第3話 冥婚の絵馬
篠館の街から少し外れた山裾に、古びた観音堂がある。荒沢寺の飛び地の一角に建つ、藁葺き屋根の小さな堂だ。
外から見れば、どこにでもある古びた堂にすぎないが、一度でも中に足を踏み入れた者は、その光景を忘れることはないという。
壁一面にかけられた色とりどりの絵馬が、内陣の観音像を囲むように揺れている。
絵馬に描かれているのは晴れ着姿の新郎新婦で、新郎の顔立ちはそれぞれ異なり、どれも誰かを想っているようにしっかりと凜々しく描かれている。だが花嫁の顔は、どれもはっきりとしない。角隠しの下にのぞくのは、影のようにぼんやりとした白い色のみ。ただその衣装だけは華やかで、白無垢に赤、黒、金……と、色の洪水が狭い堂内にゆらめいている。
そこに最近、一枚の新たな絵馬が奉納された。
描かれているのは若い男と、その傍らに立つ白い花嫁。花嫁の顔はやはりよく見えないが、角隠しの奥にほの白い影が沈んでいた。
山裾に陽が落ちていくと、観音堂の周辺は闇に包まれる。耳をかすめていくのは、ときおり吹く強い風が落ち葉を巻き上げる音だけだ。
その闇の中を、二つの影がそっと動いた。落ち葉を踏む音さえたてないように、息を殺して観音堂の扉へと近づいていく。手にしている提灯には、布をかぶせて光が漏れないようにしている。時折その布を少しまくり上げては、先に続く道を確認しているようだった。
「本当に、こっちであってるの?」
少し責めるような口調が、風の音に紛れながらもはっきりと聞こえた。紗枝の声だ。
「あってますよ。もう少しです、お嬢さん」
手を引く茂吉は錦屋の手代だ。提灯の光ができるだけ漏れないよう気にしながら、紗枝の手をとり周囲をうかがっている。しばらくして足を止めた茂吉は、持ってきた細い金具を鍵穴に差し込み、慎重に鍵をはずした。
すると紗枝は、自ら扉の隙間に手を伸ばした。ぎぃ、と戸が軋んだ瞬間、紗枝の肩がびくりと揺れた。闇の奥で、何かがざわめいたような気がしたのだ。一度唾を呑み込むと、紗枝は茂吉の手から提灯を取り上げ、そのまま足を踏み入れた。
「なに、ここ……」
提灯にかぶせていた布をめくりあげた紗枝は、目前に広がった異様な光景に、小さくうめくような声をあげた。
壁にかけられたたくさんの絵馬、すべてに新郎新婦が描かれている。二人だけのものもあれば、仲人か家族だろうか、複数で描かれているものもある。だがどの絵も、花嫁の顔だけがはっきりしない。白無垢の襟元の向こうに、薄闇が溶け込んでいるようだ。相手は絵馬だが、一度に多くの人の前に立たされたような決まり悪さで、紗枝の額に汗が滲んだ。
「どこ……どこにあるの?」
提灯をかざして絵馬を一枚ずつ確認していく。後ろでまごついていた茂吉が、おずおずと声をかけた。
「旦那さまがお描きになったものなら、あれかと……」
茂吉が指さした方に提灯を近づけると、目立って新しい絵馬がある。
「見つけた」
紗枝は薄い笑みを浮かべて、茂吉に視線を送った。
「お嬢さん……こんなこと、本当に……」
「いいから、早く」
茂吉はためらいながら近づくと、震える手で、しかしいたって丁寧に、絵馬を取り下ろした。そのままほとんどおびえたように、紗枝の前に置く。
紗枝は身を乗り出すと、絵馬を真上から覗き込んだ。
「……弥一さん、すてきね……」
紗枝はうっとりと、しかし食い入るように、その絵馬を見つめた。花婿姿の弥一は、精悍な顔つきで、いつにもまして美丈夫に見える。
「お父さま、なかなか上手いのね」
茂吉の顔を見上げるが、灯りが届かない暗がりの中で、その表情はよくわからない。ただいつになく緊張した様子で、「へぇ」とうわずった声を出してくる。
格好良くて、優しい弥一さん、大好きだった。
でも、だからこそ許せない。
ちょうど去年の今ぐらいだった。紗枝は弥一に告白したのだ。ずっと好きだったと。かなり前から色々とその場面を想像して、入念に準備した告白だった。けれど、その想いは届かなかった。弥一の口から、朱華を好きだと告げられた。女学校を卒業したら、お嫁さんにきてほしいと言うつもりだと。
「なによ……朱華なんて、ちょっと綺麗だからって調子にのって……」
弥一の横に描かれた白い花嫁が、いつしか朱華に見えてくる。
陽を浴びると茶色に映る艶やかな黒髪と、すらっとした体。道行く男が目で追うような、整った顔立ち。いつも礼儀正しくて、控え目で、紗枝の両親さえ朱華をほめていた。
「なによ……あんたなんか、人殺しのくせに!」
知らず大きくなった声に、茂吉は驚いたようだった。膝をつき、紗枝から絵馬を取り返そうと手を伸ばす。
「お嬢さん、もうそのくらいで……」
「なによ……これからよ」
紗枝は茂吉の手を乱暴に振り払うと、袖の中から細身の万年筆を取りだした。黒い胴に金の縁取りが施されたそれは、父から贈られたものだった。金の飾りが、提灯の灯を反射して鈍く光った。
「ここに、名前を……」
紗枝は前屈みになると、絵馬の白い花嫁にペン先を近づける。
「お、お嬢さん!?」
茂吉が悲鳴にも似た声をあげた。
「何をなさるおつもりなんです!?既に奉納された絵馬ですよ!?あっ!」
茂吉が阻む間もなく、絵馬の木目に押しつけられたペン先から、黒い染みがじわりと広がった。
「そんなに好きなら、あの世で一緒になればいいのよ!」
紗枝の指先は、ためらいもなく進んでいく。ペン先には異様な力がこもっているのか、染みこんだ黒色が、いびつに滲んでいく。
――唐橋朱華。
「ひいっ!」
茂吉は尻餅をついて、そのまま紗枝から後ずさった。
「お、お嬢さん!絵馬に生きた人間を描いちゃいけないんです!名前を書くなんてとんでもねぇ!そんなことしたら……あの世に……あの世に一緒に引っ張られちまう!」
「……知ってるわよ!そんなこと」
紗枝の眼は、白い花嫁をとらえたまま動かない。
そう、知っている。
父が絵馬を描いている時、使用人と話しているのを確かに聞いたのだから。
「知ってるって!?だってそれ、あの山城屋のお嬢さまじゃないですか!」
「だから知ってるって!」
紗枝がうるさげに語気を荒げると、堂内の空気の流れがぴたりと止まった。
次の瞬間、ふっと提灯の灯が消えた。
「ひいっ!」
茂吉がまたもや悲鳴をあげる。漆黒の闇の中、何かが息づくような気配……。紗枝も驚き立ち上がろうとした瞬間、ふっと灯りが戻った。
「何だったのよ……」
伝ってきた汗に夜気が染みこみ、着物に重さが増したような気さえする。さすがに、紗枝の心臓も激しく波打っていた。
でも、これで……。
紗枝はもう一度、黒いインクが染みこんだ絵馬を見下ろした。白い花嫁は黒く滲んで、それはまるで、朱華を汚しているようにも見えた。
「……私を選ばなかった弥一さん、朱華を連れていってね」
目を細めて、ふふ、と紗枝は嬉しそうな声を漏らす。だが、置かれた提灯の灯が風も受けずに揺らめいたことには、気づかないままだった。




