第7話 潮鏡の向こうに、追手がいた
薄紫色の熱は、前よりも静かに僕の中へ入ってきた。
舌の上へ何かを流し込まれたわけでもない。それなのに、重なった息へ溶けた魔力が喉を通り、胸の奥にある細い糸へ触れる形だけは、目を閉じていてもはっきり分かった。
糸が張る。
そこから先は、調べられているという感覚ではなかった。
ヴァレナから届いた熱が僕の心臓をひと巡りし、今度は同じ道を逆向きに戻っていく。湯の中で握った僕の指先が熱いことも、息が足りず胸が苦しいことも、なぜか彼女の側から伝わってくるようだった。
二つの鼓動が、少しずれて重なる。
驚いて身を引こうとした瞬間、ヴァレナの手が僕の頬から離れた。唇の間に冷えた空気が入り、僕は大きく息を吸う。
彼女もすぐには何も言わなかった。金色の瞳を見開き、濡れた指先を自分の胸元へ置いている。その指がかすかに震えていることを目で確かめるより先に、胸の糸から同じ震えが伝わってきた。
「……どうでした?」
「少し待って」
ヴァレナは目を閉じ、呼吸を整えた。僕が動くと湯が揺れ、その波が彼女の肩へ届く。そんな小さなことまで妙に近く感じられ、僕は無意識に岩の縁を掴んだ。
「前は、私からあなたへ魔力を流しただけだったわ。追手を欺くための一方通行ね。けれど今は、あなたの魔力まで私へ戻ってきた」
「それは、良いことなんですか?」
「あなたの身体を調べるという目的には都合がいいわ。ただ――」
ヴァレナが目を開く。同時に胸の奥へ、彼女のものらしい戸惑いが薄く流れ込んだ。言葉ほど明確ではなく、冷たい水へ一滴だけ熱い湯が混じったような感覚だった。
「通り道が、閉じてくれないの」
目の前へ金色の文字が浮かんだのは、その時だった。
『所有者と一時同行者の間に、双方向の魔力循環を確認しました』
『《旅人の家》は、当該経路を保護機能の一部として維持しています』
『切断には、保護領域の再構成が必要です』
読み上げると、ヴァレナは湯船の外にある壁へ手を伸ばした。指先で石を二度なぞり、家の返事を待つように黙り込む。
「やはり、この家がつながりを支えているわ。私を匿った時、単に気配を重ねたのではなく、あなたのところへ逃げ込める魔力の道として覚えたのでしょうね。二度目に力を流したことで、その道が往復できるほど広がった」
「このままだと、どうなります?」
「考えていることまで読めるようにはならないわ。今感じられるのは、身体の痛みや、強い感情の揺れくらいでしょう。ただし、長く続けば互いの魔力が馴染みすぎる可能性はある。あなたは元々、魔族の力を持たないもの」
言われた途端、昨日までの変化が一つずつ思い浮かんだ。暗闇で物が見えること、傷が早く塞がること、魔力の濃い場所で耳鳴りがすること。便利だからと喜んでいいものではない。
「切ることはできますか?」
「時間をかければ、おそらく。けれど今すぐ無理に閉じれば、あなたの内側へ作られた道を傷つけるかもしれない。私の傷が治り、あなたの家と十分に相談できるまでは触らないほうが安全ね」
答えながら、ヴァレナは僕から目を逸らした。胸の糸へ伝わった重さは、脇腹の痛みとは違っていた。
「潮鏡で父へ記録を渡したら、私だけ家を出るわ。距離を置けば、つながりも弱まるかもしれないもの」
「それは相談じゃなくて、決定ですか?」
「あなたの身体に関わることよ」
「だから、僕も決めます」
少し前なら、彼女は危険だけを告げて、僕が知らないところで姿を消したかもしれない。けれど僕たちは、隠さず話してから決めると約束したばかりだ。
「証拠を送って、それから安全な切り方を探しましょう。離れる必要があるならそうします。でも、傷も治っていないのに、追手がいる町へ一人で出すつもりはありません」
「今なら、私が困っていることまで分かるのでしょう?」
「言葉ほどはっきりとは。あと、僕のほうも伝わってるんですよね?」
ヴァレナの目が僕の顔から、湯の中へ沈んだ肩へ移った。
「ええ。あなたが先ほどから、ひどく恥ずかしがっていることは分かるわ」
「そこは口に出さなくていいです」
「私だけ知られたままでは不公平でしょう?」
わずかに笑った彼女から、先ほどまでの重さが薄れていく。たぶん、僕の返事に安心したのだと思う。ただの推測なのか、糸を通じて分かったのか、自分でも境目は曖昧だった。
「この感覚も、勝手に探らないようにしましょう」
「そうね。触れれば、今より強く伝わるはずよ。必要のない時は、意識して辿らない。それでいいかしら」
「お願いします」
約束した直後、僕たちはまだ同じ湯船へ入っているのだと思い出した。さっき見てしまったものまで胸の糸から伝わるのではないかと不安になり、坪庭へ顔を向ける。
ヴァレナは小さく息を吐き、先に湯から立ち上がった。
「今度は、私が先に出るわ。これなら日本の作法にも反しないのでしょう?」
「たぶん、今日の中では一番正しいです」
濡れた布を押さえながら戸口へ向かう彼女を見ないよう、僕は丸石の数を最初から数え直した。
明け方の潮鏡を使う前に、できれば少し眠っておきたかった。けれど、胸の内側にもう一人分の気配がある状態で、何も考えず眠れるほど僕は順応していなかった。
しかも、たぶんヴァレナも起きている。
寝台へ入って一刻ほど経った頃、廊下の向こうで水を飲む音がした。足音はしなかったのに、彼女の位置だけが薄紫色の灯のように分かる。
僕は諦めて上着を着ると、居間へ出た。
ヴァレナは卓上に短剣と影録石を並べ、荷物を確認していた。買ってきた濃紺の上着と灰色の長衣へ着替えており、長い髪は首の後ろで一つにまとめている。
「起こしたかしら」
「起きているのは分かっていました」
ヴァレナは手にしていた水差しを置き、胸元へ指先を当てた。
「便利ね」
「今のところは、少し落ち着きません」
「私も同じよ」
ヴァレナがそう言った瞬間だけ、胸の奥で小さな波が立った。彼女の声は普段どおりだったので、つながりがなければ気づかなかったと思う。
僕は卓上へ、昼間に買った茶色い頭巾と幅の広い布を置いた。彼女が身を隠して町を歩くことまで考え、服屋の女主人に選んでもらったものだ。
「潮鏡の塔までの道を見てきます。夜明け前なら人は少ないはずなので、途中に家の扉を出せる場所を探します」
「一人で平気?」
「門の検査にも引っかからなかった人間ですからね。少なくとも、二人で宿から出るよりは安全です」
ヴァレナは口を挟まず、短剣を長衣の内側へ収めた。その動きは滑らかだったが、脇腹を庇う時だけ、胸の糸が細く軋む。
「痛み止めを飲んで待っていてください」
「そこまで分かるのね」
「分かるようになってしまったんです。誤魔化しても家と僕の両方には通じませんよ」
「ずいぶん手強い家主になったわね」
彼女は薬を受け取り、今度は素直に水で流し込んだ。
◇
夜明け前のセラーデには、昼とは別の町があった。
大通りの店は戸を閉ざしている一方、港へ下る坂では松明が忙しく行き交い、夜漁から戻った船の周りに人が集まっている。箱へ投げ込まれた魚が銀色の腹を跳ねさせ、砕いた氷を運ぶ荷車の車輪が石畳を濡らしていた。
僕は眠そうな宿番へ声を掛けて《青帆亭》を出ると、買い物の時に覚えた道を港へ向かった。
潮鏡の塔は、海へ突き出した古い防波堤の先に立っている。正面から行けば見通しが良すぎるので、二本手前の通りへ入り、網を干すための細い路地を探した。石壁と木造倉庫の隙間に、使われていない荷物置き場がある。片側は崩れかけた壁で塞がれ、積み上げられた浮き樽が通りからの視線を隠していた。
壁へ触れてもすぐ扉は出さず、周囲の魔力を探る。人の気配は遠く、近くにあるのは小さな虫除けの術式だけだった。
金色の線が石壁へ長方形を描き、《旅人の家》の扉が現れる。
中へ入ると、ヴァレナは玄関で頭巾を持って待っていた。
「ここから塔まで、歩いて五分ほどです。人目は少ないですが、港の見回りが一組いました」
「幻術は使わないほうがよさそうね」
「潮鏡にも検査があるそうです。魔力で隠すより、その角だけ布で覆いましょう」
僕が手を伸ばしかけると、ヴァレナは意味を察したらしく、少しだけ頭を下げた。右のこめかみにある黒い角へ畳んだ布を当て、髪ごとずれないよう頭の後ろで結ぶ。傷へ触れるわけではないと分かっていても、角の根元近くへ指を近づけるのは緊張した。
「痛くないですか?」
「角は痛くないわ。あまり強く引けば、髪のほうが痛むけれど」
「先に言ってください」
結び目を緩め、もう一度やり直す。指が髪へ触れるたび、胸の糸を通じてくすぐったいような揺れが返ってきた。ヴァレナにも僕の緊張が伝わっているらしく、じっとしている彼女の口元が少しだけ上がっている。
「笑わないでください」
「笑っていないわ」
「今は、言葉より確かなものがありますからね」
「それは困ったわね」
頭巾を被せると、布の膨らみは髪をまとめた形にしか見えなくなった。金色の瞳も影へ隠れ、黙っていれば、早朝の船を待つ女旅人で通りそうだった。
家の扉を閉じ、二人で路地へ出る。潮鏡の塔へ近づいたところで、耳の奥へ甲高い音が刺さった。
僕は反射的にヴァレナの腕を掴み、積まれた魚籠の陰へ引いた。
「どうしたの?」
「見回りです。角を調べる術具を持っています」
曲がり角の向こうから、青い外套を着た二人の衛兵が現れた。一人が腰から提げている銀の筒には、門で見たものと似た魔力が渦巻いている。まだ距離があるのに分かったのは、口づけの後から輪郭を増した感覚のおかげだった。
僕たちは魚籠と壁の間へ身を寄せた。ヴァレナの肩が胸元へ触れ、彼女の呼吸が止まる。同じ瞬間、胸の糸も硬く張った。
衛兵は路地の入口で立ち止まった。
「今、何か動かなかったか?」
「猫だろ。潮が引き切る前に東詰めまで回るぞ」
一人が銀の筒へ手を掛ける。僕は《旅人の家》の扉を出すべきか迷ったが、ここで金色の光を見せれば、かえって怪しまれる。
ヴァレナの指が僕の手首へ触れた。冷静に、と言われたわけではない。それでも彼女のゆっくりした鼓動が伝わってきて、それに合わせるように息を吐くことができた。
衛兵は結局、筒を抜かなかった。二人分の足音が離れてからも十数えるまで待ち、僕たちはようやく身体を離した。
「助かりました」
「あなたが先に見つけたのでしょう?」
「でも、一人だったら焦って扉を出していたかもしれません」
「なら、つながっているのも悪いことばかりではないわね」
ヴァレナの声は小さかったが、今のところは、という言葉を付け足さなかった。僕も同じことを思ったので、そのまま塔へ向かった。
潮鏡の利用所には、昨日と同じ青銅板が掛かっていた。扉の脇に青い灯がともっているのは、夜明け前の利用を受けつけている印らしい。
中へ入ると、灰色の髪を短く切った老女が、丸眼鏡の奥から僕たちを見た。机には分厚い台帳と秤、それに短い杖が置かれている。
「私印への送信かい?」
「ええ。受け手は、魔王ゼルグラードよ」
ヴァレナは声を潜めず、短剣から黒い印章を取り出した。
老女の片眉が上がる。驚いたようには見えたが、叫びも、呼び鈴へ手を伸ばすこともしなかった。印章を小さな硝子板へ載せ、浮かんだ紋様を三度確かめる。
「本物だね。送るのは、そちらの記録石かい」
「そうよ」
「武器は鞘から抜かないこと。塔の中で互いの身分を理由に刃を向ければ、どちらの国の王族だろうと海へ放り出す。ここで守るのは客の命じゃない。通信の中立だけだよ」
「承知しているわ」
老女は次に僕を見た。
「あんたも送信者かい?」
「僕は付き添いです」
「なら銀貨一枚。危なくなったら、連れを置いて先に逃げるんだね。潮鏡へ手を触れていない者まで、通信に義理立てする必要はないよ」
縁起でもない忠告へ銀貨を添え、僕は台帳へ偽名ではなく佐原悠真と記した。ここで名前を隠し、後から通信記録まで疑われるほうが危ないと、来る前にヴァレナと相談して決めていたからだ。
老女は台帳を閉じ、杖を持って奥の鉄扉を開けた。
「潮が戻るまで半刻。遅れれば、次に鏡が開くのは明日の朝だよ」
鉄扉の先には、海の底へ向かうような螺旋階段が続いていた。
濡れた石段を下るにつれ、波の音が頭上ではなく壁の向こうから響くようになる。最下層の円い部屋へ着くと、壁の小窓から退いた海が見え、黒い岩礁の間で白い泡を立てていた。
部屋の中央には、黒い石をくり抜いた腰ほどの高さの水盤がある。水面は周囲の揺れを映さず、磨いた金属のように平らだった。縁には幾つもの文字が刻まれ、その一部が青白く光っている。
「印章を北の窪みへ。記録石は水へ沈めず、手に持ったまま鏡へ触れな」
老女が壁際の三つの灯へ杖で火を移す。ヴァレナは頭巾を外し、言われたとおり印章を置いた。
黒い水面へ彼女の指が触れる。
一度だけ波紋が広がり、映っていた天井が消えた。代わりに見えたのは、青い炎と黒い石の床だった。誰かの大きな手が、黒曜石らしい椅子の肘掛けを強く掴んでいる。
『ヴァレナか』
低い声が、水盤だけでなく部屋の石壁まで震わせた。
「父上。ご無沙汰をお許しください」
ヴァレナは背筋を伸ばしていたが、胸の糸には、張り詰めていたものがほどける感覚が流れてきた。彼女が父親の声を聞けたことへ、僕まで息をつく。
『詫びは生きて戻ってから聞く。記録を送れ』
「はい」
ヴァレナが影録石を握り込むと、黒と赤の文字が水面へ流れ始めた。一度に送れるわけではないらしく、石の端から少しずつ灰色へ変わっていく。
彼女は巡察先で確かめた兵の数、偽造された命令、南進の日付を短く報告した。水盤の向こうから時折問いが返り、それへ答える間にも、赤い文字は絶えず水へ吸い込まれている。
半分ほど色が抜けたところで、僕の耳の奥に細い音が鳴った。
港の見回りが持っていた術具へ近づいた時とは違う。もっと冷たく、覚えのある音だった。
「待ってください。何か来ます」
僕が声を上げた直後、水面を走っていた赤い文字の一つが黒く染まった。
『さすがでございます、殿下。人間領の古鏡をお使いになるとは』
穏やかな男の声だった。
星沈みの湖で、《旅人の家》の扉越しに聞いた声と同じだった。
ヴァレナの肩が強張る。水面の向こうで、魔王の手が肘掛けから離れた。
『アルディス』
「やはり、あなたなのね」
ヴァレナが口にした名前を、僕は忘れないよう胸の中で繰り返した。アルディス。彼女の元教師で、宮廷の伝令術を束ねる男。
『記録をすべて消し、その場でお戻りください。今なら、殿下が賊に惑わされたことにできます』
「私を聖銀で刺した口で、よく言えるわね」
『治療できる位置を選んだつもりでした。月蛍砂まで逃げられるとは思いませんでしたが、今こうしてお元気なら何よりです』
丁寧な声には、悪びれた様子が少しもなかった。
老女が杖の先を水盤へ向け、縁の文字を一つずつ消し始める。
「割り込まれた。通信を切るよ」
「待って。記録はまだ送れていないわ」
「このままなら、向こうから術を通される」
影録石は、まだ三分の一ほど黒いままだった。
『潮守殿のおっしゃるとおりです。少々、手荒な方法になりますので』
男の言葉と同時に、水面の中央から銀黒い線が伸びた。
老女にもヴァレナにも、それが見えている様子はない。けれど僕の目には、髪より細い針が水中を這い、彼女の指へ向かうのが見えた。
僕はヴァレナの手首を掴んだ。
針が水面から跳ね上がり、僕の指へ刺さる。
痛みはなかった。その代わり、頭の内側へ凍った水を流し込まれたような寒気が走る。胸につながった糸を伝い、針が僕の魔力の輪郭を探っていた。
『おや』
水盤の向こうで、アルディスが小さく笑った。
『殿下の気配を隠した方も、そちらにいらっしゃるのですね』
「ユウマ、手を離して!」
「離したら、今度はヴァレナさんに刺さります」
「私なら防げるわ。あなたは鏡につながっていないのだから、今すぐ階段を上って」
逃げてほしいという焦りが、握った手から強く伝わってきた。自分の胸へ生まれたものなのかと錯覚するほどだった。
『ユウマ――ああ、佐原悠真殿ですか』
名前を呼ばれた瞬間、寒気より強いものが背筋を走った。
『王都が再び招こうとしている、二人の渡界者。そのお一人が、なぜ殿下とご一緒なのでしょう。勇者一行を離れた後の行き先までは、こちらでも掴めなかったのですが』
王都の再鑑定命令を知っている。
香澄の手紙は、セインたちのところへ届いたばかりのはずだ。魔王軍の伝令を操る男が、どうして人間側の命令まで知っているのか。
問い返したいことは山ほどあった。けれど今は、影録石の灰色が少しずつ広がっていくのを止めないことが先だった。
『もう一人の渡界者は、素直に王都へ向かわれているようですね』
アルディスの声が、わずかに近くなる。
『手を離してくだされば、彼女へ関心を移す必要もありません』
胸の奥で、別の恐怖が膨らんだ。香澄だけではない。セインも、ガド爺も、リシュラも、ノノも、トルクも一緒にいる。それでも、相手が人間側の動きまで知っているなら、安全だと言い切ることはできなかった。
僕の動揺は、握った手を通じてヴァレナにも流れたはずだった。
「聞いて、ユウマ。今あの男の言葉に従っても、カスミという子が安全になる保証はないわ」
ヴァレナは僕の目を見たまま、影録石から手を離さなかった。
「ええ。分かっています」
不思議なくらい、返事はすぐに出た。
一人で聞いていたら、迷ったかもしれない。けれど今は、彼女の手から伝わる痛みと、僕を逃がそうとする焦りまで感じている。アルディスの言葉が僕だけを狙って差し込まれたものだと分かった。
僕は空いている手で、背後の石壁へ触れた。
「家へ帰ります。三人とも」
「私は鏡から手を離せないわ」
「だから、ここへ入口を出します」
《旅人の家》を思い浮かべる。金色の線が濡れた石壁を走り、水盤のすぐ横へ扉の形を描いた。
老女が初めて目を見開く。
「空間術を潮鏡の間で使うなんて、正気かい!?」
「僕の家です。記録が届くまで、少しだけ貸してください」
扉を開くと、見慣れた玄関の灯が暗い石室へ差し込んだ。敷居から伸びた金色の光が僕の腕へ絡み、指に刺さった銀黒い針とぶつかる。
『外部からの境界干渉を検知しました』
『解析記録に、同系統の術式があります』
『既得耐性を適用します』
湖の夜に一度受けた干渉を、家は覚えていた。
銀黒い針が僕の手から抜けかけ、アルディスの声に初めて鋭さが混じる。
『その家を、まだお持ちでしたか』
「あなたが洗練されていないと言った家ですよ」
『ええ。ですが、どうやら家主には学ぶ才があるらしい』
褒められた気はしなかった。針が二股に分かれ、一本は《旅人の家》の敷居へ、もう一本は僕とヴァレナを結ぶ糸へ絡みつく。
家の金色の光が押し返しても、今度は消えない。アルディスも同じ方法で失敗するつもりはないらしい。
耳鳴りが強くなり、鼻の奥へ鉄の味が広がった。温かいものが唇まで流れ、床へ赤い雫が落ちる。
「ユウマ!」
ヴァレナの脇腹から、焼けるような痛みが伝わってきた。彼女が無理に魔力を流し、針を僕から引き離そうとしているのだと分かる。
「それをしたら傷が開きます!」
「あなたが倒れるよりましよ!」
「どちらも困ります!」
言い合っている間にも、影録石に残った黒は指一本分まで減っていた。あと少し。その距離が、ひどく長い。
水盤の向こうで、別の低い声が何かを唱え始めた。魔王の声だ。意味の分からない魔族の言葉だったが、黒い水面に青い炎が広がり、アルディスの銀黒い針を焼いていく。
『聞け、ヴァレナ』
「はい、父上」
『記録は受け取った。北軍の進発を止め、伝令網からアルディスの権限を――』
声が激しい雑音に呑まれる。水盤の縁へ亀裂が入り、老女が杖を両手で支えながら叫んだ。
「送信は終わった! 手を離しな!」
影録石の最後の黒が灰色へ変わる。
僕はヴァレナの手を水面から引き上げ、そのまま扉の内側へ身体ごと引いた。彼女の足が敷居へ引っかかり、二人で玄関の床へ倒れ込む。
「潮守さんも!」
振り返って手を伸ばしたが、老女は水盤の脇にある青銅の輪を掴み、力いっぱい引き下ろした。
「余所者の家へ逃げたとあっちゃ、百年続いた潮守の看板が廃るよ。さっさと閉めな!」
円い部屋の小窓から、戻り始めた海水が一気に流れ込んだ。壁の溝へ沿って水盤を囲み、青白い光の壁を作る。亀裂から伸びた針が老女へ届く前に、その姿は水の向こうへ隠れた。
彼女が安全だと信じるしかなかった。
僕は玄関の扉を閉めた。
扉全体が、外から殴られたように大きく揺れる。金色の線と銀黒い線が表面を奪い合い、壁に掛けた灯りが明滅した。
『接続地点が外部術式に侵食されています』
『現在の出入口を破棄しますか?』
「破棄します!」
答えると、扉の向こうで石の砕ける音がした。木製の扉が金色の光へ変わり、壁へ吸い込まれて消える。
それでも、胸の糸に絡んだ冷たさは残ったままだった。
「追われているわ」
ヴァレナも同じものを感じているらしい。床へ片膝をつき、僕の手を握ったまま息を乱している。長衣の脇腹には、薄く血が滲み始めていた。
家へ逃げただけでは足りない。潮鏡の間にあった入口と、この家の位置を切り離さなければならない。
視界の端に浮かぶ地図へ手を伸ばす。《旅路の記録》に刻まれたセラーデ南門の印が、青く明滅していた。
「《道標への帰還》。セラーデ南門へ」
『現在地との接続を解除します』
『道標《セラーデ南門》への帰還路を構築します』
家全体が大きく傾いだ。
棚の食器が鳴り、玄関の床を金色の波が通り抜ける。耳を塞ぎたくなるような軋みのあと、壁へ新しい扉が現れた。
胸の奥を締めつけていた銀黒い冷たさが、急に薄れていく。
僕はその場へ座り込み、ようやく息を吐いた。鼻血を袖で拭おうとすると、ヴァレナが先に布を取り出し、僕の鼻元へ押し当てる。
「上を向いて」
「それ、昔は正しいと言われてましたけど、喉へ流れるから駄目らしいですよ」
「この状況で、どこの作法にこだわっているの?」
「日本の手当てです」
口にすると、自分でもおかしくなった。ヴァレナも呆れたように息を吐き、今度は僕の鼻の柔らかいところを布越しに押さえた。
彼女の指は冷たかった。けれど握ったままの反対の手からは、証拠を送り切った安堵と、まだ消えない恐れが一緒に伝わってくる。
「父上は、受け取ったと言ったわ」
「聞こえました。北の軍も止められる」
「ええ。アルディスが伝令網を使えなくなれば、少なくとも偽の命令は続けられないはずよ」
完全に終わったわけではない。人間側にも情報を流しているのなら、協力者がいるのかもしれない。それでも、北の村が焼かれるまで二十日を数えるだけだった状況から、確かに一歩は進んだ。
「あなたがいなければ、記録は途中で消えていたわ」
「ヴァレナさんが湖まで運んだから、送れたんです」
「でも、あなたの名前を知られた。カスミたちまで使って脅されたわ」
鼻を押さえる手に力が入り、少し痛い。
「あの時、私を置いて逃げればよかったのに」
「潮守さんにも同じことを言われました」
「正しい忠告よ」
「僕の家まで出してから、一人だけ階段を上るほうが難しいでしょう。それに――」
僕は、つないだままだった彼女の手を軽く握り直した。
「怖かったのは僕一人じゃないと分かっていましたから」
ヴァレナが黙る。胸の糸が一度だけ大きく揺れ、そのあと、張り詰めていたものがゆっくり緩んでいった。
「私は、あなたへ逃げてほしかったのよ」
「知っています。だから、僕も逃げずにいられたんだと思います」
彼女の恐れまで背負ったのではない。僕のことを案じている人が隣にいると分かったから、次に何をするべきか考えられた。
ヴァレナは僕の鼻から布を離し、血が止まったことを確かめると、そのまま床へ座った。肩と肩が触れる。わざわざ離れる理由も見つからず、僕たちはしばらく並んで呼吸を整えた。
「つながりを切る方法は、必ず探すわ」
「はい」
短く答えると、肩の触れたところから、彼女の身体がわずかに強張るのを感じた。
「あなたが望むなら、私が傷ついても先に切る」
「それは駄目です。互いに傷つかない方法を、一緒に探しましょう」
「一緒に、ね」
確かめるように繰り返した声は、先ほどより柔らかかった。
僕はヴァレナの手を離さなかった。必要があるから触れているのか、離したくないから理由を探しているのか、今はまだ自分でも決められない。ただ、湖で死にかけていた魔王の娘は、もう拾った荷物でも、潮鏡まで運ぶだけの客人でもなかった。
「そういえば、魔王は最後に何か言いかけていませんでしたか?」
僕が尋ねると、ヴァレナは記憶を辿るように目を細めた。
「黒曜宮へ戻るな、と聞こえたわ。そのあとに、セラーデの渡界人を頼れ、と」
「セラーデに?」
「ええ。名前も途中までは……ナギ。父上の客人だった、カツラギ・ナギのことだと思う」
以前、ヴァレナが知り合った三人の渡界人。その中に、渡界の仕組みを調べていた人物がいると言っていた。
「何年も前に黒曜宮を出た人ですよね」
「そうよ。まだセラーデにいるなんて、私は知らなかったわ」
父親へ証拠を渡せた直後に、僕たちをつなぐ魔力と、元の世界へ帰る手掛かりを調べられるかもしれない人物の名まで聞けた。危険な目には遭ったが、運だけを見れば出来すぎている。
そう思った途端、玄関の扉が三度叩かれた。
僕とヴァレナは同時に立ち上がった。
扉の向こうは、ついさっき《道標への帰還》でつなぎ直したセラーデ南門のはずだ。まだ夜明け前で、人が偶然見つけるような場所に扉を出してはいない。
ヴァレナの手が長衣の内側にある短剣へ伸びる。僕は胸の糸から伝わる緊張を感じながら、扉の前へ進んだ。
「誰ですか?」
問いかけると、少し間が空いた。
次に聞こえたのは、この世界の言葉ではなかった。
「佐原悠真くん。そこにヴァレナもいるんでしょう?」
日本語だった。
若い女の声が、扉一枚を挟んだ向こうから続ける。
「ゼルグラードから連絡をもらった。私は葛城凪――あなたたちが探そうとしている渡界人だよ」
胸の糸が強く震え、ヴァレナが僕の腕を掴んだ。その反応を見る限り、彼女もこの声に覚えがあるらしい。
扉へ伸ばした僕の手が取っ手へ触れる直前、凪と名乗った女は、低く早口で言った。
「でも、まだ開けないで。アルディスの追跡針は消えてない。今度はヴァレナじゃなくて、君の中に刺さってる」




