第29話 名前を呼ばれて
「わらび餅じゃ!」
侍女がしずしずと進み出て、朱塗の菓子盆を朱華の前に据えた。黒く艶を帯びたそれは置かれた拍子にぷるんと震え、香ばしいきな粉の香りが立ち上った。
朱華の視線はわらび餅と白練の間を行きつ戻りつする。
「あの……これは……?」
「黄泉戸喫じゃ!」
得意げに胸を逸らした白練の声は高揚していた。
「この世界の住人になる最初の食べ物じゃ。遠慮はいらぬぞ!」
困惑を顔面に湛えたまま、朱華はいま一度わらび餅をみるとそのまま横を向いた。うっすらと微笑した青藍と目があった。
「白練……黄泉戸喫は別に、例の茶を飲むだけで良いのでは?」
朱華の戸惑いを引き受けてくれたのか、青藍が口を挟んだ。
「何を言うか!」
白練は極めて心外だといった面持ちで肩を揺らすと、そのまま身を乗り出した。
「人としての在りようが変わる、大切な最初の一口じゃ!朱華はのぅ……以前この里に来た時、我がわらび餅を食するのをそれはそれは羨ましげに見ておったのじゃ。心優しい我は不憫でならなかった……だからこそ、わざわざ用意させたのじゃ!」
白練の熱弁に青藍は苦笑を通り越して、やれやれと言いたげに朱華を見た。
自分はそんなに物欲しそうな顔をしていただろうか。記憶をたぐり寄せるように考えていると、背後で重い溜息が聞こえた。空気がわずかに深まった。
「なんじゃ……そちも来たのか?」
不満げな白練の声を聞いて、朱華は後ろを振り返った。
蘇芳が、腕組みをしたまま眉をひそめていた。その後ろには煉が何かを両手で持って立っていた。
「あまり……無理を強いるな」
蘇芳は朱華の前に置かれた朱塗の盆に目を滑らせながら、低い声で呟いた。
「無理とは何じゃ!最初の一口を、忘れられないものにしてやろうと思っただけじゃ!」
「……好きかどうかわからんだろう」
「好きにきまっておるわ!」
「……わ、私、いただきます!」
いたたまれなくなった朱華は、白練と蘇芳に挟まれて大きな声を出した。朱華は懐から懐紙を一枚取り出した。黒文字を取り上げると、盆に据えられた皿の上の柔らかな餅に刃先を入れる。きな粉がこぼれないように細心の注意をはらいながら、そっと口に含んだ。幸い餅は小さかったのでそのまま咀嚼を続けたが、気まずいことこの上ない。複数の視線に囲まれ味などほとんどわからなかったが、それでもおいしいとは思った。
「どうじゃ!?うまいか?」
白練が期待に満ちた目で身を乗り出している。朱華はこくこくと頭を上下に振った。
「それはある者が作っている、特別なわらび餅なんじゃ」
朱華は何か言わなければと思い息を吸い込んだとたん、きな粉に阻まれてむせた。隣にいた侍女があわてて茶を差し出し、喉に流し込んでようやく息をついた。
「お……おいしいです」
肩で息をしながら返事をしぼりだした。何かを食べるために全神経を集中させたのは初めてだ。
これで、自分は翳人の里の住人になったのだろうか。目下、体の外にも中にも特に変化はないようだが。
「何も変わらないでしょう?」
朱華の心を読んだのか、青藍が尋ねてきた。
「黄泉戸喫をしたからといって、すぐに目に見えて何かが変わるわけではありません。変化は、これから徐々に実感するときが来ると思います」
朱華は青藍にうなずき返すと、少し背を縮こまらせた。今は何も変わらないけど、何が変わっていくのだろうか。不安と期待がない交ぜになったような気持ちが、胸の奥にわだかまった。
「気に入ったのなら全部食べよ。遠慮はいらぬぞ。……そうそう」
白練は上機嫌で朱華を見ながら、手に持つ扇をひょいと動かした。お辞儀をした侍女がすっと部屋から退くと、まもなく別の侍女が白和紙のかけられた桐の小箱を持ってきた。ほとんど音もなく、朱華の前に据えられる。
「開けてみよ」
まるで自分が何かをもらうかのように、白練は期待に満ちた笑みを浮かべている。朱華はおずおずと手をのばすと、慎重に小箱を両手で包んだ。和紙を破らないように慎重にはがしていく。蓋を解くと、内には繊細な絹の組紐が一筋納められていた。真白の糸と銀光をはらむ糸が交互に縒り合わされている。あまりの精緻さに、指先を寄せることすらためらわせるほどであった。
「綺麗……」
朱華の口からこぼれた言葉に、白練は満足げに頷いた。
「手に取ってみるがよいぞ」
なかなか触れようとしない朱華に、白練が扇を指して促してくる。
朱華はまず右の人差し指と中指で、触れるか触れないかの感触を試した。両手で少しずつ少しずつ紐を持ち上げた。軽くてなめらかな、言葉に出来ない手触りは、ただの絹糸でないと語っていた。
「すごく綺麗です。……これを私に……?」
「そうじゃ。そちの立場はなかなか微妙じゃからの。それには我の妖力を少しばかり込めてある。ここぞという時守ってくれようぞ」
「あ……ありがとうございます」
朱華は組紐をそっと手で包みこんだまま深く頭を垂れた。優しさだけではないが、白練の気遣いはいつも確実に胸を揺さぶるものだった。
「大切にします。ずっと……」
「うむ……いつも身につけていると良いぞ」
白練は柔和に目尻を下げたが、広げた扇で口元を隠すと、すっと鋭さを込めて朱華の後方を見据えた。
「して……煉、そちが持っているものはなんじゃ?」
突然白練の尖った眼光を浴びて、煉が背筋を伸ばした。
「……衣裳だ」
意外にも、答えたのは煉ではなく蘇芳だった。
「……衣裳?」
白練が片眉をつり上げた。
「煉の付き人になるからには、動きやすい衣裳が必要だ」
蘇芳の視線を受けた煉がゆっくりと近づき、朱華の前に白い包みを置いた。
「開けてみろ」
頭上から、蘇芳の声が降ってきた。朱華の肩に一瞬力が入ったが、その声色は穏やかなものだった。
「……はい」
朱華は少し膝をずらして近づくと、慎重に紐を解き畳紙を広げた。やがて目に飛び込んできたのは、青みがかった深く赤い色だった。
「……蘇芳の、色じゃな」
いつのまにか立ってきていた白練が、頭上から乾いた呟きを漏らした。
「煉も似たような色を着ているからな」
「……ふぅん、まぁ、そうじゃな」
意味ありげに小さく笑うと、白練はわずかに目尻を下げた。
「所属がわかりやすくて良いんじゃないですか?」
同じように上からのぞき込んでいた青藍を、白練はじろりと睨みつけた。
「やはりぬしは鈍感じゃ」
「……どうしてそうなるんです?」
「知らぬわ」
白練は興ざめだと言わんばかりに、くるりと方向転換して歩き出した。そのまま後ろについた青藍との間で、何やら問答を続ける。
蘇芳はそんな二人を気にすることもなく、すっと反対方向に踵を返した。
「行くぞ」
「はい!」
蘇芳の言葉に、白練たちを目で追っていた煉が切り替えて続いた。だが数歩進んだところで、蘇芳は後ろを振り返った。
「……お前もだ、朱華。……行くぞ」
蘇芳の声を真正面に受け止めて、朱華は無言で目を見開いた。
“朱華”
初めて、名前を呼んでもらえた。
正体のわからない謎の高揚感が胸に湧き出してきた。今日から、この瞬間から自分は翳人の里の住人になった。そして今、名前を呼んでくれたこの人の配下に――。
「はいっ!」
自分でも驚くほど威勢のいい声を出して、朱華は桐箱と包みを抱えて立ち上がった。
この先、自分の行く手にはどんな世界が待っているのか。新しく受け入れがたいこともきっとある。それでも、居場所を見つけた。
蘇芳の黒い双眸の奥に、何かが揺れている。まだ形も名も持たないが、確かにそこにある。それが何なのか朱華にはわからない。
いつか、その意味を知る日はきっと来る。
胸の奥に灯った熱を抱えたまま、朱華はまっすぐに見返し、一歩を踏み出した。
第一部完
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
第二部では、翳人の里を舞台に、朱華の物語が本格的に動き始めます。
蘇芳の傍で、彼女は何を視て、何を選ぶのか。
その距離が近づくとき、二人の関係はどのように変わっていくのか。
続きを覗いてみたいと思っていただけましたら、第二部もお付き合いいただけると嬉しいです。
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紫月音葉




