第27話 受け入れる者たち
あたりが夜の静寂に包まれる頃、蘇芳邸の東屋には一つ、また一つと仄かな釣り燈籠が浮かび上がった。
淡い光に誘われるように、池上の燈籠もまた、ゆらりと揺らめき始める。
月光と燈火が交じり合う水面では、昼とは異なる静けさが広がり、蓮の花が蕾となって息をひそめていた。
普段であれば、その幽玄を湛えて更けていくばかりの夜――。
だが今夜は、わずかに空気が騒がしい。
落ち着きを崩さない侍女たちでさえ、どこかせわしなく、円卓へ食器や料理を絶え間なく運び込んでいる。
「蘇芳様」
渡り廊下に目をやった侍女が、落ち着いた声を出して深く頭を下げた。
その声に、他の侍女たちも一斉に低頭して両側に退く。
蘇芳は軽く頷くと、東屋の一番奥の席についた。
視線を投げれば池全体が見渡せる、彼の定位置だ。
池に浮かぶ燈籠は、この翳人の里での時を終えた者たちの、霊魂の燈火。
その燈火は、三十三年間の最後の七日間、ここでゆらめき、消える。
先は上界だが、そこに待っているのが何なのか、特段興味もない。
風に揺らぎながらも、燈籠は沈んだりはしない。
それが、残された魂の最後の抵抗のようにも見える。
濃い鮮やかな橙色の燈火は、池に現れてすぐのもの。
反対に薄く、細い燈火は、まもなくここから消えていく。
光の濃淡が織りなすこの美しさを、幻想的だと讃える者もいるだろう。
だが一方で、これはひどく、残酷な光景。
気が遠くなるほどこの夜を越えてきた蘇芳にとっては、いつもの、見慣れた光景だった。
水面に映り込んでいた月の姿が、微風とともに少し歪んだ。
同時に、熱さと冷たさ、対照的な二つの気が流れ込んできた。
「珍しいのぅ、ぬしが相談とは」
冗談と、薄い警戒が混じった声色――。
白練は面倒そうに言いつつも、どこかそわそわしながら足取りも軽やかだ。
後ろから、静かな水流のように、澄んだ青藍の気配も近づいてきた。
「おっ!珍陀の酒ではないか!」
卓に近づいた白練が、途端に目を輝かせた。
きらめく硝子の瓶には、赤い、こっくりとした液体が入っている。
瑞々しい葡萄の香りが、白練の鼻をくすぐってくる。
「蘇芳、ぬしは、酒の趣味はなかなか良いぞ」
特に反応もしない蘇芳のかわりに、青藍が白練の頭上から渋い声を出した。
「あまり、過ごされないでくださいよ。強くないんですから」
「何を言うか!我はなかなか強いはずじゃ!」
きっと青藍をにらむと、白練はそのまま席に着く。
青藍は諦めたように溜息をつくと、遅れて腰を下ろした。
蘇芳が視線を送ると、それを合図にするかのように、侍女たちは深いお辞儀をして、一斉に下がっていった。
「では、飲むかの……」
早速、赤い酒に伸ばされた白練の手を、すっと阻む蘇芳の手。
卓の上に置かれた硝子の器に揺れる燈火を受けて、蘇芳の瞳もまた揺れていた。
「いや、飲む前に聞いてほしいことがある」
白練は、一瞬ふんっと口をとがらしかけたが、蘇芳の真摯な眼差しにそのまま手をひっこめた。
「……朱華のことか?」
「ああ」
「何かあったのか?」
「この里で、生きたいと言っている」
間髪入れず答えた蘇芳を、白練は呆れ顔で見つめた。
「ぬしというやつは……ここでは時間は腐るほどあるのじゃ、こう、もっと、前置きというものをじゃな……」
「それは……つまり、生者の世での人生を終えるということですよ?……朱華殿は、それは、おわかりなのですか?」
仏頂面の白練を横にしながら、青藍が硬い声をはさんだ。
「……それも聞いた。……覚悟の上だと言っていた」
それきり、三人は口をつぐんだ。
風に揺れて紅葉の葉がかさかさと音を立て、池上の燈籠がつられたように僅かに位置をずらしていく。
しばらくして、赤い酒をぼんやりと見つめていた白練が、ふっと口を開いた。
「……朱華は、良い子じゃ。持っている力も、おそらくあれは……妖力じゃ」
「……それは、我々と同じ種類の力ということになりますが……?」
あえて念をおすかのような、青藍の声。
白練は頷くと、組んだ両手に形の良い顎をのせた。
「ただの翳視ではないことは自明じゃ。もともとこちら側にいるべき者、といっても良いじゃろう。ほれ、あの、影喰の時も……」
続けよと言わんばかりの視線に、蘇芳が口を開いた。
「ああ。刃黄が、自分がわからなかった影喰の正体を、居合わせた朱華が見抜いて助かったと言っていた。……山吹の側近である刃黄が視えなかった影の筋を視た、ということは、ただの翳視ではない。我々と同じ妖力持ちだろう」
「確かに……」
青藍は一つ頷いて腕を組むと、蘇芳と白練を順番に見ながら言葉を続けた。
「それに、影喰に翳を喰われた弟を、あちらから引き剥がしてここに送ってきましたよね。しかも、何段階か飛びこえて……」
青藍の言葉に、白練がくくっと小さく笑った。
「考えるに、かなり強い妖力持ちやもしれぬぞ?儚げな美しい外見に強い妖力、何やら親近感がわくのぅ……」
笑みの形に目を細めた白練に、蘇芳はいつも通り反応を示さず、青藍は明らかにげんなりとした表情を作った。
「と、とにかく……」
白練は組んでいた両手を解くと、柔らかなクッションに沈みかけていた姿勢を正した。
「朱華がここに来ること、本人が望むならば我に異存はない。あの強力な妖力じゃ、かえって生者の世では生きにくかろう。それに……」
紫色の瞳に、長い睫毛が濃い影を作った。
「……もう十分、苦しんだであろう……?」
蘇芳と青藍が、黙したまま白練を見つめる。
沈黙は、そのまま同意だった。
「ただ……」
池の方に視線を泳がせ何かを考えていた青藍が、言葉を続けた。
「ここで生活するとして、どのような立場でいさせるつもりですか?通常の死者ではないですし、何より妖力を持っていますし……いくら我々の管轄下とはいえ、野放しにするわけには……」
「そうじゃな、我もそれは気になっていた」
珍しく意見を合わせた二人が、蘇芳を見つめてくる。
蘇芳は顎に手を添えてしばらく時を置くと、口を開いた。
「……誰かの側近の下に、付き人として置くのが妥当だろう」
「……それなら常時監督できますし、万が一妖力が暴発しても対処ができますね」
「……で、誰の側近の下に置くのじゃ?」
紫の瞳を一層輝かせて、白練がずいと身を乗り出した。
八翳の側近は、一人につき三人までと決められている。厳粛な儀式下で任命され、主人の命が尽きるとき、自分の命も尽きる。命をかけた盟約だ。
現状、三人はそれぞれ一人の側近しか持っていない。蘇芳には煉、白練には蓬、青藍には蒼……このうち誰の、配下につけるのか?
「それなら、我が……」
「仕方ない。俺が引き受けよう」
白練と蘇芳の言葉は、ほぼ同時だった。
白練は無言のまま、蘇芳をじろりと睨みつけた。
青藍はそんな二人の間で、苦笑いを漏らした。
「……まぁ、経緯からいって、蘇芳の管轄下、煉の付き人にするのが自然ですよね」
その言葉に、白練はぐぬぬと顔を歪めたが、そのままふぅと息をついて椅子の背にもたれかかった。
「まぁ、それでよいわ」
一応認めたものの、ふいっと横を向いて、「何が仕方ないじゃ」と呟いた白練を見て、青藍は口元を緩めた。
「……これで、話は終わりか?」
顔を正面に戻すと、切り替えたのか、白練が赤い酒を見てごくりと喉を鳴らした。
「……ああ」
蘇芳の言葉に、白練は待てを解かれた子犬のように、さっと手を伸ばそうとする。
「お注ぎしますよ」
重そうな硝子瓶をすっと持ち上げ、青藍が繊細な切子グラスに酒を注ぐ。
「もう一度言いますが、あまり過ごされないでくださいね」
「わかっておる!」
喜々としてグラスに口をつけた白練は、上機嫌に答えた。
数刻後、白練を部屋に送り届けた青藍は、この言葉がいかに不誠実であったかを、身をもって知ることになったのだった。
***
「はぁ……お待たせしました」
肩をさすりながら、青藍が東屋に戻ってきた。
「白練は、寝たのか?」
「ええ。途中からもう寝てましたよ。……だから言ったのに」
青藍は幾分疲れを見せて、それでもきっちりとした所作で腰を下ろした。
ご苦労と声をかけるかわりに、蘇芳は青藍のグラスに酒を注いだ。
「蓬がいれば、何とかなるのにな」
「まぁ……ただ、冬の里に戻らない白練の代わりに、政務を一手に引き受けてますからね。里を動くことは難しいでしょう。それに……」
青藍は一口飲んで、音を立てずにグラスを置いた。
「冬が嫌いなんですよ。ここの、貴方の秋の里が、どこよりも気に入っているじゃないですか」
「……里の季節は、俺が決めたわけじゃない」
「それは皆そうですけど……白練は……ああ見えて寂しがり屋ですからね。冬を嫌うのもわかります」
ほとんど保護者のような物言いをする青藍に、蘇芳はわずかに、意味ありげな視線を向けた。
「ところで、影喰のことだが……」
「ええ、その件だろうと思っていました」
空になった蘇芳のグラスに酒を注ぎながら、青藍が頷いた。
「生者からではなく、依代から影喰が出ていた件ですよね?」
「ああ、子どもの着物からな」
「……」
なんとも言えない微妙な表情で、青藍は座り直した。
「刃黄は通常通り、影喰の眉間を正確に射った。だがそこから次々と増殖した。本体が依代であった以上、それも道理だが……」
「……そこが、問題ですね」
青藍は、自分のグラスの中にたゆたう赤い液体をじっと見つめている。
「依代を影喰の本体とする場合、第三者の介入が必要です。今回も、人間である巫女から影喰が出ていたならばわかりますが、巫女は影喰に操られていたにすぎませんでした」
「ああ。誰かが依代を影喰として機能させ、それを守るように巫女に暗示をかけたようだ。本体が人間でなかった分、発見するのに時間をとった」
「……周到ですよね。明らかに魘界がらみかと……しかも、そこそこ強力な……」
青藍の慎重な声が、夜の闇に溶け込んでいくようだった。
「最近、何かと魘界がらみの事件が増えてきた。……封印のきしみと、連動しているようだ」
蘇芳は池上の燈籠を見つめながら呟き、青藍は反対に視線を蘇芳に戻した。
「刃黄が祓った影喰は、山吹が確実に処理するはずです。そちらは、問題ないと思いますが……ここで朱華殿が現れたことも、何か関係しているのかもしれませんね」
蘇芳は何も返さなかった。
青藍も元から返事を期待していたわけでもなく、それ以上尋ねることはしない。
静かにまた、視線だけを池上の仄かな灯りに滑らせる。
「警戒を、強めます」
低く言葉を発した青藍の瞳が、わずかに青味を増して、静まった。




