276 流亡の異神
現れた女神は、女神ならではの美しさと神聖さを備えつつ、さらに加えて穏やかさと優しさまで窺わせる。
艶やかな黒髪が滑り落ち、黄昏の海を思わせる深淵の淑女。
「これが……、女神メドゥーサ……!?」
「人間族の、本当の祖神……!?」
これまで人間族の祖神はアテナであると伝え聞かされてきた。
剣神アテナこそ、人間族を生み出した偉大なる神であると。
そのアテナこそ、モンスターをけしかける諸悪の根源であり、人間族を虫けらのように見下す邪悪なる神であった。
そんな邪神を始祖に持つ人間族はなんと哀れな存在なのだろう。
人間族は呪われた種族なのか。
そんな絶望の最中に現れた本当の祖神である。
まさに救われたかのようであった。
『おおおおおッ!! 妻! 私の妻メドゥーサ!』
先の呪いより解放された男神ポセイドンが駆け寄る。
『まさに奇跡だ! 二度と会えぬと思っていた! 創世期より共に歩んできたお前と!!』
『すべてはペレの眷族ギャリコのお陰。私は数千年前の過ちを清算するために消え去るはずだった。それを現世に呼び戻してくれたのか彼女です』
女神は優しげにギャリコを見詰める。
『ほんとうにありがとう、アナタの極めし技術に、神の賞賛を与えます』
「いえ、そんな……!!」
畏まるギャリコ。
神より直々に褒められた鍛冶師は、ドワーフの歴史の中でも彼女だけだろう。
『そしてセルン』
「えッ?」
『アナタこそ、私を現世に呼び戻してくれた最大の功労者です。よくぞ私の望みを叶えて、アイギスの盾を破壊してくれました……』
「それこそギャリコの手柄です。ギャリコが修復してくれると信じていたから、躊躇いなく剣を振り下ろせたのです」
セルンは謙遜するが、女神メドゥーサは被りを振る。
『始まりはそこではありません。アナタは、もっと最初から私を救ってくれました』
「え?」
『アナタは私を信じてくれたではないですか。だからこそ私の声を聞き、私の望みを叶えてくれたのです』
それができたのはセルンだけだった。
聖剣を通し、より大きな声を放つことができたのは、世界の主導権を握っていたアテナ。
アテナの怨嗟の声を聞き、誰もが『世界を支配するのは邪神である』と疑いをかけてきた。
その中でセルンだけがただ一人、聖剣は自分を見放さないと信じ抜いた。
だからこそ真なる神の声を聞けた、アテナの支配力に押し潰されて小さくか細くなった声を。
「……僕は、信じることができなかった」
エイジが言った。
「アテナの恨み声をそのままに受け取り、人間族の神は邪であると決めてかかっていた。だからアナタの声も土壇場まで聞こえなかった。……セルンこそ真の勇者なのですね」
聖剣を、みずからの命を預ける愛剣を信じ抜いた、真の勇者。
『アナタのお父様グランゼルドは、腐敗してゆく聖剣院を最後まで見捨てず支えました。アナタもまた私を信じ抜いてくれた。アナタたち親子二代、真の勇者の形を示してくれました』
「もったいないお言葉です」
セルンの頬に、嬉しさの涙が流れ落ちた。
自分自身でなく、亡父グランゼルドが神から賞されたことが嬉しいのだろう。
セルンが生まれもった愚直さは、間違いなく父から受け継いだもの。
親子ともども器用なたちではなく、もっとも基本的なソードスキル『一刀両断』を磨きに磨き抜いて勇者になった。
それは、頑ななまでに信じる心がなければ成しえぬこと。
見えない神も、見えない未来も、信じ抜くことが難しい。
見えないものを信じ抜くことにこそ心の強さが求められる。その強さを示したのが、他ならぬセルンとグランゼルドの勇者親子だった。
『そしてエイジ、アナタも……』
女神は最後に、エイジにも言葉を掛けた。
『アナタもまた、セルンたちとはまた別の勇者の形を示してくれました。アナタはすべての始まりでした』
聖剣院を離れ、聖剣以外のモンスターへの対抗手段を求めた。
その末に魔剣を見つけ出し、最強の魔剣を作り出す旅の途中で、世界の秘密を知り、モンスターを消し去る目的を見つけた。
『その果てにこうして私を解放し、アテナの目論見を粉砕してくれました。アナタの、他者に見えないものを見ようとする資質も、先人より受け継いだもの。私はそう思います』
「……」
『偉大なる青の勇者エルネアと、イザナミの眷族レイジに……』
「……」
エイジは何故か、その言葉に高揚を得られなかった。
我が生みの親が神から賞賛された。セルンのように感涙してもおかしくない。
しかし彼の心中に起こったのは、ザワザワを言いしれないさざ波だけだった。
「……アテナは」
代わりにエイジは問うた。
「女神アテナとは一体何者だったんです? この世界をモンスターの混乱に陥れた張本人。そしてアナタに代わって人間族の祖神に成りすましていた」
あの神こそがすべての元凶であると確定した今、アテナをどうにかすることこそが急務だった。
だからこそあの神の素性を捨て置くことはできない。
『……彼女こそ、私の過ちそのものです』
女神メドゥーサは心苦しげに言った。
『この世界を創り出して直後のこと、私は流れ着くあるものを発見しました……』
「流れ着く? どこから?」
『この世界の外からです』
その流れ着いた『あるもの』は衰弱しきっていた。
メドゥーサは、純粋な優しさから『あるもの』を保護し、介抱した。
やがて衰弱から立ち直り、復活した『あるもの』とは……。
「……それが、アテナ……!?」
『そうです、アテナはこことは別の世界からやって来た異邦神なのです』
回復したアテナは、最初こそ殊勝に恩義をひけらかし、アテナに隷属した。
助けてくれた礼と称してメドゥーサを援け、世界創造に尽力した。
『アテナの甲斐甲斐しい働きぶりに私もすっかりほだされ、信用しきってしまいました。愚かでした。それこそ彼女の目論見だと知らずに……!』
メドゥーサに取り入りきったアテナは、その隙を突いてメドゥーサを封印し、その力を奪い去った。
その夫神であるポセイドンまで立て続けに封印。
そして創世の黎明に乗じて『人間族の祖神』を偽称。他の神はまんまと騙され、接近を許し次々封印されていった。
そして最後に、アテナの望む混乱の世界が完成してしまった。
「世界の始まりに、そんなことが……!?」
『すべては私の罪です、アテナのうちに潜む邪悪を見抜けず、力を与えてしまった。その結果、愛する子どもたちに無用の痛苦を強いてしまった……!』
世界創造から続く人類種の苦難は、まさに女神アテナが引き起こした者。
そして真の剣神メドゥーサも、アテナの被害者でしかなかった。
「それも終わらせます。女神アテナには、その罪をしっかり償ってもらう」
「そうよ! こんなくっちゃべってる場合じゃないわ! 逃げたアテナを追わないと!!」
本来それこそが急務であったが、女神メドゥーサの語る世界の秘密があまりにも興味深いがために後回しになっていた。
『心配あるまい』
夫神ポセイドンが鷹揚に言う。
『アイギスの盾を失い、アテナはこの世界における権能の大半を失った。もはやヤツに手立てはない』
『すべてのラストモンスター化した男神も解放され。モンスターが新たに生まれることもありません。残るは、それこそ彼女自身にすべてのけじめをつけさせることのみ』
それを聞いてエイジたちも胸を撫で下ろした。
既にすべての決着はついたのであると。
しかしそう思った時点で彼らはまだ侮っていた。
異神アテナの底なしの邪悪さを。





