第28話 誓いと代償
広縁に腰を下ろし、朱華は少し足を揺らしながら満月を見上げていた。
この里で生きていく決意を伝えてから数日経ち、完全に治癒した足指の隙間を、冷たい風がすり抜けていく。
満月を見たことは何度もあるが、今夜はその輪郭がやけにくっきりしている。
同じだけど、同じじゃない……。
生者の世との違いを、象徴しているようでもあった。
「今宵は、月が特に綺麗じゃの……」
ぼんやりとしていたところに突然声をかけられて、朱華の肩はわかりやすく跳ねた。
「……白練様」
物音一つたてず、いつの間にか白練が横に立っていた。
月の光が染みこんだように輝く白銀の髪が、いつにも増して繊細に輝いていた。
「調子はどうじゃ?」
すとんと腰をおろすと、横から大きな瞳で見つめてきた。
「おかげさまで……すっかり良くなりました」
「それは重畳じゃ」
白練はふっと笑みを作ると、朱華と同じように月を見上げた。
「……そちは、ここで生きたいと願っているそうな。……それは、真じゃな?」
朱華は白練に視線を移したが、白練は月を見つめたままだ。
「……はい。そう、決めました」
「ふむ……後悔は、しないか?……誰ぞ、心を残してきた者などおらぬのか?」
「それは……」
朱華は口ごもったまま、瞳を伏せた。
心を残してきた者……。
父と、母……そして山城屋の人々。
もう完全に吹っ切ったと言うのは、嘘になるだろう。関係性はどうあれ、これまで育ててもらった恩や、思い出がすべてなくなるわけではない。
それに……
澄世の顔が、ふと脳裏をよぎった。
自分が突然いなくなったら、澄世はひどく心配するにちがいない。自分が反対の立場だったら、きっとそうだ。でも……でも……それ以上に、自分は自分のために、ここに残ると決めた。
「正直に言うと……まだわからないこともたくさんあります。でも生者の世界に戻っても、私は私の力を恨み続け、きっといつか壊れてしまう。この力が誰かの役に立つということだけが、今の私の拠り所なんです。それは……ここでないと、叶えられないんです」
白練はゆっくりと首を傾けて、朱華の方を向いた。
「ここはの……望んだからといって生者が過ごせる場所ではない。ただ……そちの妖力はかなりのものじゃ。これから、さらに大きくなる可能性もある。それを隠しきれなくなれば、そちはますます居場所を失うし、万が一暴発したら……生者の世にも被害が出る」
白練の瞳から、いつもの戯れの色が消えていた。
「じゃから、我らも受け入れる。……本当に特別なのじゃ。それは……心しておかねばの」
白練の声は厳しくも温かで、母が娘を諭すようでもあった。
「……はい……はい……」
一語一語が心に染み渡るようで、朱華の目からぽろぽろと涙が落ちた。
「……泣くでないわ」
白練は少し背伸びをするようにして、小さな手で朱華の頭を優しくたたいた。
その手から伝わる安心感は、朱華の心のさざ波を、徐々に収めていった。
「……して、そちが誰のもとにつくかは聞いたかの?」
白練の問いに、朱華は手の甲で涙をぬぐいながら頷いた。
「……今朝、蘇芳さんの側近の煉さんがいらして……その方の付き人として働かせてもらえると聞きました」
「……ふん、まぁ……煉というよりは、蘇芳じゃがな」
「……え?」
「……こちらの話じゃ」
白練は少しだけ頬を膨らませて、手にした檜扇で口元を隠した。
「……そもそも、そちはこちらの住人になるための儀式をせねばならぬ」
「儀式……ですか?」
「こちらで作られたものを口にするだけじゃ。なに、簡単なこと……」
話しながら、白練の目許が何かを思いついたように緩んだ。
扇の下の口元も同じように緩んでいたが、朱華からは見えなかった。
「なに……何も心配はいらぬ。我に任せておけばよい」
白練の含みを持たせた声が、微かな虫の音に交じって聞こえてきた。
その意味を、朱華は数日後に身をもって知ったのだった。
***
卓の中央に置かれた香炉から、細い煙がひと筋、立ち上っていた。
窓ひとつないその部屋は、深い静けさに満ちていた。それでいて窮屈さはなく、どこか清廉な空気を宿している。煙はたおやかな香りをまといながら、いつしか闇に溶けて見えなくなった。
蘇芳はしばらくその軌跡を目で追っていたが、不意に立ち上がった。
手を伸ばし、静かに香炉の蓋に指をかける。
次の瞬間、ふっと闇に灯がともった。煙とは異なる、淡い黄色の光が無数に浮かび上がった。空気を求めるようにすばやく天井近くまで至るものもあれば、ためらうように途中で留まるものもある。小さな灯火はゆらゆらと漂い、暗い室内を照らし出していた。
「……あと、ひとつか……」
蘇芳は低く呟いた。その光景を見ながら、頭に浮かぶのは別のことだった。
なぜこれほど気にかかるのか。
生者の世の出来事に、ここまで心を向けたことはない。冥婚の件も、本来なら他の者に任せれば済む話だった。だが、気づけば動いていた。初めてあの瞳を見たとき、胸の奥に何かが触れた。懐かしさにも似た、だがそれだけでは言い尽くせない感情だった。
「……まさかな」
微かに浮かべた笑みはどこか苦い。
その声に、背後で息を潜めていた琥珀が低く喉を鳴らした。闇の中、黄金の双眸だけが鋭く光っている。
蘇芳は何も言わず、右の袖を一払いした。すると灯火は呼び戻されたように、ひとつ、またひとつと香炉へ吸い込まれていく。最後の光が消えるのを見届けてから、蘇芳は静かに蓋をかぶせた。
深緋に輝いていた瞳も、いつもの闇色に戻っている。
残されたのは微かな香の余韻と――胸の中にわずかに残る、名もないざわめきだけだった。




