第18話 白き巫女の正体
なぜかまた急に冷え込んできて、道が硬さを増し、滑りやすくなっていた。
まだ日暮れでもないのに、陰鬱な雲が光を遮っている。
朱華は走っていた。
荒沢の観音堂の先なら、歩いて四十分ほど。走れば、何とかなるはずだ。
口から乾燥した空気が入り込み、喉がヒリヒリしてくる。
袖で口元を覆いながら、なるべく外気の侵入を阻もうとするけれど、限度があった。
しばらくすると、足が重くて速度が落ちてくる。
途中で何人か知り合いに声をかけられたが、脇目もふらずにとにかく進んだ。
いつも礼儀正しい朱華のただならぬ姿に、好奇の視線が突き刺さる。
今はそんなこと、どうでもよかった。
ふくらはぎが痙攣し、脚が言うことをきかなくなっても、朱華は前に進み続けた。
観音堂に近づくにつれ、辺りは急に人気がなくなり、温度も下がったように感じた。
ここは、自分を冥婚に引き込んだ、その発端の場所……。
翳人の里から戻ってからも、朱華は怖くて中には入っていない。
弥一の絵馬は、絵師を呼んで新しく作り直し供養したと聞いたが、それを見たいとは思わなかった。
見て、平静でいられる自信がなかったから……。
観音堂の隣には、香山神社の社が並び、朱の剥げた鳥居が、長い歴史を物語っている。
その鳥居の下に、自分は倒れていた……。
朱華は気まずい思いで、観音堂の側道を進んでいった。
先に進むにつれて、木々の密度が増していく。
晴れている日でも、昼なお暗い道である。木漏れ日も頼りない曇天の今日は、いっそう心細かった。
道はぬかるんでいて、朱華はあわてて草履で来てしまったことをひどく後悔した。
湿った土の冷たさが、足袋にまで染みこんでくるようだ。
(でも、どうしても確かめたい)
千早という巫女、いったい何者なのか?
進之助の背後に視えたあれは、いったい何……?
疑念と胸騒ぎで、息苦しくてたまらない。
胸をおさえながら、いつの間にか歩みに変わっていた朱華の目に、やがて、妙に真っ白な木の鳥居が見えてきた。
まるで誰かが一晩で建てたような、不自然な白さと新しさだった。
その奥に、灯明を掲げた藁葺き屋根の社がある。
(こんなお社、昔からあったっけ?)
記憶を辿りながら、朱華は鳥居をくぐる。
近づくと、社殿の朱色が非常に鮮やかで、真新しいのがひどく目立った。
やはり、昔からあるお社ではなさそうだ。
一帯は薄暗く、まだ夜でもないのに灯りを必要としている。
少ない光源を頼りに浮かび上がる朱の社殿は、神聖さとは異なる不思議な空気に包まれている。
違和感をぬぐえないまま近づいたところで、朱華は急に行く手を阻まれた。
「何用ですか?約束は、ありますか?」
眼光の険しい男だった。
着ている着物は妙に上質そうだが、何だか雰囲気にそぐわない。
視線も無遠慮で、まるで値踏みするように、朱華を上下に見てくる。
「約束はしていません。巫女様に、お目にかかりたいのです」
男はあからさまに、蔑むような顔つきになった。
「ああ……だったら帰ってください。よくいるんです、何もなしに来る人が。約束と拝み料が必要です。千早様は、そんな簡単にお目にかかれる方ではありません」
得意げに言うと、男はさっと背中を向けた。
「でも!弟が大変なんです!千早様に治していただいたのに血を吐いて!お願いです!千早様に会わせてください!お願いです!」
去ろうとする男の袖をとらえて、朱華は何度も何度も頭をさげた。
「だからっ!約束と拝み料が必要です!帰ってください!」
男は勢いをつけて袖を振り払い、朱華はそのまま地面に投げ出された。
寒くて暗い林の中で、雪混じりの湿った土が朱華の着物を濡らした。
それでもめげずによろよろと起き上がろうとしたとき、突然、“シャンシャン”という鈴の音が、社から響き渡った。
男の顔から、先ほどまでの尊大さがすっと消え、代わりに“憧れ”とも“畏れ”ともつかない表情が浮かんでいく。
「千早様!」
男は慌てて社の方に駆けだした。
朱華はそのまま立ち尽くしていたが、目だけは男の動向を追っていた。
しばらくして戻ってきた男が、不機嫌さを隠しもせず、ぞんざいな言葉をかけてきた。
「千早様がお会いになるそうです。……こちらへ」
一転した状況に面食らったが、朱華は後についていくことにした。
先ほどの鈴の音は、千早からの呼び出しだったようだ。
社に向かい、草履を脱いで、凍ったように冷たい板敷の階段を上った。
観音開きの扉の前に着くと、ぎぃと自然に左右に開いた。
渋い顔の男を背後に感じながら、中に一歩、足を踏み入れた。
途端、めまいがするような花の香りが迫ってきた。
甘く、ねっとりとした香り。
奥の方に目を凝らすと、御簾の前に生花台があり、真っ白な百合の花が生けられていた。
(これ、百合の香り……?)
むせかえるような香りは、神経にも届いてきそうだ。でも、その甘い香りの先に、何か酸っぱいような、蒸れた匂いのようなものを感じる。
「お入りなさいな」
背後で扉が自然に閉まると同時に、優しい、蕩けるような声がした。
「失礼いたします」
朱華は扉が閉まった音に不安を感じながら、奥へと進んでいく。
御簾から少し離れたところで膝を折り、丁寧にお辞儀をした。
「突然にもかかわらず、お会いくださりありがとうございます。……私は、唐橋朱華と言います。半月ほど前、巫女様に見ていただいた、山城屋の、進之助の姉です」
御簾の向こうでは、少しの間があった。
「……ああ、山城屋の、坊ちゃんの……」
「はい。その節は、ありがとうございました。帰ってきて、弟は見違えるほど元気になっていました」
「……そう、それは良かったわ……」
包み込まれるような、ずっと聞いていたくなるような声色だ。
「……でも」
朱華は一度小さく深呼吸をすると、見えない御簾の向こうを見据えた。
「ここにきて、容体が急変しました。血を吐いて……今にも、死んでしまいそうです」
自分を奮い立たせながら、朱華は言葉を続けた。
「巫女様に治していただいたら、もうずっと元気になると思っていたんです。でも……どうしてこんなに急に、悪化したのか、わからなくて……」
「……」
少しの間が、朱華には耐えられない長さにも感じられた。
「それは、ねぇ……」
千早の気だるげな声に、溜息がまじった。
「かわいそうにねぇ……。私は確かにあの時、弟さんの病気を癒やしましたよ……?でも、人間には寿命というものがあるでしょう……?永遠に、生きていられるわけでもないし……」
黙ったままの朱華にも、千早はゆったりとした態度を乱さない。
幼い子に一つ一つ教え込むように、少しずつ、言葉をつなげていく。
「一度病が治っても、またいずれ病にはかかるものだから……それは、もう何ともね……弟さんの病が、ひとつではなかったということかしら……?」
「でも……!」
(影が欠けていました!)
続けて言ってしまいそうになった言葉をぐっとこらえて、朱華は強く唇を噛みしめた。下唇が少し切れて、鉄のような味が、カラカラになった口中に染みてくる。
(言えない。言えるわけがない)
特に、この得体の知れない巫女に、自分の特殊な力を悟られるわけにはいかない。
「でも、なぁに……?」
気だるげな声の後に、御簾の向こうで、くすりと笑う声が聞こえた。
朱華の中に流れる血が、沸き立ってざわりと音をたてた。
(こんな時に笑うなんて、なんて不謹慎なの……!)
(こんな人が、巫女……?)
(神様に、選ばれた……?)
朱華が拳を握りしめた時、御簾の向こうがゆらりと蠢いた。
「影が、欠けてたって……?」
低くざらついた笑い声が、朱華の耳を襲った。
その刹那、強い風が御簾をまくり上げ、真っ白な巫女が眼前に現れた。
突然のことに朱華は動けず、ただただ相手を見つめることしかできない。
巫女は口元を袖で押さえながら、目を細めて朱華を見つめる。
「あなた、翳視なんですってね……まさおが、教えてくれたわ」
朱華の体は恐怖で強ばり、その場に縫い止められたように動けない。
千早はゆったりと落ち着いた様子で歩を進め、いつの間にか真正面に来て、朱華を見下ろした。
獲物を値踏みする捕食者のような、いやらしい目で。
声を出せるときはまだ余裕があるときなんだと、本当に驚くと人は声も出せなくなるのだと、朱華はその時思い知った。
「せっかくまさおに、おいしいご飯をあげられるようになったのに。……あなた、それを邪魔するの……?」
幼子のように小首をかしげて、千早は心底傷ついたような顔をする。
「……まさお……?」
「ええ、そう、まさお。……私の息子よ」
千早は幸せそうに目尻を下げると、口元に当てていた袖を下げた。
朱華はすぐに、千早の胸元から黒色の影が滲みだしたのに気がついた。霧のように放出された影は徐々に密度を増し、粘度をともなって形になっていく。
やがてそれは幼い子どもの影になると、くるりと千早の背に移り、小さな手をその首に巻き付けた。
まるで、幼子が母の背におぶさるかのように……。
まばたきも忘れて朱華が見ていると、その影が千早の耳に口を近づけた。普通なら、幼子が母にひそひそ話をする微笑ましい絵。
けれど……。
「……そう。ええ、そうね。ご飯にしましょうね」
千早の声が、慈愛に満ちた母そのものになっている。
まもなく朱華に向けられた目には、薄い愉悦が宿っていた。
「まさおが言うにはね……あなたの翳、ものすごくおいしそうなんですって。どうしても食べたいって。だから、いい……?」
それは、許可ではなく、宣告。
朱華はようやく感覚の戻った手足を動かして、尻をついたまま必死に後ずさる。
千早はそれを面白そうに見ながら、朱華に速度を合わせるかのように、少しずつ近づいてくる。
だが、まもなく、しびれを切らした。
「まさおが、お腹を空かして泣いちゃうわ!……いい加減にして!」
どんっと右足で床を一度踏みならすと、千早は口元をゆがめて叫んだ。
その手が恐ろしい速さで伸びてきて、朱華をとらえようとする。
おぞましい気配にからめとられたように、朱華は手足の自由を奪われた。
(――もう、だめ!)
朱華の絶望に、空気が裂ける音が重なった。




