第三章 海上
「物見遊山って何なんだよなあ」
両手を首の後ろに回し、踏ん反り返るようにしながらキンタが呟いた。
傍目にはずいぶん落ち着いたように見えるキンタも、一平の前では相変わらずのやんちゃ坊主だった。
「おじさま、モノミユサンって何ですか?」
大真面目に尋ねるアスランは出発の前から興奮して目をキラキラさせている。
「いろんな所を見て回って楽しむって意味だな。オレたちはそのためにモノリスに行くんだ」
「おい…」
言い切るキンタに非難の一瞥をくれ、一平は訂正した。
「アスラン、物見遊山はキンタだけだ。父は仕事。おまえは縁者を探し出して会うのが目的だ」
「一緒に行くのにみんな目的が違うんだね。変なの」
「まあ、そう言うな。仕事が入ったのは悪かったが、ちゃんと約束は果たすから」
「うん」
アスランは嬉しそうに頷く。いつも短時間しか一緒にいられない父親と四六時中いられることが嬉しくて仕方ないのだ。
「でもボク、父のお仕事を見るのも楽しみだよ。帰ったら修練所のみんなに教えてあげるんだ」
それは何だか照れ臭いな、と一平は応えた。
「おじさまの物見遊山も楽しみだよ」
キンタに気を遣って付け加えるアスランの気配りはおよそ六歳の子どもが弁えているものではなかったが、この頃既にアスランはそういう子だった。周りに、父にさえも、気を違い過ぎるのである。
キンタはアスランのお追従を有り難く素直にいただく。
(いい奴だ…)
そういうキンタのことを、一平はそう思う。
三人の道中記はそうやって始まった。
モノリスは遠方ではあるが、近頃はそうとも言えない。
利便性のある点繋道がいくつか発見され、互いの距離が大分縮まっている。
年齢が低く、体力がまだないアスランのために、一平は最大限に点繋道を使うことにした。おぶってやってもいいのだが、キンタの手前、アスランは僅かばかりの見栄を張っていた。自分の手足で泳ぐことで一人前扱いして欲しがっていた。
一平は思い出す。パールと旅をしていた頃のことを。
出会った頃、パールは九歳だったらしいが、一平には六、七歳程度にしか見えなかった。小柄で甘えん坊の少女は中身も幼児とそう変わらなかった。
(このくらいだったな…)
一平も今ほどの上背はなく、人より少し大きいくらいだった。いつも海で泳いでいたので体力はあったし、均整のとれた体つきをしていた。十三になったばかりだったが、無理をせずとも抱え上げられるくらい、パールはか細くか弱かった。
自分が病弱であったことで、子どもにはそのような思いをさせたくないと、アスランがお腹の中にいる時からパールは細心の注意と可能な限りの養生を心掛けていた。そのおかげかアスランは至極健康体で生まれ、六歳の今に至るまで大きな病気も怪我もしたことがない。
(パールのおかげだな…)
或いは雲の上からアスランのことを見守ってくれているのかもしれない。
一平は時々そんなことを思う。
急ぐ旅ではない。
日程の予定は組まれていたが、十分余裕を持ってトリリトンを出てきた。
アスランのペースに合わせ、三人はのんびりと行程を進めていた。
トリトニアの王宮で育ったアスランはまだ旅も野営の経験もない。見るもの聞くもの全て物珍しく、知識欲の飽くことがない。
目を輝かせて二人の大人について泳ぐアスランを、本当に連れてきてよかったと一平は思う。王族の一人に名を連ねるアスランには、この先一平には想像もつかないようなことも起こるだろう。周囲から期待をかけられ、重圧に押し潰されることもあるだろう。そんな時支えになるのは、幼い時の充実した幸せな経験なのだと、一平は思っていた。
一平もアスランぐらいの時には母親を亡くしていたので、父と二人の生活だった。
父は義父の跡を継いで漁師をしており、昼間は一平と過ごすことが多かった。漁師の仕事は朝方には終わるのだ。
父は一平にいろいろなことを教えてくれた。遊んでもくれた。
何より、二人だけの秘密を共有していたので、かなり強い連体感を抱き合っていた。
片親ではあったが、父と二人の生活は気ままで楽しく、一平には充実していた。
その父を失って悲しみに暮れる一平の心を救ってくれたのがパールだった。パールに出会ったことで、一平は悲しみを遠くへ追いやり、前向きに進むことができたのだ。
この旅はあの頃を思い出させる。郷愁を感じながらもあの頃の幸せな気持ちが湧き起こり、一平は旅を満喫していた。
「海上を行こうか」
一平の不意の提案にキンタとアスランは耳を疑う。
(海上だと?)
(海上って言った!?)
トリトニアでは、子どもは一人で行ってはいけないと禁じられている場所だ。
もちろんアスランは行ってみたことなどない。
面食らう二人に一平はいたずらそうな目を向ける。
ぽかんと口を開け、一平の言葉を反芻していたアスランは、ぱっと目を輝かせた。右宮で一平に、モノリスに行ってみるかと言われた時のように。
「…行く…行く!行く!」
アスランはすっかりその気である。
話には聞いている。海上には水の限りがあり、海は形を持ち、動きながら目の前にあるという。空と呼ばれる壁に囲まれ、太陽という眩いものに照らされて目を開いていられないほど眩しい世界だと。
だがそこは危険と隣り合わせにあるため、判断力の培われていない子どもは決して一人で行ってはいけないのだと。
「いいのかよ?」
キンタはちらりと一平を見る。
「大人が二人もいるんだ。問題ないだろう」
地上生まれの一平にしてみれば、海上の何が、どこがいけないのだろうという感覚だ。
言ってみたことはないが。
成人すれば漁のために海上付近へ出向くことはある。軍ではその性質ゆえ、あらゆる場所に精通していなければならないので、敢えて海上視察を体験させる。
だが、一般の人々は大概足を向けはしない。用がないのだ。海の中だけで十分暮らせる。
そして海上の方が確かに危険は増す。
海の中に棲んでいるのに肺呼吸をしている生物はしばしば海上に出て息をしなければならない。クジラ類がそうだ。そしてその中には海人にとって脅威となりうるシャチやオタリアなどがいるのだ。クジラは小さなものしか口にしないが、その巨体に跳ね飛ばされようものなら無事ではいられない。
そういう生き物に会う確率が高くなるからだ。
上空から飛来して水面近くの魚を狙う鳥たちも、危険を伴うことがある。
猛スピードで海に突撃してくる彼らと水面で鉢合わせしようものなら、その尖った嘴で頭や目を串刺しにされてしまう。
何より恐ろしいのは人間とその乗り物である船だ。
なぜ恐ろしいのか、地上で生まれ育った一平には骨身に沁みてわかっている。
もし人間に見つけられたら、見つけられた者の運命は地獄と化す。その影響はこのポセイドニアにも及ぶかもしれない。
ありがたいことにポセイドニアの周囲は深い海藻の森に囲まれている。その葉は光を求めるがゆえか海上付近でより成長し、海藻の海になっている。船舶はこれに絡め取られ、身動きできなくなるため、それ以上ポセイドニアの領域には入ってくることができないのだ。
あまり知られていないが、飛行機の存在もある。
上空を横切る鳥としか見えないだろうが、実際は巨大な鉄の塊だ。稀に不具合を起こして海に墜落することがある。遭遇すれば衝撃は半端ではないだろう。この世の終わりかと思われる状況になるのに違いない。
幸いなことに、それもかつて発生したことはない。ポセイドニアの上空では磁場が異常らしく、人間の作った計器が正しく作用しない。そのため、近づくことすらできないのだと、一平だけはそう推測していた。
だからキンタが懸念をその面に上せるのはわかる。
わかるが、それだけではなさそうだ。何かを思い出すような目を、キンタはしている。
「まあ、一見の価値はあるよな…」
一平はピンときた。
キンタは海上に行ったことがあるのだ。多分、子どもの頃。しかも単独でだ。
「キンタ、おまえ…」
言いかけて、やめておこう、と思った。まだ幼いアスランの手前、それは聞かせるべきじゃない。真似でもされてはたまらない。
そう思うほどには一平は十分親バカだった。
キンタは察した。一平が言いやめた、その意味を。
アスランにはその冒険譚を聞かせてやりたいが、今はその時ではないと、流石にキンタも理解していた。
「行こうぜ、アスラン」
叔父にそう言われ、嬉しそうにアスランは足鰭を振った。
近づくにつれあたりは段々明るさを増す。いつも過ごしている海底の明度とは比べ物にならない。彼ら海人は暗い海の底でも何の不自由もないのだが、この明るさは脅威だ。
水面を突き抜けると水がなかった。首から下にあるにはあるが、聞いた通り水は形を成していた。どんな形だろうと思ってはいたが、全く想像できていなかった。そして見た実物は、いつも動いていて一定ではない。ゆらゆらと大小の山型に形を変えながら、アスランを通り抜けるように流れてゆく。それは果てしなく続いていた。
この場所は島影一つない大西洋の真っ只中だった。大陸も見えない。海面の果てと思われる境目が、遥か彼方で一周していた。
あれが水平線だ、と一平が言う。
あの向こうにもずっと海が続いていて、その先には陸地がある。頭上に広がるのが空。今は青いが、白や灰色に濁って雨を降らせることもある。雷もあそこで発生する。
夜には真っ暗になり、小さな灯りが瞬く。星だ。一つだけ大きな灯りも現れる。月と言う。夜の間この世を照らし、朝には太陽と交代して水平線の下に消えてゆく。それを毎日繰り返す。
そして太陽。
何がと言って、その太陽が一番衝撃的だった。目を上げていられないほど眩しくて、手で遮らなければ何も見えない。頭上高く輝く光の塊が全ての生き物の命を司っているのだと一平は言った。
(わああああ…)
言葉を忘れてしまったように景色を眺めるアスランを、しばらくの間一平はそっとしておいた。キンタも久しぶりとみえ、同じように見入っていた。
海人にとって太陽はまだ見ぬ世界の憧れのようなものなのだと、一平は今更ながらに思っていた。
パールも太陽が好きだった。パールとの旅の間は海上を行くことが多かったから次第に慣れていったが、それでもパールは太陽を崇め見ることをやめなかった。
その光に晒され続けると命が危うくなるということをわかってはいても、太陽なしでは生きていかれないと、本能が告げてでもいるようだった。
いつも傍らにいてくれた一平と太陽は、パールにとってペアで括られる存在だったことを彼は知らない。暖かく、時には厳しく照りつける太陽のことを、一平と重ね合わせて見ていたことを。
パールは最期におひさまが見たいと言った。海上に連れてってと。
一平と太陽に見守られながら、パールは死出の旅に着いたのだった。
パールはもういない。
あれほど馴染んだ声も姿もその匂いも、傍らには存在しない。
―会いたい―
―おまえに会いたい―
―今一度、おまえをこの手に抱き締めたい―
でもそれは叶わない。叶うことはない。
(パール…おまえはどこにいる?)
一平は水平線の彼方に目をやり、ゆっくりと頭上を仰ぎ見た。




