第20話 あんたが、殺した
どれだけ走ったのかわからない。
ただ、気づけば家の前にいた。
心臓が飛び出そうなくらい苦しくて、肩が大きく上下する。
冷たい夜気を大量に吸い込んだせいか、朱華は大きくむせた。
それでもすがりつくように家の戸に倒れ込み、そのまま勢いよく開けた。
中は、騒然としていた。
女中たちが慌てて、階段を行き来している。
朱華と目があった女中は、一瞬驚いた表情を見せたが、声をかけることもなく走っていく。
(なに……どうなっているの?)
朱華は急いで草履を脱ぎ捨てると、そのまま二階に駆け上がる。
泥水を含んだ足袋は汚れ、重くなっていたが、今は気にしている余裕はない。
「進ちゃん……!」
すれちがった女中が目を見開いて朱華を見る。
いつもしとやかで、礼儀正しいお嬢さん。
その印象は、もはや過去のものだった。
「朱華!?」
弟の寝所に飛び込んだ朱華を、化け物でも見たかのように、紀美が咎めた。
「あなた、何て格好を……!」
綺麗に結い上げていたリボンと髪紐はいつしかほどけてなくなり、豊かな黒髪が散っていた。
薄桃色の小紋は所々に染みが付き、深緋の袴は皺だらけ。極めつけは、茶色く濁った足袋だった。
「あなた、そんな汚い格好でここに来て!進之助に何かあったらどうするの!?」
紀美は居丈高に叫んだが、朱華は動じなかった。
そのままヨネや母をかき分けるように、弟の元に直進する。
「進ちゃん……!」
眼下の弟は、もうほとんど呼吸をしていないようだった。
朱華はその青黒い顔に動揺したが、すぐさま背後の影を視た。
弟から伸びている薄い影が、カサっカサっと音をたてて、少しずつ背を低めていく。
影喰は生気と体温を進之助から奪い、今にも、食事を終えようとしているのだ。
「だめっ!進ちゃん!」
朱華は本能のまま、とっさに弟に覆い被さった。
どうしたら良いかなんてわからない。
ただ、少し、また少しと姿を細めていく影をつなぎとめなければ、そう思った。
弟の背後に手をのばし、無我夢中で影をつかみ取ろうとする。
まるで、必死に穴を掘るように。
「朱華!何をするの!?」
紀美の声が悲鳴に変わる。
娘が、突然死にかけの息子に覆い被さり、その頭や背を打ち据えているように見えたのだ。
「やめてっ!やめなさい!」
「お嬢さん!やめてください!」
奇行にはしった朱華を、紀美とヨネが取り押さえようとする。
無理矢理進之助からひきはがそうとして、三人はもみくちゃになった。
「なにしてるんだい!」
怒気を帯びた男の声が背後から響いた。
清吉だった。
その声にはっとして、紀美とヨネの攻撃を防ごうと伏せていた頭を朱華は上げた。
進之助の背後がくっきりと視える。
――にぃ。
笑った!誰かが笑った!
消えようとする影が不自然に固まりうごめき、人の顔のように笑ったのだ。
朱華は直感した。
――これは、勝利の笑みだ。
「だ、だめ!……進ちゃん、だめーー!!」
進之助の頭を抱えたまま、朱華は絶叫した。
喉がちぎれんばかりの声が、天井や壁を揺らす。
体の中心から、焼けつくような熱が走った。
次の瞬間、朱華の体から、強い黄金色の光が爆ぜた。
あまりにも眩しく、鋭い光――。
紀美も清吉も、部屋にいるすべての人間は、とっさに目をつぶるしかなかった。
ただ、その光は長くは続かなかった。
まるで何かに挑むように、何かを制するように発せられた、一瞬の光。
しばらくして、朱華は進之助から身を浮かせた。
何が起こったのか、自分ではわからない。
ただ進之助を影から守ろうとした途端、体がものすごく熱くなった。
おずおずと、進之助の顔をのぞき込む。
朱華の心臓がどくんと波打つのと、紀美の突き刺すような声は同時だった。
「進之助!進之助!目を開けて!」
紀美は狂ったように朱華を突き飛ばし、進之助を揺さぶった。
その胸に耳を当て、また揺さぶり、耳を当て、を繰り返す。
「進之助!」
清吉も傍に駆け寄り、力強く名前を呼ぶ。
だが、進之助の目は閉ざされたまま、胸に置かれていた小さな手は、だらりと布団の外に投げ出されていた。
「急げ!早く!お医者を!」
いつになく取り乱した清吉が、振り返って大声をあげた。
朱華はその様子を、ただ、虚ろな目で見つめていた。
心は、もう空っぽだった。
ほどなくして、医者が駆けつけた。
先刻診察をして帰ったばかりだったが、また呼び出されることは予想していたようだ。
医者は進之助の脈と瞳孔を落ち着いた様子で診ると、重々しく、ゆっくりと頭を横に振った。
「嘘……嘘ですよね!?進之助は、また目を覚ましますよね?」
紀美は追いすがるように、医者の白衣をつかみ、握りしめる。
その手を、横から清吉がそっと包み、ほどいた。
「紀美……」
「ねぇ、あなた、嘘よね?進之助は、また、また……」
嗚咽にのまれた言葉は、それ以上続かなかった。
「奥様……」
ヨネが紀美の背を、なだめるようにさすり、寄り添う。
けたたましい紀美の泣き声が響き渡り、その声につられるかのように、あちこちですすり泣きが漏れ出した。
清吉は唇を噛みしめ、爪が厚い掌に食い込むほど拳を握りながら、もう一方の手で進之助の頬を愛おしそうに撫でた。
ようやくできた跡取り息子だった。それが……。
無理に上を見上げたが、閉じた目からもあふれ出す涙は、隠しようがなかった。
それでもいっそう強く唇を噛みしめて、清吉は医者の方に向き直った。
「今日は……ありがとうございました。後のことは、階下で……」
医者をうながし、清吉は部屋を出て行った。
父と母の様子を視界にとらえながら、朱華は動くことも、言葉を発することもできなかった。
体から全ての力が抜け落ちて、地面に引きずり込まれるような虚脱感。
こんな感覚は、今まで知らなかった。
進之助を、救うことはできなかった。
あの弓の人が言っていた。
“影喰を祓っても、寄生した影は消えない”、と。
なぜ、もっと早く気づかなかったんだろう。
罵られても、阻まれても、ずっと進之助の傍にいるべきだった。
(でも……)
傍についていたところで、救えたのか?守れたのか?
結局自分は影が視えるというだけで、救うことはできない。
中途半端な力でみんなを怖がらせるだけで、何もできない。
(皆の、言うとおり……役立たず)
流しすぎて乾いた涙が張りついて、目尻や頬がチリチリとする。
自分をどこかへやってしまいたいと思いながら、畳の目地をぼんやり見ていると、不意にそこに影がさした。
朱華は反射的に顔をあげた。
そこには、母が……紀美がゆらりと立っていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「あんたが、殺したのね……」




