第25話 はじめての肯定
軽々と朱華を背に乗せて、琥珀はもと来た道を戻っていく。丘を登り濃い霧を抜けてまもなく、錦のように色鮮やかな秋が広がった。戻ってきた、ということが朱華にもすぐにわかったが、行きにはなかった小さな棘を心に含んでいた。
双子の弟。生きていたら自分と同じ十八歳だ。どんな性格だったのか、進之助と似ていただろうか。いやでも、案外暴れん坊だったかもしれない。
この世界にいるのなら会ってみたい。だが祖母の言っていたように赤子の姿では、探すのも見分けるのも難しいだろう。
木々の隙間からは細い陽が漏れてくる。目を細めた朱華は、周りの景色に違和を覚えた。
「ねぇ、琥珀……この道、行きと違わない?」
どこを見ても紅葉の巨木が林立している。でもどこか違う。琥珀の耳が微かに張ったが、顔の向きも速度も変えようとはしない。
首を左右に曲げてうかがっていると、体が突然前に傾いた。「ひゃっ」という声が漏れ、琥珀の太い首にしがみつく。だがそれはほんの一瞬で、琥珀はすぐに姿勢を平行に戻した。
突っ伏していた顔を上げた朱華の口が、半開きのまま動きを止めた。
池がある。
凪いだ水面を湛えた池が、青い空を反射して鏡のように煌めいていた。周りには真っ赤な曼珠沙華が所狭しと咲いている。深紅の絨毯の中に、水色の池を落とし込んだようだった。
朱華は琥珀から降りるとゆっくり池に近づいた。風が吹くと、嗅ぎ馴れた香りが鼻をかすめた。薬草のような、少し青臭い、でも清々しい香りである。
「琥珀……ここ、もしかして治癒の池?」
琥珀は何も言わないが、鼻先で朱華を池の方へとつつく。その行動は、おそらく肯定だろう。
「だから連れてきてくれたの?……もしかして、汲んでくるより直接浸けた方が良いって言っていたから?」
琥珀は心持ち得意そうに顎を上げると、そのままそこにうずくまった。朱華は琥珀の頭を何度も撫でてから、一応周りを確認して、着物の裾を少しまくり上げた。草履と足袋を脱ぐと、几帳面に巻かれた包帯の白さが目立った。ひどい凍傷だったらしく、指先はまだ元には戻らない。
包帯を解いて、池縁の平たい岩に腰を下ろした。指先からそっと池に浸していくと、すぐに凹凸のある岩肌が足裏に触れた。思ったより浅瀬だ。
透明な水は少し冷たかったが、すぐにじんわりと熱を持ち、徐々に体の中に移動してきた。体もほぐれ、気持ちまでゆるんでくるような淡い温もりだった。
「はぁ……」
朱華は大きな溜息をついた。辺りをはばかることなく息を吐けるのは久しぶりだった。澄んだ水とは裏腹に、心の内はぼんやりと果てがなかった。
これからどうすれば良いのか。怪我が治ったら前のように元の世界に戻るのか。戻ったところで帰る家などあるのだろうか。母には金輪際関わるなと言われた。父はそれを止めてもくれなかった。今でも二人は、自分が進之助を殺したと信じているのだろうか。
――影が視えるだけの役立たず。それが今の自分のすべてだ。
情けなくて涙がこぼれてきた。青く煌めいていた池の水が徐々に白濁してくる。ぬぐう気力もなく、朱華は池を見つめ続けた。そのとき。
朱華は全身が総毛立つのを感じた。誰かの姿が、池に映ったような気がしたのだ。反射的に後ろを振り返ったが誰もいない。先ほどと同じ場所で、起き上がった琥珀がこちらを見ていた。黄金色の瞳が鈍く光っている。
「気のせい……」
自分を納得させるように声に出し、ふっと息を漏らした。前に向き直り水面を覗き込む。そこには、揺らめく自分の姿だけがあった。
涙で霞んでいたから、何かを見誤ったのかもしれない。ただ何となく、女性の気配だったような気がする。
しばらく池底を睨むように見つめていたが、朱華は突然頭を大きく左右に振った。また自分の悪い癖が出ている。何でも悲観的に考えては、結果より先に自分を追い込む。だめだ、こんなことでは。
朱華は自分に活を入れるように頬を両手で叩いた。そして勢いよく立ち上がった。力の入らない指先が池底の岩から浮き上がり、踵がずるりと滑った。
しまった、と思ったが既に遅かった。体が浮きかけたところで、そよめいていた風が不意に止んだ。
背後から伸びてきた手が、朱華の腰を強く後ろに引き寄せた。
「……何をしている」
低く、たしなめるような声が耳元で囁く。清らかで澄んだ香りが立ち上り、包まれるような熱を背中に感じて、朱華の心臓は激しく波打った。
「……ここに飛び込んだところで、死ぬことはできんぞ」
振り仰いだ朱華は、深淵の闇を溶かし込んだような瞳が、薄い光を湛えているのを見た。
「蘇芳……さん?」
風が、気づいたようにまた動き出した。
蘇芳はそのまま腕に力を込めると、朱華を池から引き上げた。朱華は気まずいやら恥ずかしいやらで、乱れた着物の裾を慌てて引き下ろす。頭の中には蘇芳の声が重く響いていた。
「あ……あの」
朱華は着物の襟元を正しながら、振り絞るように声を上げた。
「私、死のうとしていたわけじゃありません。足を浸していたら、滑って……」
蘇芳はちらりと朱華の足元を見て、ふっと視線を逸らした。
「……そのようだ」
「あの、でも……助けていただいてありがとうございました。きょ、今日もそうですが、あの時も……」
「……お前はよく、厄介事に巻き込まれる」
両袖に手を入れて、蘇芳は池の水面に視線を落とした。
「弟に、会ってきたのか?」
その言葉に、朱華ははじかれたように蘇芳を見た。琥珀はこの人の霊獣だ。この人の命令であの町に連れて行ってくれたのか。そうでなくても、この世界のことは全てお見通しに違いない。
「……はい、会えました」
快活な進之助の姿が頭をよぎり、少しだけ声に力がこもった。
「あんな世界があるなんて驚きましたが……また会えて話ができて良かったです」
青々とした空は暮れ方を迎え、朱華を見つめる蘇芳の瞳にも橙色の光が映り込んだ。
「お前の弟がここに来られたのは、お前のおかげだ」
「……え?」
いぶかしげに朱華は蘇芳を見上げた。
「私の、おかげ?」
「お前の弟は、影喰に寄生されほとんど翳を食い尽くされた。やつらに喰われると魂はここに来ることはできない。やつらの巣窟の、魘界に引きずり込まれて永遠に苦しむ」
朱華の瞳がせわしなく動いた。
「それをどうやらお前が阻んだらしい。……しかも通常越える死出の山を飛びこえて、強烈な光とともにこちらの世界に送り届けた。お前はただの翳視ではない」
かげばみ、えんかい、しでのやま――聞き慣れぬ言葉が渦を巻き、朱華の思考は追いつかなかった。自分があの時出した光が、進之助の魂を救ったということなのか。
「じゃあ、それは……」
両手でこめかみを押さえて、朱華は情報を整理しようと懸命だった。
「私の力で、弟はえんかいという所に行かずに済んだということですか?」
「ああ」
「……それは、私の力が、弟を救ったということ……ですか?」
「ああ」
歯がカチカチと鳴りだした。寒いわけではない。初めて手が届きそうな、一縷の望みのために。
「それは……それは……私には何か、役に立つ力が、あるということ……ですか?」
時が止まったように、蘇芳と朱華の視線が交錯した。
「ああ」
蘇芳の返事は短く、そして誠実だった。朱華の両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。声は震え体も震え、制御できない衝動に朱華は嗚咽を漏らした。両手で覆った指の隙間から、止まらない涙が滲み落ちていく。
自分は、弟の役に立てていた。
命を救うことはできなかった。巫女のところに行っても、笑った影を追い払っても、何の意味もなかったと思っていた。でも、意味があったのだ。不気味だ、縁起が悪いと蔑まれてきた自分の力に、意味はあったのだ。
涙はなかなか止まらなかった。止めようと目元を押さえつけても、溢れる涙はどうしようもなかった。
蘇芳はただ、水面を見つめながら静かに時を分かち合っていた。朱華にとってはそれが、わけもなく心強かった。
「……冷えてきたな」
どれだけ時が経ったのか。蘇芳の言葉に朱華が目をこすると、赤い空に夕陽が半分ほど姿を沈めていた。
「帰るぞ」
「あ……はい」
慌てて足袋と草履を取ろうとかがんだ朱華の背が、ふわりと暖かくなった。
「あ……え?」
見れば濃い鈍色の羽織が自分を包んでいた。銀糸の刺繍が夕陽を反射してきらめいている。蘇芳が自分の羽織をかけてくれたのだ。
「あ、あの……」
遠慮かお礼か、態度を決めかねていた朱華の体が突然宙に浮いた。
「えっ?えっ!?」
瞬く間に、抱き上げられていた。
「あっあの!大丈夫です!自分で歩けます!」
狼狽した朱華が手をばたつかせたが、蘇芳は揺らぎもしなかった。
「……ここは足場が悪い。琥珀より俺が運んだ方が早い」
蘇芳の着物の合わせ目からは、涼やかな白檀のような香りが漂ってくる。心臓の鼓動がわかりはしまいかと、朱華は胸の前で堅く両手を結んだ。
「……で、でも……は、恥ずかしいです、だから……」
消え入るような声で朱華は囁いた。その声に蘇芳は視線を落とし、わずかな間が空いた。
「……いや、すまん。……少しの間だ」
蘇芳は目を逸らし、ぼそっと呟くと腕に力を込めた。朱華はひどくうるさい心の声に必死に蓋をして下を向く。視界の端に琥珀の姿が見えた。いつの間にか石段を先に登っている。時折ちらりとこちらを振り返っては、機嫌良さげに尻尾を振っている。琥珀に助けを求めたいが、そうもいかない。ほとんど観念した朱華は、おとなしく身を預けることにした。
夕闇の湿気を含んだ風が袖を揺らすが、この人の傍ではまったく寒くない。ゆらゆらと真綿のような暖かさに包まれていた感覚が蘇ってくる。同時に、白練のあの言葉も。
「それはそれは、大事そうに抱きかかえてのぅ……」
羞恥の限界に達した朱華は、両手で顔を覆って、体を石のように強ばらせた。




