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第19話 救えぬ影

 やぶれ目のように裂けた空気の隙間から、ひとつの翳が歩み出た。

 音もなく、朱華の前にぬっと誰かが割り込んでくる。


 黄朽葉色の着物の上から留めた胸当てには、黒いさねが配され、風を受けて翻った広袖が、朱華の視界をかすめた。

 背に負った黒い弓が、その大きな体躯たいくを引き締めている。

 無駄のない所作で朱華を背にかばいながら、刃黄じんおうの氷のような眼光は、既に千早をとらえているようだった。


 千早は朱華に伸ばしていた手をあわてて引っ込めると、突然の邪魔者を正面から睨みつけた。


「誰っ!?」


「お前が影喰かげばみか」


 感情のこもらない、淡々とした声で応じながら、刃黄は背から長い弓を取り下ろした。

 細身の黒漆くろうるしに、山吹色の細い一筋が走る弓だ。

 つがえた矢羽のやじりは鉄ではなく、“影断かげたちの金”と呼ばれる特殊な金属で、黒ずんで鈍く光っている。

 その一連の動作は流れるようで、千早の挑発的な挙動にも一切揺らぐことはなかった。


 千早は敵の強靱きょうじんさを察知したのか、一瞬出方を考えるようなそぶりをみせたが、代わりに勢いづいたのが“まさお”の影だった。

 千早の首からするりと小さな手を離すと、“ギギッ”と動物のような声を発しながら身を起こし、そのまま刃黄めがけて突っ込んできた。


 その瞬間、刃黄の指がつるを離れた。

 所作はごく自然で落ち着いたものだったが、矢はまぶしい光に包まれた。

 朱華がその光を見たのと、聞いたこともない不快な叫び声があがったのは、ほぼ同時だった。


「まさおっ!!」


 怒るような、すがるような千早の声。 


 “まさお”の額の中央に、寸分狂うことなく矢が突き立っていた。まるで失われた幼子の記憶をまねるように、“まさお”は両手で額を押さえ、くぐもった声で泣き叫んだ。


「まさおっ!いやよ!まさおっ!」


 室内の甘くえた匂いが、悲鳴にかき混ぜられて腐るように濃くなっていく。

 刃黄は黙ったまま弓をおろした。


 影の急所は眉間みけんだ。そこを“影断ちの金”で射られれば、ひとたまりもないはずだ。

 ほぼ任務が片付いたと判断すると、刃黄は半身をひねった。

 腰がたたず、座ったままの朱華と目があう。だが刃黄の眼差しは、先ほどまでの冷徹さとは違う静けさを帯びていた。


「怪我はないか?」


 探るような響きはあるが、怖さや冷たさは感じない声だ。


「……はい」


 (これは現実なの?)


 朱華は麻痺しかけている感覚を何とか取り戻そうと手探りする。

 何が起こっているのかわからない。きっと説明されても、わかる自信はない。


 (わからないけど……)


 何だか、嫌な予感だけはする。

 朱華は力の入らないふくらはぎを叩いて、畳に手をつきながら、そろそろと立ち上がった。


「助けていただいて、ありがとうございます」


 しっかりと頭を下げてから、朱華は刃黄を見上げた。

 いかにも真面目そうな人だ。

 胸当てや籠手こては黒々と冷たい光沢を見せているが、着ている着物や弓は黄色が差し色となっている。


 (またこの人も、翳人の里の人……?)


 自分が巻き込まれた様々な事件が頭の中に飛来する。

 複雑な想いで刃黄をとらえていた朱華の瞳は、その背後にゆらりとした息づかいを感じ、途端に緊張した。


「あ……」


 言葉にならない音が、朱華の口から発せられた。

 刃黄も異変を察知して、影に視線を転じる。


 ずずっずずっ……


 不快な音が、“まさお”から出ている。

 泣き叫ぶ声はいつしか消え、目を閉じた“まさお”が踏ん張るような顔つきを見せる。

 やがて、“まさお”の顔は額から真っ二つに割れ、中から出てきた粘性のある影が固まり始める。その先っぽがまた、にゅるりと“まさお”の顔になった。


 影が、二つになった――!


「――何だと!?」

 

 刃黄は言うが早いか、目に見えぬ速さで矢をつがえる。

 放たれた光と、二つの影が、ぶつかった。


 鼻をつく臭気の中で、耳をつんざくような叫びが響き渡る。

 刃黄の矢は間違いなく、驚くべき速さで二体の額を射貫いていた。

 

 ただ、それは始まりだった。


 二体の“まさお”はまた分裂し、二体の“まさお”に増殖する。

 四方向から刃黄めがけて、段々と分裂の速度を増してくる。


「どういうことだ!?」


 刃黄は次々と矢を放ち続けた。

 影は眉間を射貫けば消滅するはずだ。

 射貫くほど増殖する影など、聞いたことがない。

 だが影は増えるばかりか、増殖するスピードも、とてつもない速さになってくる。

 刃黄はそれでも朱華を背後にかばいながら、光矢を放つ。


 朱華は怖かった。

 怖くて足は動かず、ただじっと目を見開いて立ち尽くしているしかなかった。

 “まさお”は大量の影に分離して、次々と刃黄に襲いかかっている。


 朱華はふいに、視線の先に千早の姿をとらえた。

 感極まった、ほとんど恍惚とした表情で、“まさお”の暴走を見守っている。


 ただ、そこに――。


 朱華はよく見極めようと、すっと目を細める。

 千早の懐から、黒い霧のような線がのび、複雑な軌跡を描いている。

 その影はもやもやと絡まりながらも、すべて“まさお”の影につながっている。

 まるで大樹からのびた枝葉がしなるように、影が縦横無尽に暴れまくっているのだ。


 (もしかして、あれ……)


 次々と増え続ける影。

 それがすべてつながっている千早の懐。


「あ、あの……!」


 ありったけの勇気をこめて、朱華は叫んだ。


「何だ!?」


 影の応酬に追われている刃黄が、視線はそのままに聞いてくる。


「あの、間違ってるかもしれないけど……巫女の、千早の懐から、影が出ています!」


 返事はない。

 だが代わりに、息をのむ音が聞こえた気がした。


「影だと!?お前、視えるのか!?」


「み……視えます!でもわからないけど、巫女の懐がおかしい!あの懐を、胸を、射って!!」


 無数の影が花火のように散って、刃黄の横をすり抜け、朱華めがけて襲いかかろうとする。

 朱華の祈りのような叫びは、光矢が空気を震わす波動に重なり、刃黄の力が炸裂した。


「失せろ!」


 刃黄の咆吼が光矢とともに千早の懐を貫いた。


 途端、女と幼子の絶叫が重なる。

 社全体が鳴動するかのような衝撃が広がり、朱華は尻餅をついた。


 千早は胸元をかきむしり、喉がちぎれんばかりの叫び声をあげる。

 無数に散っていた“まさお”の影は、眉間をおさえて乱れ飛ぶと、一つの塊となって千早の懐に逃げ込んだ。


 そして――。


 “まさお”を抱いた千早は、そのままそこに崩れ落ちた。

 離れている朱華にも、千早が我が子の名前を繰り返し、あやすように呼んでいるのが聞こえる。


「まさお、大丈夫よ、まさお。いつも一緒にいるから……」


 なだめるような温かさに満ちた、母親の声だ。

 徐々に閉じられていく千早の双眸から細く、涙が筋を引く。 

 千早は自分の懐を両手で押さえ、今一度強く抱きしめようとする。


「まさお……」


 けれど、もう、それはかなわなかった。


 

 刃黄はまったく表情を動かすことなく、その様子を見つめていた。

 やがて力強い足取りで近づくと、千早が両手で握りしめている何かを、迷いなく取り上げた。


「……何だこれは?」


 ぼろぼろの、きっちりと丁寧に折りたたまれた布きれ……。

 つかんだ拍子に乱れて広がり、それは小さな子どもの着物になった。


「……これは依代よりしろか?依代から影喰が直接出るなど、聞いたこともない」


 影喰は本来、生きた人間から発生する。強い執着や怨嗟えんさが影を呼び込み、その身を怪異へと変えてしまう。だからこそ、依代から影喰が生まれるなどあり得ない。それを為すには、生者の怨念をも凌ぐ、さらに強大な力と術が必要だ。


 それも、かなり凶悪な何かが……。


 刃黄は不可解な後味の悪さに体が熱くなるのを感じたが、外には全く出さなかった。経験を積んだ無表情からは、いかなる心の動きも悟られることはない。


 刃黄が見つめる先で、千早の胸元に突き立った光矢と、刃黄の手にある“まさお”の着物が、うっすら金沙のような膜で覆われ始める。


 少しずつ、千早と“まさお”は姿を崩して溶け込み、金沙の波が浮き上がった。しばらく時間をかけて、それらは一点を目指して中央に集まり、小さな、本当に小さな橙色の炎となった。


 身を寄せ合うように離れない、ひそやかな二つの鬼火に……。


 刃黄が懐から小さな壺を取り出し蓋を開けると、寄り添って震えていた二つの鬼火は、もじもじとためらうかのように揺れる。やがて一つが壺に向かい動くと、すぐにもう一つも後に続いた。


 すかさず蓋を閉めると、刃黄は護符のようなものを二枚、壺の本体と蓋の境目に貼り付けた。そして慣れた様子で懐に収めると、そのまま朱華の方に顔を向けた。


「さっきは助かった。礼を言う。お前は……翳視なのか?」


「……かげみ、というのはわかりませんが……影は、視えます」


 すりきれた神経にむち打つように、朱華は立ち上がった。


「なぜここにいた?」


 ぶっきらぼうな物言いだったが、疲弊のあまり感情が薄くなっていた朱華は、淡々と答えた。


「弟が巫女に治療してもらいましたが、急に具合が悪くなって……その……影が欠けていて、おかしいと思って、巫女に会いに来ました」


「そうしたら、襲われたのか?」


「……はい」


 我ながら、警戒心がなさ過ぎたとも思う。ただあの時は必死すぎて、思考がはたらかなかった。


「……いや、待てよ」


 刃黄の声が、急に低く慎重になった。

 朱華の目に、訝しげな色が走る。


「お前の弟の翳が欠けていたということだよな?それは……まずいぞ」


 無遠慮に見える刃黄が、なぜか言いにくそうだ。


「何がまずいんですか!?」


 朱華の心臓が鳴り出す。これは、嫌な予兆だ……。


「その……影喰に寄生された生者は、徐々に自分の翳を喰われていく。お前が視て欠けていた、というのはそういうことだろう。だとすると、翳はやがて影喰に全て呑み込まれる。そうすると……そいつは死ぬ」


 (死ぬ……)


 朱華はその言葉を頭の中で何度も反芻はんすうした。


 (死ぬ、死ぬ……進ちゃんが、死ぬ……!?)


「でもっ!」


 すがりつくように、朱華は数歩進み出た。


「いま巫女も影も消えましたよね!?それなら、弟の中の影も消えるんでしょう!?」


 刃黄はぴくりと肩を揺らした。


 重い沈黙が、朱華にのしかかってくる。


「……残念だが、影喰本体をはらっても、既に寄生した影喰まで消すことはできない。寄生先で喰らい続ける」


「じゃあ……!」


 じゃあ、何……?

 自分は何を言おうとしたのだろう。

 じゃあ……


 (進ちゃんは、死ぬ……?)


 朱華の顔は、きっと見るに堪えない形相となっていたのだろう。

 刃黄が、ふっと視線を逸らした。


「……とにかく、早く帰ってやれ」


 抑揚のない声は、朱華を気遣う気持ちが多少なりともあったからなのだろうか。

 その言葉を聞き終えないうちに、朱華は動き出していた。


 部屋の観音開きの扉を開けると、陽はとっくに落ちて、外は闇に包まれていた。

 そこに、千早の手下である例の男が、中の様子をうかがうように立っていた。


「な、なにがあったんですか!?」


 責めるような、問い詰めるような声をかけられても、構っている暇などなかった。

 答える代わりに、朱華は男の持っている大ぶりの提灯に目をつけた。


「借ります!」


 なかばひったくるように奪い取り、草履をつっかけながら朱華は走り出した。

 背後で何か怒鳴り声がするが、知ったことではない。


 暗い、暗い夜道。


 まだ明るかった行きの道でさえ、先に進むごとに、不安でたまらなかった。

 ましてや一点の光も見えない今、こんな鬱蒼とした林の中を突き進むなんて、普段の自分なら確実に怖気付いただろう。

 でも、今はそんなことはどうでも良い。

 一刻も早く帰らなければ……。


 (進ちゃん……!)


 夜目に加えて、涙で滲む視界を指で拭いながら、朱華は吸い込まれそうな夜の中に突っ込んでいった。


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