第17話 壊れた奇跡
卒業式の間もずっとうわの空だった。
呼び出された理由を澄世にだけ話すと、すぐに帰った方が良いと背中を押された。その気遣いをありがたく受け、朱華は式が終わるとすぐに校舎を後にした。
陽が高くなり、道に張っていた薄氷が溶け出して、朱華の歩みを阻んでくる。この日のために磨いてあったブーツに染みついてくる汚れと湿り気が、朱華の心をますます暗くしていった。
いつもより長く感じた道のりもようやく終わり、山城屋が見えてきた。店が開いていることにほっと胸をなで下ろす。進之助の病状が悪化したと聞いたが、まだ店を閉めるほどではないということだ。
ただ小走りで奥の戸を開けたとたん、いつもとは違う空気の匂いがした。ぬめりを帯びてまとわりつくような気配だ。朱華は框に腰をかけてブーツの紐を解いた。思うように動かない震える指先に鬱陶しさを感じる。ようやく上がって廊下を進み、階段の手前にさしかかったところで、降りてきた女中のイクと目が合った。
「あ……お嬢さん、お帰りなさいまし」
ばつが悪そうな色がイクの顔をかすめた。心なし体をひねって持っているものを隠すような素振りを見せる。その不自然さにすぐに気づき、朱華はいつもより大股でイクに近づいた。そして斜めからイクの持つ手桶をのぞき込み、そのまま息を詰めた。
「これ、なに……?」
手桶の中の水は、薄く鈍い赤みを帯びている。一緒に持っている布も赤く滲み、鉄錆のような匂いが漂っていた。
「あ、これは……」
イクは見るからにうろたえて、手桶を隠すかのようにますます体を横にひねろうとする。それを朱華はすばやく押さえて、手桶の中を改めて凝視した。
生臭い匂いが鼻孔を塞ぎ、朱華の中で何かがざわりと蠢いたような気がした。
「これ、もしかして進ちゃんの……?進ちゃんが……血を?」
どうか嘘であってほしい。朱華は震える声を絞り出した。
「そう、そうです……坊ちゃんのです」
「どうして?何があったの!?」
イクは涙目になり、体も小刻みに震えている。普段の余裕を失った朱華の形相は、イクをおびえさせたようだった。
「……今朝、お目覚めの後ものすごい咳をされて、とまらなくて……そのうち血も一緒に吐かれて……先ほど、お医者様がいらっしゃいました」
か細い声が朱華の頭の中で何度も繰り返された。イクは数歩退いて、そのまま盗み見るように下から朱華を見つめた。
朱華は身を硬くしたままわずかによろめいた。
何が起こったのか。病気は良くなっていたはずだ。それなのに、進之助が血を吐いた。一体自分の知らないところで、何が起こっているのか。
朱華の掌は嫌な汗でじっとり湿ってきた。不安は募るが今はとにかく弟に会うことが先決だ。そう思うと同時に、朱華の足は階段に向けて踏み出していた。
二階に上がり廊下を進んでいくと、空気の澱みはいっそう濃くなった。進之助のいる奥の部屋に近づくにつれ、生温かい匂いが鼻にまとわりついてきた。
「あっ、お嬢さん」
いつも行く手を阻む女中が、今回も朱華の前に出ようとするが、その顔を見て踏み出すことを躊躇った。
「お嬢さん!入ってはなりませんよ」
障子際に立っていたヨネが、朱華に気づいて勢いよく近づいてきた。だがそこには、ヨネの言動にうろたえ何も言えないあの朱華はいなかった。
「……どいてちょうだい」
声を荒げたわけではなかった。だが有無を言わさぬ低い一喝に、ヨネは焦りの色を目に浮かべた。胸の前に出されたヨネの手を押し戻すようにして、朱華は部屋に足を踏み入れた。
「朱華!?」
進之助を看ていた紀美が、ただならぬ気配を感じて振り返った。蒼白な顔に血走った目が妙に大きく目立つ。
「どうしてここに!?ここには来ないで!あっ……」
制止しようと立ち上がりかけて、紀美はそのまま均衡を崩し足から崩れた。咄嗟に伸ばした朱華の手が触れた途端、紀美の体はわかりやすく強ばり、慌てて朱華をはねのけようとする。いつもならさらに傷つくその態度も、今はさして気にならなかった。
「進ちゃん……」
母の横をすり抜け布団の端に駆け寄った。眼下の弟は、青さを通り越した土気色の顔でか細い息を漏らしていた。閉ざされた瞳は落ちくぼみ、口の周りには拭ききれていない赤黒い塊が点々とこびりついていた。名前を呼んでも反応はない。「姉や」と呼ぶ甘えた舌っ足らずな声が蘇り、朱華の中で必死に抑え込んできた何かがうねりとなって堰を越えた。
「どうして……巫女様に治してもらったんでしょう?あの日、元気になっていたじゃない!どうしてこうなるの?私を遠ざけて、いったい何をしていたの!?」
今までのわだかまりを一気に吐き出すかのように、朱華は叫んだ。その剣幕に紀美が赤く充血した目を見開いた。ヨネも微動だにせず、口を半開きにして朱華を見つめた。
「進ちゃん、進ちゃん!」
朱華は進之助の傍らに膝をついた。時折うっと息を詰めるように顔を歪める弟を落ち着かせようと真上から覗き込んで、そのまま息をのんだ。
ただならぬ気配が進之助の背後に澱んでいる。細い体を縁取るように沈んでいた薄墨色の霧のようなものが、ずるりと這い出してくる。
――影。
声にならない叫び声をあげて、朱華は動けなくなった。
徐々に這い出してきた影は、進之助の頭頂へ集まりやがて立ち上った。人の形をなぞりながら、それでもどこか歪んでいた。食い千切られように輪郭を失っていて、それは見慣れた影の形ではなかった。
さらに影の背後には、より濃厚で忌々しい別の気配があった。影の向こう側から何か得体の知れないものがこちらを見ているようで、朱華は大きく身震いした。
「朱華!」
紀美が叫ぶように、すがるように大きく名を呼んだ。一点を見つめて動かない朱華の姿にいたたまれなくなったようだった。
「あなた、何か視えてるんじゃないでしょうね!?違うわよね!何も、ないわよね?」
進之助との間に体を割り込ませるようにして、紀美は朱華の肩に手をかけた。朱華はされるがままになっていたが、やつれた母の青白い顔が妙に遠く見えた。
なぜ影が視えるのか。病が急に悪化したのか。でもこの影はいつも視える影とは明らかに違う。何か、進之助の身に変わったことはなかっただろうか。何か、何か……。
「巫女様がその手を坊ちゃんのお胸に当てると、すぐにお元気になったんです!」
不意にヨネの声が脳裏にひらめいた。巫女が進之助に触れた。そして回復した。急激に、そうあまりに急激に。
「……巫女様って、どこにいるのですか?」
肩にかかった母の手をそっと外すと朱華は立ち上がった。母の問いには答えなかった。紀美はすとんと座り込み、ヨネがその背後にまわって背を支えた。
「どこにいるの?」
うつむいてしまった母ではなく、朱華はヨネを見据えた。ゴクリと喉を鳴らす音が聞こえた。ヨネは視線を朱華から畳の上に落とすと、観念したように小さい声を出した。
「荒沢の観音様の……その先の森の中にある、お社です」
聞くやいなや、朱華はさっと体の向きを変えた。寝室から出て廊下を歩き、階段を降り、段々と小走りになっていった。玄関に着く頃には、完全に焦っていた。
「お嬢様、どちらへ!?」
イクの慌てた声を背後にしながら、朱華は戸口から外へ駆け出していった。




