第16話 祝福の裏で
「進之助が、快方に向かっていまして……」
山城屋では、春を待つ雪解けのように穏やかな空気が流れていた。店でも奥でも繰り返される明るい報告に、安堵と激励の言葉が返される毎日である。
朱華から話を聞いた澄世も、感動もあらわに声をうわずらせた。「やっぱりその巫女さん、すごい人だったんだね」と満面の笑顔で言われて、「そうだね」と答えた朱華は、手放しで喜べてはいない自分をどこかに宿していた。
進之助は確かに元気になってきたらしい。らしいというのは……あの日以来、進之助に会っていないからだ。
母はもとより、ヨネたち女中も命令を忠実に守り、朱華を進之助からわざと遠ざけている。食事も進之助は寝所でとっており、居間に降りてくることもない。たまに見かけても、声をかける前にヨネたちに阻まれてしまうのだ。
進之助が巫女のところから帰った折、確かに見違えるように活力を取り戻していた。「姉やといると少し楽になる」と言って、ぐったりと傍で項垂れていた前夜とはまるで別人だった。だが既に“用済み”となった自分に、進之助のその後をうかがう機会はない。
夕餉の時、ヨネが給仕をしながら大きな声で喋っていた。「巫女様がその手を坊ちゃんのお胸に当てると、すぐにお元気になったんです!」と。
朱華は目だけで追っていた教本を閉じると、文机の端に手をかけて立ち上がった。心の中は答えのない問いで占められていて、勉強どころではない。そのまま歩いて窓辺に立つと、軒先から張り出した雪庇が暗い影を落としていた。眼下には誰が作ったのか雪だるまが見えた。陽の光を受けて歪んだ目鼻に少し薄気味悪さを感じて、朱華はさっと視線をそらした。
母に言われた“悪い気”という言葉が、突如胸にせり上がってきた。
なぜ自分だけ、あれほど母に嫌われるのだろうか。
――自分には影が視えるから。
ずっとそれが理由だと思ってきた。自分が影を視た人は例外なく直に死んだ。死の予兆を告げる不気味な娘……だから、遠ざける。
だがそれはもう昔の話だ。影を視るということが普通ではないと気づいてから、視ても口に出すことはなくなった。周りを不安にさせるから、視えても気づかないふりをした。それでも母の態度はずっと変わらない。いっそう、冷たくなることはあっても。
――何か他に理由があるのではないか。
その思いが最近頭を離れない。自分の知らないところで、自分にはどうにもならないところで、母の心を凍らせた原因があるのではないか。
知らず背中を丸めていた朱華は、しばらくして突然背筋を伸ばした。やめよう。こんなことを考えても所詮は堂々巡りだ。
朱華は頭を振ってぐいと顎を上に向けると、目を閉じて「こはくこはくこはく……」と唱え始めた。口の端が、じきに自然と緩んでくる。翳人の里から帰ってから、思考を切り替えるおまじないとして編み出したものだ。
大きくて、かわいくて、モフモフの琥珀。
あの毛並みに包まれるとほんわり暖かくて、全部どうでも良くなりそうになる。その幸福感で頭を満たし切り替えるのだ。
「よし、大丈夫」
朱華は自分を奮い立たせるように声を出し目を開くと、心の中で「ありがとう琥珀」と呟いた。
***
その日の朝は、きりりとした冷気と眩しい陽光が印象的だった。
道の両端に積み上げられた雪が灰色にくすみ、薄く氷の張った道は歩くのに注意が必要だったが、磨き上げた黒の編み上げブーツで慎重に坂を上った。
校門には、白布に深い朱で紋を染めた旗が掲げられている。風を受けながら、それはこの学び舎の節目を告げていた。
校庭では、吐く息は白く、袴の裾を冷たい風が払っていく。春はまだ遠いけれど、季節の変わり目を感じさせる空気が、その場をいっそう華やいだものにしていた。
今日は卒業式、女学生最後の日。
「うわぁ……朱華、なんか今日、いつにも増して綺麗……!」
教室に入ると、先に来ていた澄世がすぐに近寄ってきた。
「やっぱり、老舗呉服屋のお嬢さんは違うねぇ……」
うっとりとした眼差しで、澄世は朱華を上から下まで遠慮なく見る。
朱華が濃紺の羽織を脱ぐと、薄桃色の着物がふわりと光を返した。白い梅の花が散るその小紋は、母がかつて誂えたものだという。深緋の袴が全体をきゅっと引き締め、朱華の姿勢の良さを際立たせていた。
「この梅の花……刺繍じゃない、すごいね」
「そんな大したものじゃないって……母のお古よ」
「いや、さすが旧都のお嬢さんだっただけあるね、朱華のお母さん。今日はいらっしゃるの?」
「……うん、多分」
朱華は歯切れの悪い返事をして、ごまかすように微笑んだ。世間体を何より気にする人だ。多分来るだろう。この小紋も朱華を想ってというよりは、山城屋として恥にならないようにという気持ちからだ。
表情を曇らせた朱華に気づいたのか、澄世がわざと明るい声を出して胸をはった。
「ほら見てよ!私の銘仙。柄はかわいいけど、大胆柄でごまかしてるっていうか」
澄世の着ている灰桜の小紋には、薄鼠の細い縦縞があり、全体に小さな椿が舞っている。椿の中心の、見えるか見えないほどの小さな朱色の点が、とても良いアクセントになっていた。
「そんなことない。モダンでよく似合ってる。反対にそういうのが似合うのがうらやましい」
朱華の褒め言葉に、澄世はまんざらでもなさそうな表情を見せる。
「そう?これからの女性は、モダンで大胆でなくっちゃね」
「ふふ、なにそれ」
二人で顔を見合わせて、声を出して笑いあった。
二階の教室の窓からは、徐々に講堂に向かっていく母親たちの姿が見える。自分の母の姿がないか気にしていた朱華は、さっと顔色を変えた。
「孝太……?」
山城屋の丁稚・孝太だ。母親たちの間を縫うように、駆け足で校庭に入ってきた。やけに急いでいて、顔が青白く強ばっている。
家で何かあったのか。朱華は張り付いたように孝太の姿を目で追ったが、すぐに視界から消えてしまった。
どこへ行ったのか。先生のところだろうか。
膨らむ不安を持て余していると、まもなく、朱華は教師から教室の外に呼び出された。
「先ほど、お家の方から連絡がきてね」
担任の羽黒先生が、かけている丸縁眼鏡の縁を掴んで位置を整えた。何かを考えていたり、困っているときに出る先生の癖だ。
「今日の卒業式に、お母さんが出席される予定だったけど、来られなくなったそうだよ。弟さんの体調がすごく悪いとのことだった」
朱華の眉間にしわが寄った。
「体調が悪いって、どのくらいですか?すぐ、帰った方が良いですか?」
普段はおっとり気味の朱華が矢継ぎ早に尋ねたことに、先生は少し目を見開いた。
「いや、詳しいことはわからないけどね。卒業式は予定通り出席するようにとのことだった。ただ……これは言付かったわけではないけれど、式が終わったらできるだけ早く帰った方が良いだろうね」
先生は諭すように少し声を低めた。
「……わかりました。ありがとうございます」
朱華は礼儀正しくお辞儀をした。先生の靴音は徐々に遠ざかり、朱華の胸のざわつきはより強くなっていった。




