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第14話 遠ざけられる手

「ただいま帰りました」


 冷たい外気から逃げるように奥口に滑り込んだ朱華は、すぐに違和感を覚えた。家の中が妙にしんと静まりかえっている。

 今日は女学校が午前中で終わり、まだお昼だ。いつもなら女中が忙しく立ち働き、誰かしらはいるはずだ。


「あの……誰か……」


 声を出して奥をうかがうが返事はない。上がり框に腰掛けて雪下駄を脱ぎ、脚絆の紐を解くと、朱華はそろそろと奥に入っていった。屋根から落ちる水滴の音が遠くでしているが、室内の音がない。ヨネや女中の声もしない。

 居間をのぞくと、母の外出用の羽織が二枚、掛けることもなく乱雑に折りたたまれていた。そのうち一枚は、母がとりわけ気に入っている友禅の上質な羽織。旧都生まれの母は、外出に羽織を欠かさない。どの羽織にするか、その吟味は外出前の神聖な儀式のようなものだった。その痕跡があるということは、外出したのだ。

 階段を上り自室で着替えをしていると、わずかに人の話し声が聞こえてきた。そのまま廊下に出て、進之助の寝所に向かった。廊下でつながった一番奥にある部屋だ。


「進ちゃん?」


 部屋を覗くと、女中二人と目が合った。


「あ、お帰りなさいまし」


 女中のイクとキヨが頭を下げる。朱華は少し肩を落とした。この二人は朱華に殊更冷たい態度をとることもなく、いつも普通に接してくる。唐橋家の複雑な事情を知らないがゆえだ。


「進ちゃんは?」


 弟がいつも寝ている場所に視線を走らせて、朱華はそのまま固まった。

 ――いない。

 進之助がいない。外出できるような体調ではないはずなのに。


「お坊ちゃんは、奥様がお連れになりました。ヨネさんも一緒です」


「どこに行ったの?」


 少し低くなった朱華の声に、イクとキヨは困ったように顔を見合わせる。


「さぁ……わかりません。私たちは、お留守の間にご寝所を整えるよう言われただけですから」


 キヨがまごつきながら答え、朱華は少し表情を和らげた。


「そう。ありがとう」


 二人は無言で一礼し、布団や枕を抱えて足早に去っていった。


 真っ白な雪を照らしていた陽が徐々に傾くと、また一段と冷え込みが増してきた。

 朱華は落ち着かない気持ちを持て余したまま、切り替えようと、澄世が貸してくれた恋愛小説を読むことにした。金持ちに嫁いだ女に復讐するため、冷酷な高利貸しとなった男の話だ。最近とても流行っているらしいが、頭に全然入ってこない。


「すぐに復讐するなら、本当に愛してなんかなかったんじゃない……」


 ぼそっとついて出た言葉に、我ながら驚いた。恋とか愛とか、そんなのは自分にとってはまだ遠い話のようだ。人を好きになると世界が変わるとか、今までの自分じゃなくなるとか聞いたことはある。いつか自分も恋をしたら、その真偽がわかるのだろうか。

 本を閉じて、朱華は横向きにごろりと寝転んだ。お行儀が悪いが、今は誰も見ていない。


「好き、か……」

 

 閉じた瞼の裏に浮かんだのは、例の冥婚だった。

 後になって澄世が教えてくれたが、弥一は自分のことが好きで、卒業後は結婚を考えていたらしい。紗枝はそんな弥一が好きで、告白したけど振られたから、その腹いせで自分をひどい目にあわせたとのことだった。

 紗枝はさすがにあのままではいられず、女学校にも来なくなった。

 気が触れたらしいとも聞いたけど、本当かどうかはわからない。仁義と信頼がかなめのこの商人街で、錦屋自体もやっていけず、店を畳んだと聞いた。

 後味が悪かった。だが自業自得だ、とも思う。


 雪の舞う中で、弥一は光に包まれて消えていった。最後があんな別れ方になったことは、今でも胸がえぐられるようにつらい。だがそういう好きではなかったと思う。兄のように頼りにしていたけれど、あれが恋とは思えない。


 溜息とともに目を開けると、窓越しに夕陽の赤が滲んでいた。その色を視た途端、胸の奥がふっと熱くなった。

 赤……。

 あの里から帰ってから、赤は朱華にとって特別な色になった。自分を救い背中を押してくれたあの人は、赤い残影を自分の中に残したままだ。もう会えないのに、時を経てもなぜあの人の存在はますます鮮烈になっていくのか。

 やがてゆっくりと陽は落ちて、室内に縹色が満ちてきた。うとうとしかけた朱華の耳に、突然階下のざわめきが飛び込んできた。


「あなた!進之助が!進之助が!」


 母の大きな声など初めて聞いた。

 二階にも響いたその声は、上ずっていて、嬉しさを隠しきれないようだった。朱華は急いで部屋を出ると、階段を降りていった。


ねえや!」


 朱華の姿を見つけると、進之助が大きな声を出した。


「し、進ちゃん……?」


 進之助は草履を脱ぐのももどかしそうに、手伝おうとするヨネの手を振り払って駆けてくる。文字通り突進してきた進之助を頭から受け止めて、朱華は少しよろめいた。


「進ちゃん、歩いて……走れるの?」


「うん!なんか……女の人が胸に手を置いてくれたら、急にすーっとなって、歩けるようになった!」


「本当に……?」


 進之助は興奮して、キラキラとした目で朱華を見上げた。その瞳に淀んだおりのようなものを湛えていた弟は、もうどこかにいってしまったようだった。


「体がすごく軽いんだ!こんなの初めて!」


 快活に笑いながら、進之助は何度もぴょんぴょんとその場で飛び跳ねてみせる。その回復ぶりはあまりにも唐突で、目を疑うほどだった。

 奥座敷から出てきた清吉も、ぽかんと口を開けてその様子を見ていたが、紀美に横からつつかれて気を取り直したようだ。小走りで進之助に近づくと、その体をひょいと抱き上げた。


「良かった!本当に良かった!それでこそこの山城屋の跡取りだ!」


 清吉の目には光るものが見えた。紀美もずっと袖で目元をおさえている。


「旦那様、奥様、ようございました!やはり神の巫女、千早様のお力は本物でございましたね!」


 ヨネが鼻息も荒くして、耳に残るざらついた声を出した。


「千早様はこれまで何度も、病気や怪我を治しているそうです。瀕死の子どもも治したって聞いて……奥様にお話して本当に良かったです!」


「本当ね……ありがとうね、ヨネ」


 手柄は自分にあるとでも言いたげなヨネの言葉に、紀美は素直に頷いた。


「当然のことをしたまでです。お夕食も遅くなってしまって……すぐにご用意いたしますね!」


 上機嫌のヨネが台所に向かい、通り土間に集まっていた女中たちも一斉に後に続いた。


 父は進之助をなかなか離そうとせず、紀美もそれを涙ながらに見つめていたが、突然思い出したかのように、朱華の方を見た。その視線は、こんな慶事の後でも、変わらず冷淡なものだ。


「朱華」


「……はい、お母様」


 紀美は先ほどまでの涙など微塵も感じさせない厳格な表情に戻っている。


「これからは、進之助に近づかないでちょうだい」


 朱華は無言のまま紀美の目を見返した。自分にとって心地よいことを言ってくれるとは思っていないが、進之助に近づくなとは。


「なぜ、ですか?」


 普段は“はい”か“いいえ”しか答えない朱華がそれ以外の返事をしたことが、紀美の何かに触れた。


「なぜって……せっかく元気になった進之助が、また悪い気に触れたらどうするの?」


 母の声が気色ばんでくる。

 悪い気。それは、私のこと?

 その言葉を胸の中で繰り返すうちに、目許がじわりと熱くなってきた。その表情を見られたくなくて、朱華はうつむいた。母の言いたいことはすぐにわかった。でも、そういう意味だと認めたくない自分が、届かない叫び声をあげている。


「とにかく、進之助には近づかないで」


 紀美は半ば吐き捨てるように言うと、返事を待たずに背中を向けた。その視線の先には愛する夫と息子がいる。

 朱華はぐっと唇を噛みしめて涙を堪えようとしたが、冷たい土間に一つ、二つと小さな水滴が溜まっていった。

 あたりまえのように自分だけ入れない家族の輪。

 慣れたつもりでも、諦めたつもりでも、やはりいつもどこかで期待している自分が浅ましい。

 鉛のような心を抱えて自室に戻った朱華は、夕餉の時間になっても、階下に降りていくことが出来なかった。


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