第21話 雪の中の抱擁
「あんたが、殺したのね……」
母の真っ赤な目が自分を見据えていた。悲しみ、苦しみ、絶望、狂気……ありとあらゆる否定的な感情を言葉にしても、母の目に宿った色を表現することは難しかった。朱華を見ているが、見ていなかった。朱華を通して、何かもっと陰惨で邪悪な存在と対峙しているかのようだった。
「朱華、あんたが殺したのね……」
思い知れと言わんばかりに、紀美はその言葉を繰り返した。
「……殺してなんか……」
あまりの衝撃にうまく口が動かなかった。尻をついたまま後ずさりした朱華に、紀美はその分一歩踏み込んだ。
「あんたが帰るまでは、まだ息があったのに……」
片袖を握りしめている紀美の手は、端から見ても良くわかるくらいぶるぶると震えていた。いつも品良く結い上げている髪は幾筋もほつれ落ちて、汗と涙で頬にはりついている。
「あんたが進之助を打って……覆い被さって……そしたら、変な光が出て……」
紀美はことの順を辿るように、ぼそりぼそりと言葉を繋げていく。段々と少しずつ言葉は不穏な興奮をはらんでいった。
「光がやんだら……そしたら……そしたら……進之助は死んだ!!」
言い終えるやいなや、紀美は膝を折り、朱華の胸ぐらにつかみかかった。
「お……お母様!?」
喉元を急に締め付けられ、朱華は苦しげに顔をゆがめた。
「お前は、どれだけ私から奪えば気が済むの!?跡取りのあの子が羨ましかったの!?お前は健康で、何不自由ない生活をしてるじゃない!それなのに、なんで、なんで――」
紀美の声に、今までにない強烈な怒気が宿った。
「お前は……私から全てを奪う!進之助だけじゃない!あの子も……!みんなお前が殺したのよ!!」
怖ろしいほど見開かれた目で睨みつけると、紀美はその細い体からは信じられない強い力で、朱華を無理矢理ひきずり立たせた。朱華は胸が詰まり、その力に抗おうと手足をばたつかせる。紀美は朱華の胸元から手を滑らせて腕をつかむと、そのまま力いっぱい引っ張った。
「お、お母様!やめて!」
朱華は抵抗するが、紀美の力に抗えない。周りの女中たちはその様子にあっけにとられ動けないでいる。ヨネさえも縛られたように立ち尽くしていた。
「お母様!」
朱華は抵抗したが、それでも紀美に引っ張られて歩かされる。とてつもない勢いで階段を降り、紀美は朱華をそのまま戸口まで引きずっていく。途中で座敷から出てきた父と目が合った。だが父もあっけにとられるだけで、動こうとはしなかった。
框から土間にそのまま降り、派手な音をたてて戸を開けると、紀美は朱華を外に突き飛ばした。あまりの勢いに、朱華はそのまま尻餅をついた。また降り出した雪が、尻や足袋の底に硬い石のような冷たさを伝えてきた。
「出てお行き」
頭上から見下ろして、紀美は触れたら切れそうな鋭さで短く言い放った。
「出ていけって、お母様……どうして!?私は進ちゃんを殺してなんかいません!守ろうとしたんです!救おうと……」
「おだまり!」
紀美のえぐるような一喝で、朱華の声はかき消えた。
「影が見えるのなんのって、お前が変なものを惹きつけたんだよ!それで進之助を病気にするだけじゃなくて、我慢できなくなって殺したんだろ!」
「そんなことしていません!私は、進ちゃんを影から救おうとして――」
「――影!影!影!何だいそれは!?気味の悪い!お前がすべての不幸の元凶なんだよ!これ以上、もう耐えられない!」
母の目からは涙があふれ出していた。
「もう、出てお行き!金輪際うちと関わるんじゃないよ!」
母は歯を食いしばるように唇を歪めると、そのまま朱華を見ることもなく戸を閉めた。
「お母様!!」
朱華は締められた戸に追いすがり、喉を絞るような声で叫んだ。
「違うの!違うのお母様!私が殺したんじゃない!私は、守ろうとしただけなの!」
凍てついた空気に、朱華の声だけが反響した。
「許して!ここを開けて!お母様!お願い!お願い!」
ドンドンと戸をたたく音が、重く響いていく。手の側面は青黒く腫れ、痛みさえも通り越していく。
「ねぇ、お願い!お母様!お父様!ここを開けて!お願い!」
朱華の声は徐々にかすれ、すがり続けた爪が割れて戸に細く赤い筋が走った。
朱華は声の限りに泣いた。こんな力、好きで持ってきたわけじゃない。影が視えて、良かったことなんて一度もない。自分はできることは全部やった。でも自分には、進之助の命を救う術など何もなかった。
――初めから、無力だった。
朱華は自分の体を支えきれなくなり、そのままずるずると雪の上に身を横たえた。固まった雪に頬が直接触れ、その冷たさに頭から貫かれるような衝撃が走った。ガクガクと体が一層大きく震え出した。身体の底まで寒さが染みこみ、まるで自分が透き通っていくようだった。
だがもういちど立ち上がる力など、ほんの少しも残されていなかった。朱華は最後の力をふりしぼって、指を戸の方まで滑らせた。真っ白な雪の上に、赤く薄い線が滲んでいった。
「……中に入れて……お願い……」
かろうじて視界を支えていた細い光さえも失われていく。それが、自分の声を聞いた最後となった。
弥生にしては珍しく、その日の雪はだんだんと勢いを増していった。夜も更に深くなり、凍てついた空気が張りつめていた。道には人影もなく、ただ真っ白な雪だけが静かに舞い落ちてくる。その音のない世界に、雪を踏みしめる気配があった。一人か、いや複数の気配だった。
秘めやかな足音が急に速度を増した。降り積もる雪をものともせず、雪と同色の巨体を揺らして駆けていく。白銀の狼だった。
「くぅん」
朱華のもとに駆け寄ると、姿に似合わぬ繊細な声を出して、その身体に積もった雪を前足で必死に払いのけていく。半ば埋もれた顔に鼻先を近づけると、舌で朱華の頬をなめ始めた。まるで、少しでも雪をどかして暖を与えようとしているようだった。そしてそのまま、降り止まない雪から朱華を庇うように立った。
少し遅れてやって来たもう一人は、深緋の瞳で朱華を見下ろした。その瞳に映ったのは、色を失った顔と赤黒い血がこびりついた指先だった。
「どけ、琥珀」
蘇芳は膝をつくと、迷うことなく朱華をそっと抱き寄せた。その体はまるで氷のようだった。頬に張りついた涙が、固まって結晶のように形をとどめていた。
見つめる蘇芳の双眸が、焔を宿したようにわずかにゆらめいた。だがすぐにそれを抑えると、そのまま朱華を抱き上げて踵を返した。
「帰るぞ、琥珀」
琥珀は戸に残った赤い筋をひと睨みすると、低いうなり声でそれに応えた。




