を待つかのように青藍は口をつぐんだが、蘇芳は無言のまま、池の彼方を見つめているだけだ。

 重苦しい沈黙が破られたのは、それからすぐのことだった。


「ぬしら!なぜ我をぬかして茶をしておる!」


 小さいが、強烈な白銀の光が射し込んできた。

 精一杯自分を大きく見せようとしているのか、腰に手を当てて胸を反らせた白練が近づいてくる。蘇芳がこめかみを軽く押さえるのを、青藍は見逃さなかった。


「ぬかしてではなく、仕事の流れで……休憩ですよ」


 青藍の言葉にまったく納得していない様子で、白練は蘇芳と青藍の間に立つ。白練の持つ清浄な気が、二人をふんわりと包んですぐに消えていく。

 蘇芳は諦めたかのように侍女に視線を送り、あわてて白練の茶器などが用意されていく。

 白練が座ったやわらかい座面は彼女の身体を深く包み込み、なかば沈みかかった様子がおかしくも可愛らしい。


「ふむ、菓子が少ないの……まぁ、仕方あるまい」


 姿とは裏腹の太く鋭い眼光で卓の上をひと舐めすると、白練は溜息まじりに呟いた。


「何の話をしておった?朱華のことか?」


 菓子を見ていた時とはまた違う不敵な光を、紫水晶の瞳が湛える。


「……ええ、記憶が消えていません。……というか、貴女あなたは“どうせ消える”とか言って、朱華殿にペラペラとこの世界のことを話してましたよね?」


「そうじゃったか?」


「……そうですよ」


 青藍の呆れ顔にも動じることなく、白練はさっそく小さな月餅を口に入れた。しばらくもぐもぐと味わって飲み込むと、茶を啜って「ふぅ」とひと息つく。そして改めて、青藍と蘇芳をじっと見つめてきた。


「確かに朱華の記憶は消えておらぬな。我らの名も呼んだようじゃ。ただ、他言はしておらぬ。……賢い娘じゃ」


 白練はくくっと喉を鳴らした。


「不用意に他言するようであれば、誰ぞ遣わして処理することもあろうが……蘇芳は、どうじゃ?」


 池に向けられていた蘇芳の視線が、白練に戻された。


「他言しないのならば、放っておけばいい」


「放っておけるのか?」


「……どういう意味だ?」


 白練と蘇芳の視線が、ぴりりとした緊張感の中で交差した。


「ぬしはあの娘を特別扱いしておるようじゃ。あの冥婚の件で、八翳の頭領であるぬしが自ら出向いた理由をまだ聞いておらぬ」


「……特に意味はない」


 即答した蘇芳の声に乱れはなかった。いつもは軽口で応じる白練も、なぜかそのまま口をつぐむ。沈黙の中で、珍しく蘇芳が言葉を継いだ。


「特に意味はなかったが、琥珀がかしてきた。俺も何か気になった。……それだけだ」


「……ふむ」


 白練はじっと蘇芳を見つめていたが、視線を外して青藍を見る。

 蘇芳は嘘をつかない――それは白練も青藍も信頼しているところだ。


「何か気になる、といえば……我もそうじゃな、何か気になる」


「そうですか?私は特に。……もちろん生者がここに来た、という意味では気になりますけど……」


「ぬしは鈍感なのじゃ」


「……そういうことではないと思います」


 いつもながらの不毛な応酬を聞きながら、蘇芳が干した木の実を口にしたところで、煉が足早に近づいてきた。ひそひそと耳打ちされて、蘇芳は眉をひそめた。


影喰かげばみ……?」


 その呟きに、白練と青藍が同時に振り向いた。


 影喰かげばみ――人間のかげを喰らう影。翳を喰われた者は死後、翳人の里にも上界へも行けない。魘界えんかいに囚われ、永遠の苦しみを受ける。それは、魂の消滅――。


「影喰じゃと?」


「ああ、久々だな。祓わなければ」


 三人は顔を見合わせた。

 白練が、にやりと笑う。


「管轄としてはあやつ……山吹やまぶきじゃ。任せれば良い」


「……調査して、すぐに遣いを出す」


 蘇芳の目配せを受けて、煉はそのまま踵を返した。

 その一連を目で追いながら、青藍は何となく、黄金色の里で誰かさんが盛大なくしゃみをしている様を想像していた。


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