第八章 針術師
針術師の男は四六時中一緒にいるというわけではなかった。一日に二度、食事や手当の道具などを持って現れ、作品の出来具合を検分し、元通りに包帯を巻いてゆく。時に何か思いつくのか、作品に手を加えて行くこともある。
常に海水に晒されている状態で包帯などしても無意味ではないかとかつて一平は思ったものだが、雑菌が入り込むのを防ぐためと炎症を抑えるためには有効であるらしかった。
施技の後一度ウラーが様子を見に訪れたが、絵を見せろと言われても男は断固として拒否をした。未完成のものを人目に晒すのは芸術家のすることじゃないとあくまで突っぱね、決して包帯を取ろうとはしなかった。
どうやらこの針術師はモノリスでも一目置かれているらしく、この男の針術師としての発言にはウラーも従うよう言い含められているようだった。
一平の背に刺青をと進言したのはウラーだが、針術師の選定は上層部の者が行っている。上層部の誰かと繋がりがあるために逆らうわけにはいかないのだ。その上層部が誰なのか、この男とどういう繋がりがあるのか、男は話そうとはしなかったが、そこまでのことは男との話の中から汲み取ることができた。
男はおしゃべりだった。対する一平はどちらかと言えば寡黙な部類に入る。それでも毎日の手当ての時間内に、男はかなり色々なことを喋ってくれた。
一平がわざわざ尋ねたりしないのに、モノリスの政治の中心人物たちの力関係をあれこれ教えてくれるのである。
施技の後、一平は石の台からは解放されたが、一平の手足には別の枷が付けられていた。サッカーボール大のごつごつした岩が、一平の両手両足首に嵌められた金属製の嵌め輪に繋がれていた。少し力を入れたくらいではびくともしない。従って行動範囲は限られる。
石の台に再び一平を横にさせ、包帯を取りながら男は言った。
「こんな部屋に閉じ込めておいてなおかつ四つの岩塊に見張らせるとは…。あんたよっぽどうちのウラーに怖がられてるんだな」
「オレはウラーを脅したり痛めつけたりした覚えはないのだがな」
「存在そのものが脅威だって思う奴も世の中にはいっぱいいるもんだぜ!?あんたの功績は有名だからな。歴代の者の中でもピカ一なんじゃねえの?
特にほら、あれ、火山の噴火を鎮めたってやつさ。トリトニアの青の剣の守人には神のご加護がついてるって、すげえ噂になってたもんな。何度も危ない目にあってるのにあんただけは致命的な災難も避けて通るって。それこそ不死人なんじゃないかって噂してる奴も少なくない」
「オレは…ただの人間だ。何の力もない」
「ご謙遜だねえ。…ま、それもあんたのいいとこかな!?」
一平にとっては謙遜でも何でもない。確かに力は培った。日々の努力と鍛錬で、武術は自分のものにした。しかし天賦の才というものはこんなものではないと一平は思っていた。一般の人から見て十分素晴らしいと思える実力を持ってはいても、一平の身近には、そんなことでは及びもつかない偉大なる力を神より与えられた娘がいたのである。
彼の妻であったその娘は、か細くか弱く、コンプレックスの塊であったにもかかわらず、癒しの力とそれに付随する様々な力を併せ持っていた。
数々の危険の渦中にあっても一平が今こうして生きているのは彼女のおかげであった。不死人でも何でもない。その生を全うしてなお、彼の妻は天上から一平の生を守り続けているのだ。自分の力ではない。
それを話すと男も言う。
「『偉大なる癒しの力の主』のことはオレも知ってるよ。その力のせいで何度も攫われたんだろう?その度あんたが鬼神と化して救い出した。違うかい?」
「微妙に事実とは異なるな。何もオレ一人の力でできたことではない。運も友も、そしてトリトン神もが味方してくれたおかげだ」
「その運ってやつを引き寄せるのも、凡人にゃできないことだと思うんだけどね、オレは。ましてや神様なんか、大抵の場合いくら願ったって聞いてもらえてるんだかどうだか…」
信仰心に篤いモノリス人らしからぬ言葉を男は吐いた。
―そうだろうか?―
そんなふうに考えたことはなかった。そう言われてみればそうなのかもしれなかった。
「可愛い姫さまだったんだってな」
物思いに耽っていた一平はハッと顔を上げる。すでに包帯は元通りに巻かれ、一平は上衣に袖を通して衣服の前を合わせていた。
「息子もいるんだろう?何で再婚しないんだ?あんたなら引く手数多だろうに。そんなに、あっちの方がよかったのかよ?」
「バカを言うな」
下衆なことを、と一平は目を吊り上げる。男はその光にびびって降参の仕草をした。
「冗談冗談…。いや、不思議だと思ってさ。あんたのその身体じゃ、満足できないだろうって誰でも思うよ」
再び一平の目が男を射る。
「あ…いや…」
男はたじろいだ。虜囚に対してする反応ではなかったが、それだけの気迫を、この虜囚はその気になればすぐさまその身に上せることができるのだと知る。
「ここの連中は…気持ちを切り替えるのが早過ぎる。連れ合いをなくして半年で新たに再婚する者が全体の五割もいるのはオレは感心せん」
一平は言った。後添えの話を持ちかけられる度、思ったことだった」
「ここの連中って…。そうか。あんた、地上生まれなんだったな。忘れてたが。あんたのいた世界じゃそうなのか?」
「最近は確かに離婚も増えたが、服喪期間は最低でも一年だ。連れ合いを亡くした悲しみが癒えるのはもっと先だし、諸般の事情が再婚を許さない場合もある。オレの父もオレが幼い頃母と死に別れたが、その後七年間独り身を通して死んだ」
「へええ〜。でも、その間女遊びくらいはしてたんだろ?」
「知らん。少なくともオレが素振りを感じたことはない」
「じゃあどうやって解消するんだい?子どもは増えなくてもいいのかよ?」
種族の数を増やすことこそここでは美徳なのだ。
「地上はここほど弱肉強食ではない。子どものいない夫婦も珍しくはない。オレ自身も女性の必要性はさっぱり感じない」
「…変わってるな、あんた。実に、変わってる…」
男は目を丸くして驚いた。
「だがそれじゃ…あんたの奥さんは女冥利に尽きるってもんだぜ」
「そうか!?」
打って変わって縋るような目で一平は男を見た。
パールを誰より愛したことには自信がある。だが、パール自身が女性として真に幸せだったかどうかは本人にしかわからないのだ。トリトン神は肯定してくれたが。
「もう結構経つんだろ?奥さんが死んで」
もう六年になる。当時二ヶ月だった息子のアスランは数ヶ月後には七歳の誕生日を迎えるのだ。
「あんたの気持ちは未だに奥さんの上にあるんだな」
「誰が何と言おうと…パールはオレの唯一の女性だ。未来永劫」
「そんなら奥さんの所へ行きたいと思うだろう?」
「以前はな。…オレとて心弱いただの人間だ。絶望して捨て鉢になったこともあったさ。だがオレにはアスランがいた。オレがやるべき仕事があった。それを果たすまではどうあっても死ねないのだ。あいつが命を張って守ったトリトニアの人々を守り、次代に繋げていかなければ、オレはもう一度あいつに会うことができない」
「誰に会うって?」
話の流れがスムーズに感じられず、男は訊いた。
「…妻だ。オレのパール。オレは必ず、今一度あいつに会う」
「奥さんは死んだんだろう?」
どうしても意味がわからない。
「ああ。だがオレは感じることができる。あいつの存在を。パールの魂はいついかなる時もオレを見守っている。必要とあれば手を差し伸べてくれる。あいつはオレのことを確かにどこかで待ってくれている」
とても信じられる話ではなかった。だが一平は真顔で回顧するように呟いている。本当に、信じているのだ。
「奥さんが天から…あんたを助けてくれてるって、言うのかい?」
「ああ。傷の治り方でわかる。あいつの癒しの力は実に温かい。何日も寝込んだことも、おかげで皆無だ。大抵の場合、一晩で完治する」
「……」
思い当たることがあり、男は口を噤んだ。
「…いつから…痛くない!?」
妙に真面目に尋ねた。
「何!?」
「オレが施技をしている間も、あんたは痛みを感じなかったのか?だから、身動きせずにいられたのか?」
「まさか。傷つけられて痛くないわけがなかろう。動くなと言ったのはおまえの方ではないか」
「確かにな。だが動くなと言って動かずにいられるようなものじゃないんだ、針術は」
「痛みを与える方の人間が何を言っている…」
「与える方の人間…か。オレはな、与えられる方の人間でもあったんだ。それも、薬なしでな。ごく幼い時に」
意外なことを、男は口走り始めた。
「オレは、元々奴隷だったんだよ」
「……」
「オレの身体には奴隷の印がある。見せてやろうか」
男は徐に服を脱ぎ出した。男の両肩口にひとつずつ、ヒトデに絡まれたナマコを図案化した印章が彫ってある。
「こいつが奴隷の刺青さ。醜いだろう?どうせならもう少しマシなデザインを考えりゃいいものをさ」
「まさか…今も!?」
「奴隷制度は十五年前に廃止になった。だがその後も大して変わりゃしなかったよ。オレは王子のお小姓として、夜の相手を務めさせられたんだ」
男は服を元に戻した。
「幸い、というべきか、オレはナメック王子のお気に入りだった。知ってるか?小姓の給金って結構いいんだぞ。その上に王子はオレによくさせようといろんな物を貢いでくれた。オレが欲しいと言えば父王に頼んでどんな珍しい物でも手に入れてくれたし、針術の勉強がしたいと言えばその費用を出してもくれた」
「……」
「オレは利用したさ。利用できるものはすべてな」
「おまえが針術師を目指したのは…」
わかるような気がした。その理由が。
「わかるかい?あんたならわかるよな!?」
「男は首を傾げ、面白そうに尋ねた。
「その…奴隷の印を消すためか?」
「当たり」
「だが、自分ではできんだろう?それに金を払って術者に取って貰えば…」
「信頼できる奴にしかやらせられねえ。ただ消すという技術はないしな。もしあったら、そもそもあんたに一生消えない傷を彫る意味なんてない。オレが腕を上げて弟子をとって仕込んで、一人前になったら初めて彫らせる。消すんじゃねえ。こいつを元にして、芸術作品を作り上げるのさ」
「一大…プロジェクトだな…」
「ああそうさ。うまいことにオレの絵は高く売れた。依頼者には反吐の出そうな奴も多かったが、いい金蔓だからな。うんと巻き上げてやったさ。そのうちオレの腕も随分認められるようになった」
「さぞかし貯まったろう。あの高価な染料を惜しげもなく使うくらいだ」
一平は男の言葉を思い出した。確かそのつもりで持っていたのではないような口振りだった。
「あれか…。あれはな…。オレのためにとっておいたものさ。なかなか手に入らない」
「おまえの?…オレになど使ってしまってもよかったのか?」
とても大事なとっておきをあっさり使ってしまうとは、考えなしなのか太っ腹なのか、どっちだろうと一平は考えた。
「あんただから使ったのさ。言ったろう?オレの最高傑作にしてやるって」
「そこがわからない。なぜ、オレなんだ!?」
―なぜオレなんだ?―
そう思ったことはこれまでに何度もあった。いつも自分では答えを出すことができなかった。
男は言う。
「あんた、自分じゃ自覚してないようだが、あんたはすごいぜ。そこにいるだけで他を圧倒する。存在感があるんだ。あんたのそばにいると自分がちっぽけで見窄らしく感じられ、気の弱い奴なんか逃げ出したくなるだろうよ。
確かに見てくれもいいが、それだけじゃあ人々に信頼にされるようにはならないだろ?何をしていなくても内面から光るものってのがあるんだよ。その為人を匂わせるものをあんたはその身体中から発してる。オレは一目で惚れたね」
「……」
「この仕事は楽しかったぜ。また会えるといいな」
別れの挨拶のような言葉に一平は目を剥いた。
「終いか?これで。おまえの仕事は」
「もうとっくにきれいになってる。回復が早いんでびっくりしたが、まさかああいう事情があるとは思わなかったよ。奥さんさまさまだな。普通は三日かかってやっとじくじくがなくなるほどさ」
包帯の必要性は昨日あたりからなくなっていたのだと男は言う。
「ではなぜさっさとウラーに引き渡さないんだ」
「あんたに興味があったからさ。予定の日でもないのにあんな奴を喜ばせることはない。次はどうしてやろうと手ぐすね引いて待っているはずだからな」
男の言葉にはウラーを蔑んでいる節が感じられた。一平は尋ねた。
「おまえはあいつの部下ではないのか?」
「言ったろ。オレは針術師だ。軍人じゃあない。ああいう手合いは大嫌いなのさ。あんたなら大丈夫だろうが、頑張れよ。オレの折角の努力を無駄にしないでくれ」
男は腰を上げた。
「待ってくれ。一体どんな絵を彫ってくれたんだ?」
当事者でありながら、合わせ鏡がなければ決して見ることができない。
今の一平はもう知りたくてたまらなかった。彼の方も、この男に妙に惹かれるものを感じていた。
「そいつは後のお楽しみさ。あいつがどんな顔をするか見てからの方が面白いぜ、きっと」
満足げに笑って、男は部屋を出て行った。 男の名を聞いていないことに、一平はその後に気がついたのだった。
「もし、モノリスの人間に殺られそうになったら、刺青を見せてやるといい」
部屋を出る前、男はそう付け加えた。
殺されそうになっているのに無防備に裸の背中を晒すなど、できるわけがないではないかと思った。
だが男は自信たっぷりだった。
背中の刺青に一体どういう意味があるのだろう?
なぜあの男は絵の内容を教えてくれないのだ。
理解不能なことばかり生じてくるものだと、このモノリス行を振り返って一平は思っていた。




