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第26話 ここで、生きる

 柔らかい朝陽が障子からこぼれ落ち、鳥の囀りが遠くから聞こえてくる。ひりつくような感触に目をしばたいて、朱華は格天井を見上げていた。

 まったく眠れなかった。

 目を閉じても涼やかな残香が鼻をくすぐり、背や腕に熱がこもっているようだった。動悸は抑えようとするほどかえって大きくなり、まんじりともせず夜が明けた。 

 邸に戻った自分たちを見て、侍女たちは一斉に動きを止めた。言葉はないが見つめる瞳が何かを物語っていた。蘇芳は侍女に自分を託すと、視線を合わさぬまま琥珀と去っていった。

 とても恥ずかしかった。それを思い出して動揺している自分もさらに恥ずかしい。昨夜の焦りに背を押されるように布団から身を起こすと、障子の向こうで人影が動いた。

 

「お目覚めですか」


 不思議なことに、いつも目が覚めるとまもなく声を掛けられる。この里の人たちは、微細な空気の流れや揺れを感知しているかのようだ。


「お召し替えを、お手伝い致します」


 開いた障子の向こうに、きっちりと畏まった侍女が座っている。折り目正しい所作で立ち上がると、着物を持ってしずしずと近づいてきた。

 目前にそっと据えられたのは、薄紅色の生地に撫子の花が描かれた着物だった。見るからに上質で、山城屋でも見たことがないような艶と張りがある。


「あら」


 ふと視線を落とした侍女が、明るい声をあげた。


「指の傷が、きれいに治っておりますね」


「あ……」


 朱華も足先をのぞき込むと、そのまま手で触れてみた。指の一本一本にしっかりと感覚があり、赤黒くなっていた傷も消えている。


「昨日、治癒の池に直接浸けたんです。それが良かったのかも……」


「ええ、きっとそうですね」


 侍女は鏡台の椅子に朱華を導き、白く糊のきいた足袋で朱華の足を包んでいく。最初は足袋を履かせてもらうことに気後れしたが、遠慮はかえって無作法と知った。ただ自分の行く末も決めぬまま、この生活に慣れてしまうことに小さくない恐れもある。


「あの……」


 朱華は控えめに声をかけた。昨夜眠れなかったもう一つの理由に、決着をつけねばならない。


「お世話になっている立場で、こんなことをお願いするのは本当に申し訳ないのですが……」


 侍女は足袋をはかせる手はとめずに、顔だけ朱華の方に向けた。


「あの、お話したいことがあるので、その……蘇芳さんに取り次いで頂くことはできませんか?」


「ああ、はい。かしこまりました」


 侍女は即答し、そのまま立ち上がった。あまりにもあっさりとした返事に、朱華の肩からふっと力が抜けた。


「良いんですか?」


「ええ。何かあれば取り次ぐよう、蘇芳様に言われております」


 侍女は微笑みながら、薄紅色の着物を手に取った。


「蘇芳様にはすぐにお伝え致します。この後まずは、朝食を運んでまいりますね」


 朱華を着物で覆うと、流れるような手つきで着付けを整える。そして綺麗なお辞儀をすると、侍女は風に紛れるように部屋を出ていった。


 蘇芳の部屋に呼ばれたのは、西の空がゆるやかに朱に染まり始めた頃だった。侍女に先導され、朱華は長い渡殿を歩いていった。いくつもの棟が廊でつながり、池や細流がその間を縫っている。まるで自然そのものを囲い込むように建てられた邸だ。ただどれだけ進んでも景色は変わらない。燃えるような紅葉と澄んだ空。ここには秋しかない。

 その美しさに、背筋がふと粟立った。季節さえも留め置かれた場所なのだ。

 やがて侍女は寝殿の奥へ折れた。その先は人の気配が薄く足音ばかりが響く。正面に一棟の建物が現れた。

 飾り気はない。だが近づくごとに息が詰まりそうだ。沈黙が、そのまま形をとったような建物だった。


 侍女は廂の端で足を止めると、「少々お待ちくださいませ」と声を落とした。足音もなく進んでいくと、一室の前で膝をつき、袖口でそっと板戸を叩いた。

 朱華の耳に音は届かなかったが、まもなく戸が横に滑った。

 現れたのは、黒い短髪の男だった。朱華を一度だけ見ると、侍女に何事かを小さく告げて頷いた。


「朱華様、どうぞ」


 侍女が戻ってきて、手で促す。

 朱華はしずしずと進んだが、入って良いものか戸口で一瞬ためらった。男は丸い瞳を微かに揺らして、「どうぞ」と促した。


「失礼します」


 朱華はひとつ息を整え、そっと戸口をまたいだ。

 その瞬間、思わず足を止めた。慎ましやかな戸口からは想像もできぬほど、室内は広く、天井も高かった。

 部屋の最奥、黒檀の大机の向こうで蘇芳が筆を走らせている。

 夕暮れの光が窓から斜めに射し込み、蘇芳色のカーテンに吸われて、柔らかな薄闇が満ちていた。胡粉ごふん色の壁に、床には深い蘇芳色の絨毯。縁には雅な文様が織り込まれ、黒光りする床を際立たせている。

 四方を囲む黒檀こくたんの書棚はほとんど天井まで届いていた。見慣れぬ表紙の本や和綴じ本、古びた巻物などが整然と並んでいる。


「そこに座れ。……少し待っていろ」


 蘇芳は筆を止めぬまま、視線だけ上げた。

 示された先には革張りの焦げ茶のソファが二脚、机から距離を置いて据えられている。だが、蘇芳の側には何もない。

 

「はい」


 朱華は小さく頭を下げ、ソファの端へ慎重に腰を下ろした。

 前には、緩やかな曲線の脚を持つ硝子張りの卓がある。ちょうど蘇芳と斜めに向き合う位置だった。

 黒檀の机上には、硯と筆に混じって、万年筆や硝子のインク瓶、巻物や分厚い本が雑然と置かれていた。和洋折衷ぶりに驚きながら、朱華は机の上に視線を逃がしていた。そうでもしないと、緊張でおかしくなりそうだった。

 やがて蘇芳は、音もなく筆を置いた。

 

「……れん


 壁際に立っていた男が瞬間的に姿勢を正した。先ほど戸口に出てきた人だ。


「これを頼む。……それから、しばらく外に出ていろ」


「……はい」


 煉はほんの一瞬意外そうな顔をしたが、すぐに動いて書状の束を受け取った。


「失礼いたします」


 声とほぼ同時に、戸が滑るように閉まり姿が消えた。もう一人いることでかろうじて保たれていた落ち着きの糸が、ぷつりと切れた音がした。

 部屋の静けさが一層濃くなった。決意はしてきたものの、いざこの部屋に入って、この人の眼光にさらされると――。

 握りしめた部分の着物が、わかりやすく湿ってよれてしまった。


「……何て顔をしている」


 斜め前から、少し呆れたような蘇芳の声が聞こえた。


「話があるんだろう」


 その言葉に勢いをもらい、朱華は顔をあげた。蘇芳はまっすぐに朱華を見つめていた。一度ならず何度も自分を救ってくれた人だ。この決意を伝えるならこの人しか、今しかない。


「あの……これからの私のことです」


 朱華は息を吸い込むと、重ねた手に力を込めた。


「私は……今まで生者ひとの世界でずっと役立たずでした。昔から影が視えるから、皆には良く思われていなくて……それに視えたところで、誰一人救えませんでした」


 蘇芳の真摯な目に耐えられなくなり、朱華は硝子の卓に視線を移した。自分の過去を言葉にするのは思っていた以上に苦しかった。見栄や羞恥をすべて取っ払って、心を丸裸にされていくようだ。


「そんな自分がどうしようもなく嫌で、こんな自分がいたところで、何の意味があるんだと思っていました。……でも……」


 少しずつ、熱を孕んできた目で朱華は前を向いた。


「昨日……弟がここに来られたのは私の力のおかげだと……そう言ってくれましたよね?」


「ああ」


 蘇芳の返事には何のためらいも迷いもなかった。この人はいつもそうだ。

 朱華の掌に、四本の指が食い込んだ。


「あの……私の力は役に立つのですか?弟、以外にも。他の人のためにも、この力で、何かすることはできるのですか?」


 蘇芳はすぐには答えなかった。そのわずかな沈黙が重くのしかかり、朱華の心に否定的な感情が渦巻いていく。やはりあれは偶然、それとも血縁だからできたことなのではないか、と。

 

「お前は……」


 蘇芳が重ねていた手を解いた。

 

「お前の力をもっと信じていい」


 ぶれない声色が少しだけ穏やかに聞こえた。それは朱華の淡い期待がそうさせたのかもしれない。ただ朱華の乾ききった心には、潤いの一雫となった。


「……だったら……だったら……」


 朱華の言葉が段々と熱を帯びた。


「私は、ここで生きていきたいです!生者ひとの世界では、私の力は何の役にも立ちません。どうやって役立てたら良いのかもわかりません。でもここなら、この力で誰かの役に立てるなら……私はここで生きていきたいです!」


 胸の底から、言葉が波のように押し寄せてきた。我知らず立ち上がり、一歩踏み出してもいた。荒い息をつきながら、朱華はそのまま立ち尽くしていた。

 初めて、自分の思いを言葉にできた。脆い達成感かもしれない。受け入れてもらえるかもわからない。でも、今の自分にはこれが精一杯だ。

 蘇芳は少し目を見開いたようでもあったが、目立って何かを態度に出すことはなかった。朱華が落ち着くのを待っているのか、しばらく目を伏せて考えるような素振りをみせると、静かに口を開いた。


「……昨日も言ったが、お前はただの翳視かげみではない。それを上回る力を確実に持っている。それは、生者の世では受け入れがたいものだ」


 蘇芳は決して性急ではなく、丁寧に言葉を紡いでいく。


「確かに、その力はここにいた方がはるかに役立つ。万が一暴発した時にも、ここにいればすぐに対処できる。ただ……」


 長い睫の下に濃い影が差し込んだ。慎重に言葉を選んでいるようでもあった。


「……それはそのまま、生者ひととしての人生を諦めるということだ。死者になるわけではないが、生者ひとの世との縁は完全に切れる。……それは、わかっているのか?」


 重く響く声に、朱華は伏せていた視線を上げた。そしてまっすぐ蘇芳の目を見て、しっかりと首を縦に振った。 

 それは何度も何度も考えてきたことだ。今日聞かれることも予想はしていた。


「前回助けていただいた時、何としても生者の世に戻りたかったのは、弟が気になっていたからでした。でも……不幸なことに、その気がかりもなくなってしまいました。……もう、私を生者の世に縛り付けるものも、未練もないのです」


 過去の苦しさを練り混ぜて、ようやく出したような声だった。ただそこには凜とした意志が控えていた。


「そして何より私は、私に力があるのなら、それを役立てる場所で生きていきたい。……自分のために」


 蘇芳の組んでいた指が微かに動いた。しばらく朱華を凝視して、一つ、わずかに息をついた。


「……わかった」


 蘇芳は短く言った。


「お前の意志は受け取った。少し時間をくれ。……おい」


 最後の言葉は、朱華に向けられたものではなかった。

 話は終わったか、とばかりに、黒檀の机のさらに奥から白銀の巨体が現れたのだ。琥珀はそのまま悠然と部屋を縦断して、朱華にまとわりついてきた。蘇芳は眉根を寄せながら、今度ははっきりと嘆息した。


「……しばらくは、そいつの相手でもしてやってくれ」


「……はい!」


 朱華は丁寧に頭を下げると、琥珀に促されるまま戸口に向かう。そこで最後に耳にしたのは、入ってきた煉が琥珀とぶつかりそうになって放った、「うわっ!」という声だった。


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