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第24話 もう一人の弟

「姉や!姉やでしょう!?」

 

 前方から、大きな声が聞こえた。

 反射的に、朱華は伏せていた顔をあげて声の方を見る。

 小さな人影。

 細い体には大きすぎる目。

 短く整えられた髪と、こざっぱりとした青いかすりの着物。


「……し、進ちゃん……?」 


 琥珀がぴたりと足を止めた。


「進ちゃん!?進ちゃん!」


 琥珀が背を低めるより先に、朱華はほとんどずり落ちるように降りた。

 心細い足元が揺らぎ、そのまま倒れそうになるのを琥珀がずいと支える。


「姉や!」


 進之助が走ってくる。

 朱華に飛びつきそうになるのを、琥珀が低いうなり声で制した。

 進之助はひっと小さい叫び声をあげると、数歩後ずさる。


「大丈夫。おいで、進ちゃん」


 朱華は琥珀をぽんと撫でると、そのまま進之助に向けて両手を開いた。

 琥珀の横を、身を細くするように通った進之助は、朱華の胸にがばと抱きついた。

 その軽さに、朱華の胸は締めつけられた。


「姉や!会いたかった!でも、なんで?姉やも、死んじゃったの?」


 あまりに直截な問いに、朱華はうっと言葉に詰まる。


「し……進ちゃんは?どうやって、ここに……?」


「よくわかんないや。すごく寒くて苦しくて、でもいきなりすごい光に包まれて、何か飲まされて、気がついたらここにいたみたい」


「そう」


 朱華は短く答えて、弟の頭をそっと撫でた。

 男の子にしては色の薄い、細くさらりとした髪の毛。

 栄養が、いき届いていない髪の毛。


 (これは、生前のままなのね……)


 その髪をなで続けながら、朱華はますます悲しくなってくる。

 再会できて良かった……と手放しで喜べない。

 ここでの再会は、間違いなく、進之助が死んだ証拠。


「姉や?」


 進之助が不思議そうに顔をのぞき込んでくる。


「泣いてるの?」


「……ううん!泣いてない!」


 朱華は無理に笑顔を作って、大げさに頭を横に振った。


「進ちゃんは、ここでどうしてるの?一人なの?」


「一人じゃないよ。おばあちゃんと、一緒」


 進之助はにこっと歯を見せて笑った。


「でも、僕の小さいときに死んじゃったから、あまり覚えてなかったんだけど」


 えへへと照れくさそうにして、進之助は通りに面した一つの屋敷を指さした。


「あそこが家。おばあちゃんもいるよ」


 ちょうどその時、屋敷の戸口で一つの影が揺れた。

 少し腰を曲げた、小柄な影。


「お祖母様!」


 朱華の大きな声に、横にいた琥珀がびくっと反応した。

 進之助と手を取り合いながら、朱華はその戸口に急ぐ。


「姉や、怪我してるの?」


 不自然な歩き方を、進之助は不審に思ったようだった。


「うん、でも大丈夫。早く歩けないだけだから」


 もつれそうになる足を庇いながら、朱華は祖母に抱きついた。


「お祖母様……!」


「……大きくなったねぇ、朱華」


 小柄だが、節のしっかりとした手が、朱華の背中を包み込んだ。

 その手も体も、少し、ひんやりとしている。


「お祖母様、わたし……」


「うん、うん、まさか、こんなところで会えるなんてねぇ……」


 祖母・文子ふみこは朱華の頭をあやすように撫でると、静かに体を離してじっと顔を見つめてくる。


「それにしても……朱華、すごい別嬪さんになったねぇ」


「そ、そんなこと……」


 真顔で言われて、朱華はぽっと顔を赤らめた。


「姉やは綺麗だよ!みんなそう言ってた!」


「し、進ちゃん!」


 懐かしくて、優しい再会。

 ここで弟だけでなく、祖母にも会えたことは、何か意味があるのかもしれない。

 知りたいことが、たくさんある。


「お祖母様、少し、聞きたいことがあるの」


 声を落とした朱華に、文子は何か悟ったかのように頷いた。ただ少し落ち着かない様子で、朱華の背後にそっと視線を送る。


「そちらは……八翳様の霊獣様だろ?お待たせしていいのかい?」


 いつの間にか周囲には、人垣が出来ていた。

 琥珀の存在感、威圧感は別格で、広い道幅を三分の一ほど占拠している。

 めったに拝めない存在に、畏れと憧れを込めた視線が集まっている。


「少しなら、多分大丈夫。……あ、もしかして、お団子とか、ある?」


「お団子?家にはないけど、ちょっと先に行ったところに、美味しい団子屋があるよ」


 朱華の顔がぱっと明るくなった。

 琥珀は言葉がわかっているのかいないのか、心なしそわそわしてきたようだ。


「琥珀は、お団子が大好きなの。……どうして一個しか食べないのか、わからないけど」


 文子は微笑むと、進之助を手招きして、何かを手に握らせた。


「進坊、それでお団子買っておいで。霊獣様にもさしあげて」


「えっ!?」


 進之助は切羽詰まったような声を上げて、祖母と琥珀を交互に見る。


 (琥珀が、怖いのね……)


 朱華は心の中でふふっと笑うと、琥珀に顔を近づけた。


「琥珀、ごめんね。少しだけ時間をちょうだい。その間、この子がお団子をくれるから、食べててね」


 琥珀は瞳を半開きにして、横にいる進之助を流し目で見る。

 そしてそのまま回れ右をすると、立派な尻尾で進之助の尻をぺしっと叩いた。


「えっ!?」


 明らかに狼狽えて、進之助は泣きそうな顔で朱華を見上げる。


「大丈夫。琥珀は優しいから。お願いね、進ちゃん」


 進之助はほとんど半べそをかきながら、小さく“うん……”と呟いた。

 琥珀にせき立てられるようにして、進之助は歩き出す。

 取り囲んでいた人垣は、合図もなく波が引くように両側に分かれ、琥珀は進之助を追い立てながら悠然と歩いていった。


「朱華は、その……まだ、生きているんだよね?」


 進之助を見送り、奥の座敷で向かい合うと、文子は言いにくそうに切り出した。


「……どうして、わかったの?」


「影が、あったからね」


「えっ?」


 室内であるにもかかわらず、朱華は思わず自分の背後を確認してしまう。

 文子はその様子をじっと見つめている。


「ここは、生きていた頃と大差ないだろう?でもね、皆、影がないんだよ。存在自体もぼんやりしててね、でも朱華が現れたとき、とてもくっきり姿が見えた」


(影がない……?)


 小首をかしげた朱華を見て、文子は柔らかく笑った。


「よくわからないだろう?私もここに来たとき、何が何だかわからなかったよ。でもね、ここでもお寺さんがあって、そこで色々教えてくれるんだよ。この世界の仕組みとか、やってはいけないこととか」


「この世界の、仕組み?」


「そう。ここは死者の世界らしくてね。死んだ後ここに来て、三十三年間過ごすらしい。その後、“上界”とやらへ行くらしいの。そこに行くとね、戻ってこられないんだって。私が来た時にね、貴女のおじいさんがここにいて、でも一年一緒にいただけで、いなくなってしまった。考えてみれば、ずいぶん前に亡くなったから、三十三年過ぎたということかしらね?」


 祖母の落ち着いた声は、朱華に大きな安心感を与えてくれる。

 昔から、朱華が敬語を使わないで話せる唯一の存在だった。


「どうやらこの世界は、“八翳様”という八人の神様みたいな人が治めているらしくてね。……さっきの霊獣様は、その中でも一番偉い人のお側仕えだって教えられたよ」


 その通りだ。

 死者にも正確な情報が与えられていることに、朱華は少なからず驚いた。

 確かに、変に隠し立てしたりしない方が、秩序や道徳は守られるのかもしれない。


「……お茶でも出してあげたいところだけど、まだダメなんだよね、朱華は」


 文子は困ったように笑う。

 ここの世界のお茶を飲んだら、迷いも何も関係なく、朱華はここの住人になってしまう。

 生前と同じような祖母の気遣いが、本当に嬉しかった。


「……ところで、聞きたいことって?」


 朱華の言い出しにくさを察したのか、文子が先を促してくる。


「あ……その……あのね……」


 どこから話そうか迷いながらも、朱華はここに至るまでの経緯を簡潔に、でも順番は違えず丁寧に説明した。

 文子は眉をひそめたり、驚いたり、時折袖で涙を拭いながら、静かに耳を傾けてくれた。

 あまりにも非現実的なことが連続して朱華を襲ったことに、憤慨しているようにも見えた。


「紀美さん……何てことを……」


 一通り話を聞き終えて、文子は声を震わせた。


「何があったって、実の娘を追い出すなんて……進之助の死と、朱華は何も関係ないじゃないか!」


 穏やかな祖母からは考えられない怒気が、袖を握りしめる小刻みな震えからも伝わった。

 朱華は視線を落として、両手で膝上の着物を握りしめた。

 こうして自分のために涙し、怒ってくれる祖母に会えただけで、胸がすっと軽くなるような気持ちになった。


「紀美さんはね……」


 文子は自分自身を落ち着かせるように、湿った袖をすっと払った。


「清吉が旧都に商いに行った時にね、そこの呉服屋のお嬢さんで、お互い一目惚れとかで、うちに嫁いできたんだ。でも、旧都と雪深い田舎じゃ天と地の差があるだろう?なじめない上に、出産で……」


 そこで、文子は言葉を詰まらせた。

 朱華はその先を待ったが、しばらく、文子は口を閉ざしたままだ。


「お祖母様……?」


「あのね、もうこれは、私も死んでいるわけだし、言ってもいいと思うんだけどね……朱華、お前は双子だったんだよ」


 朱華は大きく目を見開いた。


「双子……?」


「そう。双子だった。お前が先に出てきて……ただ後に出てきた子はね、息をしていなかった。……男の子だったよ」


 朱華は息を詰まらせた。

 双子……自分に、双子の弟がいたということ……?


「驚くのも無理はないよ。このことを口に出すのは禁忌だった。使用人で知っているのは、ヨネと番頭さんくらいだし。でもそれでね、紀美さんは精神的にまいってしまった。その後しばらく子どもに恵まれなくて、親戚たちからひどいことも言われてね。狂ったようにあちこちの神社やお寺に祈願して、十年目にようやく授かったのが、進之助だった」


 瞬きも忘れて、朱華は文子の顔を見つめ続けた。

 乾燥した瞳がピリピリとしてきて、ぎゅっと目を閉じた。

 朱華は思い出していた。


「お前は……お前は、私から全てを奪う!進之助だけじゃない!あの子も!みんなお前が殺したのよ!!」


あの時の母の言葉は、そういう意味だったのだ。


「突然こんなことを聞かせてごめんね。でもそんな経緯があったとしても、紀美さんがお前にしたことは許されることじゃないよ」


 文子はいつになく厳しい声で、きっぱりと告げた。


「お祖母様……じゃあ、その、私の双子の弟も、この世界にいるということ……?」


 朱華の問いに、文子は少し困ったような顔をした。


「……亡くなったのはずっと前だから、ここにいるはずだけど、どうだろうね?この世界は、死んだ時の状態で過ごすらしいから、赤子のままってことだよね?どこにいるのか、探しようがないねぇ……」


 朱華も黙ったまま、こくんと頷く。

 双子の、片割れ。

 どこにいるのだろう?


 行き場のない気持ちを抱えて、朱華はうつむいた。

 考えてもどうにもならないことはたくさんある。

 けれど、この事実は、朱華の心の一隅を、細い針のように貫いた。


「グゥ……」


 朱華の頭を撫でていた文子の手が、ビクッと止まった。

 戸口の方から、不意に低い唸り声が聞こえてきたのだ。

 一瞬で、現実に引き戻される。


「あっ、琥珀!」


 朱華が顔をあげると、穏やかな祖母の瞳がのぞき込んでくる。

 “大丈夫”と小さな声で言うと、朱華は笑顔を作って、そのまま立ち上がった。

 戸口へ行くと、琥珀が姿勢正しく朱華を待っていた。

 対照的に、進之助は肩を落として、だらりと座り込んでいた。


「ね……姉や。このおっきい狼、歩くの速いし、力強いし、団子一瞬で食べるし……もう一個あげようと思ったら、投げちゃうし……」


 朱華は苦笑いして、進之助を抱きしめる。


「ありがとうね、進ちゃん」


 別れの時間が、迫っていた。

 琥珀が、静かな瞳で促してくる。


「お祖母様……」


 後から続いて出てきた文子の胸に、朱華は飛び込んだ。

 もうこれが、最後かもしれない。

 今回は琥珀が連れてきてくれたが、そう易々と死者の世界に出入りすることはできないだろう。


 自分自身の居場所さえ、まだ決められずにいる。

 泣かないと決めていたけれど、涙が溢れてくる。

 大好きな進ちゃん、お祖母様。


「朱華……会えて良かった。お前はね、私の自慢の孫だよ。最後まで、というわけにはいかないだろうけど、進坊のことは任せてね。……また、会えるかもしれないしね」


 朱華の背をさすりながら、文子の途切れ途切れの声が、震えている。


「うん、元気でね……お祖母様」


 死者の世界でその言葉が適切かどうかはわからなかったが、元気でいてほしい。それが、偽らざる願いだった。

 琥珀がとん、と朱華の背を鼻で突いてくる。

 薄光の差すその世界を後にするとき、朱華の耳には、“姉や!”という進之助の声が、いつまでもこだまのように聞こえていた。


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