357 赤い蝋燭―上
ウィズベリアの腹心――アラドが、バビロンへの連絡や会議の事務作業を終え、女宰相の待つ天幕へ戻っていく。
一日の疲れを踏みしめながら歩いていた彼は、ふと異変に気づいて立ち止まった。
真っ暗だ。
明かりの一つも見えない。
今の今まで、古祭壇の上はいくつもの明かりで照らされていたのに、だ。
アラドは慌てず、ゆっくりと一歩下がった。
すると、今までと同じように無数の松明やランタンに照らされた明るい夜の光景に戻った。
「……まったく」
アラドがまた、一歩進む。
再び闇に閉ざされて、彼は目を閉じた。
そして記憶の中にあるウィズベリアの天幕へ向かって歩を進めた。
しばらく行って立ち止まり、ゆっくり手を前へ伸ばす。
指先が天幕入り口の垂れ幕に触れた。
アラドはホッと安堵の息をつき、それから天幕へ入るなり叫んだ。
「ウィズベリア様! 術を使われましたな?」
そうして主を叱るつもりで天幕の奥へ歩いていって、彼はハッと息を飲んだ。
天幕の中心には燭台の載った小さなテーブルがあり、それを囲むように四脚の椅子。
ウィズベリアは天幕の主人の席に腰かけて、アラドに向かって「シーッ」と人差し指を唇にあてた。
他の三脚は客用の椅子で、そのうち二つには王国人が座っていた。
アラドが言う。
「お越しでしたか。コクトー宮中伯。グレン卿」
コクトーは小さく、グレンは深く頭を下げた。
席を見回してから、再びアラドが言う。
「……席を外しましょうか?」
ウィズベリアが薄く微笑む。
「いて構わんよ。人魚の蝋燭を使うから」
アラドの目がテーブルの上の燭台へと向かう。
燭台には赤い蝋燭が立てられているが、火は灯っていない。
「ゲストがもう一人いらっしゃる?」
「そうだな。では入り口で待っていてくれるか?」
「承知しました」
「すまない、アラド」
アラドは天幕の入り口まで戻った。
ウィズベリアが燭台の赤い蝋燭の露出した芯を指先でつまむ。
そしてそのまま擦り上げ、パッと手を離した瞬間、火が点った。
グレンが言う。
「この蝋燭は?」
ウィズベリアが妖しく微笑みながら語る。
「赤い蝋燭は人魚の蝋燭。歌と嬌声で船乗りを惑わし、誘い、船を沈める人魚を、網にかけて陸に上げ、殺すのだ。するとどうだろう。その死体には海上とは逆に、静寂の呪いが宿るのだ。――そう、これは人魚の血と肉と脂で作った蝋燭なのだよ」
するとコクトーがフン、と鼻で笑った。
「赤い蝋燭は、それを囲んだ人間の会話が他には聞こえなくなる防諜用のまじないだ。無論、人魚の血肉など入っておらん」
ウィズベリアはつまらなそうに片肘をついた。
「相変わらず面白みのない男よのう?」
「人はそう変わらぬものです」
「気づかれては?」
「あなたが夜を呼んだのだ、気づかれないでしょうな」
「クク、不機嫌だな? 私のせいか?」
「こんな場で呼びつけるのはおやめいただきたい。すべてが台無しになりかねない」
「ずいぶんと小胆だな、コクトー?」
「あなたに命じられて王国に入り十数年。小胆でなければ獅子の牙にかかってここにはおらぬでしょう」
「この場はバレたところでどうということはないよ。会談の夜に敵味方なく酌を交わす。外交の本質だ、何もおかしなことではない」
「みながそう思うとよいですが」
そこで会話が止まり、ウィズベリアの視線がグレンに向いた。
グレンは内心で、会話の端々から伝わる二人の関係性に驚いていて、ウィズベリアの視線に気づくのに遅れた。
訪れた静寂にハッと彼女を見る。
赤い蝋燭に照らされたウィズベリアは、グレンが立場も年齢差も越えて思わず色を覚えるほど艶やかであった。
コクトーが言う。
「……見入るな。魅入られるぞ」
「!」
グレンが慌てて視線を外す。
ウィズベリアが口を尖らせる。
「コクトー? 人聞きの悪いことを言う……」
「事実、あなたはココララ卿の母御。あなたにもあると考えるべきだ」
しかし、ウィズベリアは即座に否定した。
「ないよ。ココララに分け与えたわけでもない。枷は付けたがな」
すると、ずっと不機嫌そうな顔だったコクトーが初めて驚いた顔を見せた。
「なんと……ココララ卿とはそれほどに?」
「困ったものよ。器の大きさを受け継いだはよいが、中身がまったく知らぬ力だった。隔世遺伝なのか変異なのかわからぬが……」
「変異ではないでしょう」
「そう思うか?」
「能力の方向性だけを見れば【惚れ薬】。首吊り公が【蛇縄術】を極めたように……と考えるのが自然です」
「ならばよいのだが……」
「あなたが変異だから遺伝したとお考えなら、それはいらぬ心配でしょう。歴史上変異魔導者は何人も記録にありますが、その子に変異が受け継がれた例はない。器を受け継いだため、能力が発展したと考えるべきでしょう」
「……うん。お前が言うならそうなのだろう」
「ええ。おそらくは」
また会話が止まり、今度はグレンも気を許さなかった。
ウィズベリアの瞳がこちらを向き、それに応えることができた。
グレンの目を見つめたまま、ウィズベリアがコクトーに言う。
「……まさか雛鳥を呼ぶとは、な?」
コクトーがそれに答える。
「利があってのこと。お気に召しませんでしたか」
「いや、理屈はわかるよ? 外交の場で両国友好の象徴と持ち上げれば、この子らは王国に帰ってから無下にはされまい。鳥の子たちの地位を押し上げることができる。……だが、のう?」
ウィズベリアは努めて柔らかな顔を作って、グレンに問うた。
「グレン卿。そなたはどちらの国に忠誠を誓う?」
この問い。
グレンには「お前は信用できない」と言われたように聞こえた。
王国に生まれ育った皇国人の子。
どちらから見ても半端な存在。
だがこの境遇はグレン自身や彼の両親が選んだ結果ではない。
国同士の諍いに翻弄された身なのだ。
だから、自分を翻弄した当事者ではないにせよ、国の柱石から発せられたこの問いには腹が立った。
だが――。
(怒るな、グレン。ウィズベリアに他意はない)
(他意はない、むやみに俺を怒らせたくないから、あんな顔を作ってる)
(でも、俺が忠誠を誓うのって……どっちなんだ?)
グレンは彼自身に問いかけた。
長い時間、黙していたが、ウィズベリアとコクトーは何も言わずにそれを待った。
やがて――グレンが口を開く。
「国、でなければなりませぬか?」
「……なに?」
ウィズベリアは眉を顰めるが、グレンは気にせず続ける。
「ずっと考えていました。なぜ俺には、獅子への忠誠がひとかけらもないのだろうと」
「ほう。ならば――」
「――でもそれは王国を憎んでいるからではないのです。酷い扱いは何度も受けましたが。でもその恨みを支えに生きてきたわけでもないのです。なぜなら、半端な存在の俺を受け入れてくれた人たちもまたいて、その人たちの大半は王国人でしたから」
「……ロザリー卿もそのようなことを言っていたな」
「そうなのですか?」
「いや。続けてくれ」
「ハッ。……こんな半端な自分にとって何が重要か――そう突き詰めていったとき、自然と答えに至ったのです。国ではなく人に尽くそうと。自分にとって、それはロザリーなんだと」
「〝骨姫〟に忠誠を誓うと?」
「いいえ。彼女を解き放ちたいのです。そのためには王国は狭い。皇国へ逃がさねば」
「……なるほど、悪くはない」
「それに、これは俺自身にも利のあることです。ロザリーも〝雛鳥〟。彼女が大空を舞う日が来れば、俺たち雛鳥もきっと――」
グレンが熱く語っていたそのとき、【赤い蝋燭】によって話が聞こえていないアラドが、三人に向かって報告した。
「――ゲストが参られました。お通ししても?」
グレンの言葉が止まり、それを見たウィズベリアがアラドに頷く。
「ああ、通してくれ」
アラドが入り口の垂れ幕を開く。
年季の入った魔導騎士外套を着た騎士が入ってきた。
その男を目にしたグレンは、思わず立ち上がった。
「ドルク……!」
というわけで、二番目にやりたかったのはスパイ二人とグレン、ウィズ様の密談でした。
色々雑談させたいことがあったのに、それぞれ職務上話さなきゃいけないことがあるせいで思いきり脱線できないのが誤算でした。





