―5―
二日後、一人の男が捕えられた。ロイドが顔を確認した男は誘拐犯グループの一人だったらしく、そこから他に二人の男も捕まった。
話によれば、あの日アメリアが引きずり込まれた路地の、更に奥に馬車が用意してあったらしい。もしもアメリアがその中に連れ込まれていたら、営利誘拐として取引を終えた挙句、そのまま何処か遠くの地へ売り飛ばされてしまっていたかも知れない。考えるだけでぞっとする。
自分を助けてくれたロイドへの礼の為に、ウォーロック探偵事務所を訪れたアメリアは、借りてきた猫のように小さくなりながら感謝の意を告げた。それと同時に何か礼を、と言うアメリアに、ロイドはいつものように優しく笑った。
「お礼なんて気にしなくて結構ですよ」
「でも……」
「本当に、気にしないで下さい。結局、僕は犯人を捕まえられなかったですしね」
それならば、二日前に割れてしまった筈の眼鏡をせめて弁償させて欲しいとアメリアは申し出た。今ロイドの掛けている眼鏡は、二日前までとは違う物だ。すぐに新しい物を用意したのならせめてその代金だけでも、と思ったが、本当に大丈夫ですから、と流されてしまった。
「そんな事より、アメリアさん。一人歩きは控えるようにと、僕は言った筈ですよ」
不意にロイドの声が少しだけ硬くなる。口元の笑みが消えたのを見て、ああ彼は怒っているのだ、とアメリアは思った。
「……はい」
「たまたまあの近くに僕が居たから、何とか無事に済みましたが、そうでなかったら今頃どうなっていた事か……」
確かにそうだ。あの時、偶然彼が通りがかって助けてくれなかったのなら、きっと今こうしてのんびり会話をする事など出来ていないのだろう。
「ごめんなさい……」
しゅんとした様子でアメリアがそう言うと、ロイドはふっと微笑んだ。「宜しい」と短く告げ、彼の手がアメリアの頭に優しく乗せられる。そのまま二、三度軽く撫ぜられ、アメリアは猫のように目を細めた。
「アメリアさん。僕は怒っているんじゃないんですよ。ただ、貴方を心配しているんです。どうかそれは分かって、そしてご自分の身を大事にして下さいね」
彼の優しい笑顔と声から、その言葉が本心から言われている事が分かる。そこまで深く考えていなかったのだが、純粋に心配してくれていた彼を裏切るような真似をして、申し訳無かったなとアメリアは思った。
「ええ。……ごめんなさい。ありがとう」
話が一区切りした頃、ロイドは紅茶を淹れてくれた。アッサムにミルクを落としてくるくると掻き混ぜる。温かなミルクティーを口にすると、ほうっと柔らかな心地に包まれる。
アメリアは少しだけ考えた様子を見せ、それから思い切ったように口を開いた。
「あの、シャムロック伯爵、質問が……」
「ちょっと待って下さい」
ロイドは片手を上げて、彼女の言葉を制する。
「今の僕は伯爵ではない、しがない探偵です。だから、どうか伯爵とは呼ばないで下さい。それに、今日の貴方はどうもしおらし過ぎる。いつも通りのアメリアさんで接してくれると、僕も嬉しいです」
指摘されて、アメリアは困ったように僅かに眉を寄せた。自分は子爵家の娘で、相手は伯爵の地位を持つ。つまりロイドは自分よりも上位の存在である相手だ。今までは親しみ易さからつい気軽に喋ってしまっていたが、爵位を知ってしまった今はそのように話して良い筈も無い。そう思っていた。
だが、彼の方からそう申し出てきたのだ。確かにここはウォーロック探偵事務所で、今目の前に居るのは『ロイド・ウォーロック』だ。それが例え偽名だったとしても、彼がそう宣言するのならば、そのように接するのが良いのかも知れない。
それに、正体を知ってしまったからと言って、今までの関係が変わってしまう事は寂しいとアメリアは思っていた。だから、ロイドが今言ってくれた事は、アメリアにとっては純粋に嬉しい事でもあった。
「じゃあ探偵さん。改めて、訊いてもいいかしら」
「はい、何でしょう?」
「ええと、その……どうして探偵なんか……」
「そうですね。端的に言えば趣味ですか」
「趣味……?」
首を傾げたアメリアに、ロイドは少しだけ困ったように笑い、そして話してくれた。
「実は昔、僕も誘拐されかけた事があったんですよ」
「えっ、そうなの?」
「ええ。それで、その時に僕を助けてくれたのが、とある探偵だったんです。僕にとって、彼はヒーローでした。その時の事が未だに強く記憶に残っていて、僕もそんな風に探偵として誰かの助けになれたら、と。……子供の頃の話を今でも引っ張っているなど、実にお恥ずかしい話なんですが」
恥ずかしそうに話すロイドだが、アメリアは恥ずかしい事ではないと首を振る。その気持ちは良く分かる。アメリアにとっても、先日自分を助けてくれた彼はヒーローに見えたからだ。その気持ちを大人になっても忘れずにいる事は、何もおかしな事ではない。
「でも、僕は伯爵の爵位を持っています。それがある以上、僕はそう振る舞わなければならないし、僕もシャムロックの家を大事にしたいとは思っています。……だから、時々こっそりと。実はこの事務所に居る事は、恐らくアメリアさんが思っているよりもずっと少ないんです。本業がありますからね」
彼が言うには、この事務所には三日に一度来られれば良い方だという。当たり前だ。伯爵というのはそんなに暇な爵位ではない。彼の場合は特に若さ故に軽んじられる事もあるだろうし、あちらこちらとの交流もしっかり深めておかなければ、すぐに社交界から弾き出されてしまうだろう。
「一応僕なりに考えて、こうして髪で目元を隠したりして、カムフラージュしてるんですよ。これならパッと見て僕がシャムロックだとはバレないでしょう?」
「……なら、もしかして眼鏡も?」
「伊達です。顔を隠す為に」
言いながらロイドは眼鏡を外し、アメリアに手渡した。眼鏡を受け取ったアメリアは試しにそれを掛けてみる。成る程、確かに度は入っていないようだ。
何も変わらないでしょう、と笑いながらロイドは前髪をかき上げる。そこに覗いた鳶色の瞳が優しく微笑みの色を浮かべていた。改めて目にしたその顔に、アメリアは胸の鼓動が高鳴ったのを感じた。前髪と眼鏡に隠されてた瞳は、いつもこんな風に優しい色を携えていてくれたのだろうか、と。
「しかし、案外気付かないものですね。アメリアさんが全く気付いてくれなかった事、実は少しだけ寂しかったんですよ」
その言葉のトーンを聞き、アメリアはパーティーの日の事を思い出す。ダンスを終えた後、シャムロックが発した言葉――。
――案外気付かないものですね。
ああそうだ、確かにそう言っていた。
思い出してしまうと、またしても恥ずかしさがこみあげてくる。一曲分のダンスを踊ったという事は、あの間ずっと彼と密着していたという事だ。あんなに傍に居て、それでも全く気付かなかったなど、本当に間が抜け過ぎている。
「……し、仕方ないじゃない。だって探偵さんの事は、見た目で判断してる訳じゃなかったんだもの」
沢山話せばきっと探偵さんだって分かったわよ、と続けるアメリアに、ロイドは複雑そうな顔で笑った。
「つまりアメリアさんは、僕の内面の事は理解している自信があると、そういう訳ですね? そんなにも、僕の事を知ってくれているのだと」
「そっ、それは……」
そう言われると、今の己の発言がとても恥ずかしい事のように思えてくる。かぁっと頬を染めて俯くアメリアに、「それは複雑ですが嬉しい事でもありますね」とロイドは穏やかに告げた。
「では、そんな僕を理解してくれているアメリアさん。一つお願いがあるのですが」
――そこは強調しなくてもいいのに。
まるで揚げ足を取るような言い方をされ、アメリアは羞恥の為に俯いたまま応える。
「何かしら……」
「そろそろ『探偵さん』はやめませんか? 僕は、貴方には名前で呼ばれたいです」
「え……」
今のはどういう意味だろう、とアメリアはぱっと顔を上げる。ロイドは相変わらず優しく微笑んでいた。
名前で呼んで欲しいという申し出は分かる。だが「貴方には」というのはどういう意味なのだろう。それではまるで、彼がアメリアを特別視しているようではないか。
そう思うと、何故だか急に胸が締め付けられる気持ちになる。何処か甘やかなこの感情は、一体何だろう。
――ああ、これはきっと。
「……はい。……ロイドさん」
小さな小さな恋の花が芽吹くのを感じ、アメリアはそっとはにかむのだった。