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第6話 海へ着いたので温泉を作ったら、魔王の娘が入ってきた

 海は、見えるより先に匂いで分かった。


 古い水道橋を発って半日ほど歩くと、乾いた風に塩の匂いが混じり始めた。街道を行き交う荷車には樽や網が積まれ、頭上を白い鳥が鳴きながら横切っていく。坂を上り切った先で視界が開けると、白い城壁と赤茶色の屋根、その向こうに、空より濃い青がどこまでも広がっていた。


「海だ」


 思わず声が出た。


 日本で見た海と同じように陽を弾いているのに、岸近くには帆の形も大きさも違う船が何十隻と浮かび、港の突堤では、首の長い木製の起重機が荷を吊り上げている。見慣れたものと知らないものが一つの景色に収まっているせいで、懐かしいのか驚いているのか、自分でもうまく分けられなかった。


 胸の奥にある薄紫色の糸が、かすかに揺れた。


 ヴァレナも起きている。家の中にいる彼女へ景色は見えないはずだが、僕の浮き立った気分まで伝わったのかもしれない。そう考えてから、まだ打ち明けていないことを思い出し、少しだけ後ろめたくなった。


 城壁へ近づくにつれ、街道はセラーデへ入る人々で混み始めた。南門の前には二列の検査台が置かれ、門兵が荷車の札と積み荷を一つずつ確かめている。門の内側には銀色の線を編んだような術式が張られており、そこを人や馬が通るたび、僕にしか感じ取れない淡い魔力が水面のように波打った。


 呪物や魔獣を持ち込ませないための検査らしい。僕の《旅人の家》がどこにあると判定されるのか不安だったが、順番が来ても銀の線は静かなままだった。ヴァレナの気配も、胸の奥に細い糸として残っているだけで、門の術式へ触れた様子はない。


「北から一人か?」


 日焼けした門兵に問われ、セインから受け取った証文を差し出した。男は勇者の署名を見て片方の眉を上げたものの、余計な質問はせず、僕の顔と証文を見比べる。


「滞在の目的は?」


「海を見ることと、旅の支度です。しばらく滞在するかもしれません」


「初めてなら、港の荷車に気をつけろ。連中は魚を轢くより人を轢くほうが安いと思ってる」


「そんなに違うんですか?」


「魚は売れるが、人は売ると役人が来るからな」


 冗談なのか判断できないまま証文を返され、門をくぐったところで、耳の奥に澄んだ音が響いた。


目的地セラーデへの到着を確認しました』


『《旅路の記録》に目的地を記録します』


『《道標への帰還》――道標《セラーデ南門》を登録しました』


 通りの真ん中で立ち止まるわけにもいかず、人の流れに押されながら文字を読む。表示はさらに続いた。


『この土地に応じた恩恵――《潮巡り》を取得しました』


『家屋内の生活用水に限り、循環、浄化、温度およびミネラル成分の調整が可能になります』


『《家屋拡張》を実行できます』


 最後の一文を見た途端、十二日分の足の疲れが少し軽くなった気がした。


 浴室である。


 工房や菜園にもいずれ世話になるだろうが、今の僕に選択の余地はなかった。


 とはいえ、人通りの多い場所で家へ入るわけにはいかない。港へ下る途中で《青帆亭》という宿を見つけ、三日分の部屋代を払った。寝台を使わないのはもったいないものの、二階の隅にある部屋なら、扉を出しても宿の人間に見つかる心配は少ない。


 部屋へ入り、閂を掛ける。漆喰の壁へ手を触れると、金色の線が長方形を描き、《旅人の家》の扉が現れた。


「着きましたよ」


 扉を開けると、ヴァレナは既に玄関で待っていた。僕が貸したシャツの袖を折り直しながら、外へ続く扉へ視線を向けている。


「その顔なら、本当に海があったようね」


「疑ってたんですか?」


「海を、ではないわ。着いた途端に浴室を選び、私への報告を忘れるのではないかと思っていたの」


「まだ選んでません。それに、ちゃんと先に報告しました」


「では、感想を聞かせて。どんな海だったの?」


 青くて広い、と答えかけ、それでは何も伝わらない気がして言葉を探した。帆船の数や港の大きさ、魚と潮の混じった匂い、白い鳥の鳴き声まで思いつくまま話すと、ヴァレナは扉の向こうを想像するように目を細めた。


「あとで、もっと詳しく話します。先に、これを済ませてもいいですか?」


 壁の地図へ触れると、《工房》《菜園》《浴室》の三つが明るく浮かび上がった。迷わず浴室を選ぶ。


『《家屋拡張》の対象に《浴室》を選択しました』


『希望する形式を指定してください』


「形式まで選べるのか……」


「どのような部屋にするつもり?」


「温泉です」


「オンセン?」


 この世界の言葉へ置き換わらなかったらしく、ヴァレナが聞き返した。


 僕にも温泉の正確な構造など分からない。小学生の頃、家族旅行で泊まった山あいの宿を思い出す。湯気の向こうに黒い岩が並び、木の樋から絶えず湯が流れ込んでいた。身体を洗う場所には低い椅子と桶があり、湯へ肩まで浸かれば、隣で父が長い息を吐いていた。


 あの場所をそのまま作るのではなく、旅で疲れて帰った時、手足を伸ばして湯に浸かれる場所がほしい。


 そう念じると、表示された文字が細かく揺れた。


『所有者の記憶から、入浴設備《温泉》の形式を参照します』


『不足する構造、給排水、換気および安全機能を《旅人の家》が補完します』


『土地恩恵《潮巡り》を適用します』


 家全体が、地面の底から押し上げられたように低く震えた。廊下の壁が奥へ遠ざかり、昨日ヴァレナが作らせた洗い場の扉が、ゆっくりと幅を広げていく。木と石が擦れる音へ水音が重なり、やがて、嗅ぎ慣れない鉱物と新しい木材の匂いが漂ってきた。


『《浴室》の拡張が完了しました』


 扉の向こうには、小さな宿の浴場ほどもある空間ができていた。


 手前は板張りの脱衣所で、壁際には籠と棚が並んでいる。曇った硝子戸を開けると床は灰色の石へ変わり、右手には身体を洗う場所、左手には黒い岩で囲まれた大きな湯船があった。岩の隙間から透明な湯が絶えず流れ込み、表面に白い湯気を浮かべている。


 湯船の向こうには細い坪庭まで作られていた。丸石の上へ名前の分からない細葉の木が一本植えられ、天井の一部から青白い光が差している。外へ開いているように見えるが、手を伸ばせば透明な壁へ触れた。《旅人の家》が僕の記憶をもとに作った、外へはつながっていない露天風呂らしい。


「これは、家の中なのでしょう?」


 ヴァレナは硝子戸の前で立ち止まり、湯船と坪庭を交互に見た。


「僕も、そう思ってたんですけど」


「地面も水脈もないのに、どこから湧いているの?」


「《旅人の家》が補ってくれたみたいです。たぶん、湧いているように見せながら、浄化した湯を循環させてるんじゃないかと」


「曖昧な記憶を渡しただけで、ここまで形にするのね」


 ヴァレナは膝をつき、岩の間を流れる湯へ指先を入れた。薄紫色の光が水面に淡く広がったため、無理に魔力を使うなと注意しかけたが、彼女はすぐに手を引く。


「塩と、何種類かの鉱物が溶けているわ。ごく薄いけれど、淀んだ魔力を外へ流す性質もある。聖銀に焼かれた傷には良さそうね」


「それなら、ヴァレナさんも使ってください。僕が戻ったあとで」


「分かったわ。では、その前に外へ出ましょう」


「駄目です」


 あまりに自然な流れで言われたが、答えは決めていた。


 ヴァレナが立ち上がり、長すぎる袖を直す。


「角なら髪と外套で隠せるわ。魔力も抑えられるし、人間の言葉で困ることもない。セラーデへ着いたのに、海を見られないほうが不自然でしょう?」


「門には、魔力を調べる術式がありました。家から出れば門を通らず町の中へ入れますけど、見つかった時は、入市記録のない魔族が突然現れたことになります」


「見つからなければいいのよ」


「その考えで星沈みの湖まで追われた人を、僕は知っています」


 ヴァレナは唇を結んだ。反論をやめたわけではなさそうだが、左脇腹を庇うように片手を添えたのを見逃さなかった。


「それに、姿と魔力を隠すには力を使うんでしょう? 傷の内側はまだ治っていません。町の見回りや、あの追手の仲間がいるかどうかを僕が確かめるまでは駄目です」


「あなたは、私の父でも護衛でもないわ」


「家主です。一時同行者を危険なまま外へ出さないくらいは、決めさせてください」


 しばらく見つめ合ったあと、ヴァレナは浴室の壁へ手を触れた。家へ意見を聞くつもりらしい。しかし返ってきたのは、木の奥で鳴る短い音が一度だけだった。


「何と言ってます?」


「負傷中の同行者には、休養を推奨するそうよ」


「今日は僕の味方みたいですね」


「主人へ似て、融通が利かなくなってきたわ」


 完全には納得していない顔だったものの、ヴァレナは扉から離れた。


「分かったわ。今日は残ります。その代わり、町の様子と《潮鏡》について、できるだけ詳しく調べてきて。海で採れたものも食べてみたいし、外へ出る時に使える服も必要よ」


「買い物が増えてませんか?」


「家で待つという譲歩をしたのだから、釣り合いは取れているでしょう?」


 しぶしぶ受け入れる人の要求としては、ずいぶん遠慮がなかった。


     ◇


 セラーデの通りは、海へ近づくほど賑やかになった。


 白い石を敷いた坂道を荷車が行き交い、建物の二階から張り出した物干し竿には、色とりどりの布が風を受けている。樽を転がす音、値段を叫ぶ声、頭上で餌を狙う海鳥の鳴き声が絶えず重なり、魚と香辛料と船へ塗る油の匂いまで一緒に押し寄せてきた。


 まず向かった市場では、銀色の魚が山のように積まれていた。大きなものほど得だろうと腕ほどもある一尾を選ぶと、店台の向こうにいた年配の女性が、僕の手から魚を取り上げる。


「兄ちゃん、一人旅だろ。それを買ってどうする気だい?」


「焼こうと思ってます」


「丸ごと?」


「切ったほうがいいですか?」


「その質問をする人間に、この魚は売れないね」


 魚屋から購入を断られるとは思わなかった。


 女性は山の端から、僕の手のひらより少し長い魚を三尾選んだ。青みがかった銀色の鱗が陽を反している。


「こっちにしな。腹はうちで出してやる。塩を振って、皮が焦げるまで焼けば食べられるよ。酸っぱい潮柑を絞れば、多少失敗してもごまかせる」


「多少は失敗する前提なんですね」


「大魚を丸焼きにしようとした男を、いきなり信用しろって?」


 もっともだった。魚と一緒に潮柑を二つ買うと、女性は香草を一束おまけしてくれた。


 その後は、丸パン、豆、干し肉、卵、乳酪、果物を順番に買い足した。温泉用の石鹸と厚手の布も必要になる。二人分を籠へ詰めているうちに荷物はかなり増えたが、《旅人の家》へ戻れば保存場所には困らない。


 衣料品の露店では、焦げ茶色の外套と、海辺でよく着るというゆったりした女物の上下を選んだ。ヴァレナは今も僕の服を着ている。外へ出さないとしても、いつまでもそのままというわけにはいかなかった。


「贈り物かい?」


 店主の女性が、僕の選んだ服と顔を見比べる。


「同行者の着替えです。今、怪我をしていて」


「背丈は?」


 手で示すと、次は肩幅を聞かれた。そこまでは僕のシャツを着た姿から答えられたものの、腰回りを尋ねられたところで言葉に詰まる。


「見たことないのかい?」


「服を着ているところなら」


「そりゃそうだろうね。脱いでるところまで見てきたら、私が衛兵を呼ぶよ」


 店主は笑いながら、紐で調節できる服へ取り替えた。必要な肌着も、背丈に合わせて選んだものを中身の見えない紙包みへ入れてくれる。僕は包みを確かめず、そのまま外套と一緒に買い取った。


 市場での用事を終えると、港を見下ろす古い塔へ向かった。入口には《潮鏡利用所》と記された青銅板が掛かり、海運商人らしい人々が、印を押した木箱や巻物を抱えて出入りしている。


 受付の男へ、遠方の私印に記録を届けたいとだけ説明すると、紙から目を上げずに質問が返ってきた。


「送り先の私印は、潮鏡へ登録済みですか?」


「そのはずです。こちらにも、本人へつながる印があります」


「なら、印の持ち主が直接来てください。記録と私印の両方を鏡へ触れさせ、送り先が応じれば接続します。代理人だけでは使えません」


 予想していたこととはいえ、ヴァレナを連れてこなければならないらしい。


「利用できる時間は?」


「潮が最も低くなる前後だけです。次は明日の夜明け前。私印同士の接続なら予約は要りませんが、入口で危険な術具がないか検査します。接続に失敗しても料金は返りません」


「人間以外でも利用できますか?」


 男の筆が止まった。


「《潮鏡》は海商人の盟約で守られています。利用規約を守り、正当な印を持つ者なら、種族も所属も問いません。ただし、塔へ入るまでの通りは王国の中です。そこから先まで、こちらは面倒を見ませんよ」


 中立なのは鏡と建物だけで、そこへ辿り着くまでの安全は別らしい。礼を言って塔を出た。


 次は飛脚所へ向かう。受付でセインの名を出し、王都へ向かう勇者一行へ届けたいと頼むと、三日ごとに馬を替える速達便へ載せられるという。僕は机の端を借り、昨夜考えておいた内容を紙へ書いた。


 魔王軍の内部に、魔王ゼルグラードの命令を偽造して戦線を南へ広げようとしている者がいること。早ければ二十日ほどで大軍が動く可能性があること。聖銀へ追跡術を仕込める者が関わり、命令の記録も存在すること。


 情報の出所は書けない。ただの噂と思われないよう、北砦の白艾を知るほど内情に通じた人物から得たことと、証拠が別の経路でゼルグラード本人へ送られる予定であることは添えた。セインなら王都へ届け、リシュラとガド爺なら、僕が書かなかった部分まで考えてくれるはずだ。


 紙を折って封をし、自分の名を書いたところで、受付の青年が僕の証文をもう一度見せてほしいと言った。


「ユウマ・サハラさんで間違いありませんか?」


「はい」


「あなた宛ての手紙を預かっています。北の宿駅から、セラーデ留めで届いたものです」


 差し出された封筒の表には、見慣れた字で僕の名前が書かれていた。


 受け取っただけで、誰からの手紙か分かった。


 飛脚所の前では人の出入りが多かったため、港の端にある石段まで歩いた。波が堤防へぶつかるたび、細かな飛沫が風に乗ってくる。荷物を脇へ置き、封を切った。


 香澄の手紙は短かった。


 皆で王都へ向かっていること。大神殿から、僕と香澄の二人を再鑑定するという連絡が来たこと。理由はまだ分からず、帰る方法に関係があるか確かめてから知らせるので、今すぐ戻る必要はないこと。


 最後には、倒れる前に治療をやめた、と追伸が付いていた。


 そこだけ二度読み、口元が少し緩んだ。僕に心配させないための報告なのだろうが、香澄らしい書き方だった。


 けれど、《二人を再鑑定する》という一文へ戻ると、今度はヴァレナから聞いた話が浮かんだ。


 同じ場所から、同じ場所へ、二人で渡った。黒曜宮の記録でもほとんど例がなく、ただ巻き込まれたのではない可能性がある。


 大神殿が何を知り、なぜ四か月も経った今になって調べ直そうとしているのかは分からない。少なくとも、理由が分からないまま王都へ戻る気にはなれなかった。


 僕は飛脚所へ戻り、香澄への返事を書くために、もう一枚だけ紙を買った。


 セラーデへ無事に着いたこと。僕は今のところ戻らないこと。再鑑定の理由が分かったら知らせてほしいことを書き、最後に少し迷ってから、追伸を加えた。


『倒れる前にやめられたなら安心した。これからも続けてください』


 読み直すと先生のような書き方になっていたが、書き直しても似たような文になりそうなので、そのまま封をした。


 飛脚所を出たあと、港へもう一度寄った。ヴァレナに海を持ち帰ることはできない。それでも露店で、耳へ当てると波のような音がするという白い巻き貝を一つ見つけ、値段を聞く。


「旅の土産なら銅貨三枚だよ」


「さっき、前の人には二枚と言ってませんでしたか?」


「あの人は地元の客だ。兄ちゃんは旅の思い出も一緒に買うから、一枚高い」


「思い出はいらないので、貝だけ二枚でください」


 売り手の少年は不満そうに頬を膨らませたが、最後には二枚で渡してくれた。


 初めて一人で選んだ目的地で、最初に買った土産が、家から出られない魔王の娘へ渡す巻き貝になるとは思っていなかった。


     ◇


「これは、本当に海の音なの?」


 《旅人の家》へ戻ると、ヴァレナは受け取った巻き貝を耳へ当て、反対側の穴を覗き込んだ。


「正確には、貝の中で周りの音が響いているだけだったと思います」


「では、海の音ではないのね」


「雰囲気はあります」


「あなた、売り手に騙されたのではなくて?」


 二枚まで値切ったことは黙っておいた。


 ヴァレナはそう言いながらも、巻き貝をすぐには耳から離さなかった。焦げ茶色の外套と衣服の包みも渡すと、服のほうは自室へ置き、外套だけを広げて角が隠れる深さを確かめている。


 夕食には、市場で買った魚を焼いた。教わったとおり皮へ焦げ目をつけ、潮柑を絞ると、香草と脂の匂いが台所へ広がった。焼き加減を確かめるため一尾の腹を少し崩したものの、ヴァレナから苦情は出なかったので、初めてにしては上出来だったと思う。


 食べながら、《潮鏡》で聞いたことを順に伝えた。明日の夜明け前なら使えること。ヴァレナ本人と私印が必要なこと。鏡のある塔は種族を問わないが、町の中を安全に往復できる保証まではないこと。


「入口で術具の検査もあるそうです。影録石を危険な物と判定されませんか?」


「影録石そのものに攻撃の力はないわ。父の私印も、持ち主を示すためのものよ。ただ、印の意味まで読み取れる者がいれば、騒ぎになるでしょうね」


「やっぱり、普通に歩いて持ち込むのは危険ですね」


「でも、私が触れなければ接続できないのでしょう?」


 ヴァレナは魚の骨を皿の端へ寄せながら、壁に掛かった地図を見る。セラーデの印は既に青く灯り、その横には彼女の薄紫色の印が重なっていた。


「家の扉を、塔の中へ直接つなげられれば早いのだけれど」


「行ったことのない場所には出せません。《道標への帰還》も、登録されたのは南門だけです」


「なら、塔の近くまで人目の少ない道を探すしかないわね。今夜は外へ出ないという約束だったもの。明日については、改めて相談しましょう」


 外出を認めた覚えはなかったが、少なくとも無断で出るつもりはないらしい。


 続けて、香澄から届いた手紙の内容を話した。ヴァレナは追伸に関しては「その女性は、あなたに随分心配をかけてきたのね」と言っただけだったが、再鑑定の部分では食事の手を止めた。


「命令が宿駅へ届いたのは、あなたがリーベルを出た翌日なのでしょう? なら、あなたの旅立ちを知ってから出されたものではないわね」


「たぶん。王都から北まで届く時間を考えれば、もっと前に決まっていたはずです」


「二人を同時に、というところは気になるわ。渡界人だから調べ直すだけなら、別々でも構わないもの」


「僕らが二人で来たことと、関係があると思いますか?」


「まだ分からないわ。《旅人の家》に現れる文字は、こちらの者には見えないのでしょう?」


「少なくとも、王都の神官には読めませんでした」


「なら、理由を確かめるまでは戻らないほうがいいでしょうね。調べる側が何を求めているか知らずに、その内側へ入るのは勧められないわ」


 僕も同じ意見だった。香澄が王都で調べてくれるなら、今は彼女からの次の便りを待つ。その間に、ヴァレナの証拠を送る方法と、黒曜宮に残る渡界の記録へ近づく道を探せばいい。


 話すべきことは、もう一つ残っていた。


「ヴァレナさん。僕の身体に起きている変化について、聞いてください」


 魚を切り分けていた彼女の手が止まる。


 僕は、口づけの翌日から感じていたことを話した。彼女が眠っているか、傷が痛んでいるか、魔力を使っているかが、胸の奥にある糸を通じて薄く伝わること。近くにいる魔物や魔族の気配が分かるようになり、暗い場所でも以前より目が利くこと。小さな傷が早く塞がる代わりに、空腹がひどくなったこと。


 黒い柱と青い炎、それから僕の袖を掴んで「姉上」と呼ぶ、小さな手の夢も見た。


 最後まで聞き終えたヴァレナは、皿の横へ静かにナイフを置いた。


「それに気づいたのは、いつ?」


「最初は、口づけの翌日です。全部がおかしいと分かったのは、四日くらい前で」


「昨日、互いに関わる変化を隠さないと約束した時には、既に知っていたのね」


「……はい。セラーデへ着いたら話すつもりでした」


「着かなければ?」


 返す言葉がなく、僕は視線を落とした。


 ヴァレナはすぐに責め立てず、卓を回って僕の隣へ来た。手首を取られ、二本の指が脈へ触れる。そこから流れ込んだ薄紫色の魔力は、今までなら温度くらいしか分からなかったはずなのに、枝分かれする細い筋まで形として感じ取れた。


「確かに、私の魔力が残っているわ。残り香という量ではない。あなたの《旅人の家》が私を所有者の保護へ入れた時、魔力の通り道まで身体の内側へ作ってしまったようね」


「元に戻せますか?」


「今すぐ危険だとは思わないわ。感覚や治癒が強くなったのは、私の魔力へ身体が合わせようとしているからでしょう。ただ、夢まで見るなら、つながりは想定より深い。あなたが見たのは、おそらく私の記憶よ。黒曜宮の青い炎も、私を姉と呼ぶ小さな手も覚えているもの」


 ヴァレナは僕の手首を見たまま、指先へわずかに力を込めた。


「放っておけば消えるのか、さらに馴染むのかは調べる必要があるわ」


「調べる方法は?」


 ヴァレナの指が、僕の手首から離れた。


「同じ道へ、今度はごく少量の魔力を流し、戻ってくる形を確かめるのが一番正確よ」


「同じ道というのは……」


「口づけね」


 分かっていたのに、本人の口から聞くと喉が詰まった。


「手をつなぐのでは駄目なんですか?」


「大まかな状態なら分かるけれど、あの時に開いた道の深さまでは測れないわ。呼吸と魔力を重ねた場所から辿る必要があるの。ただし、緊急ではないから、嫌なら別の方法を探す」


 前回とは違い、何をするのかも、なぜ必要なのかも先に説明されている。自分の身体のことなのだから、照れて先延ばしにするほうが危ない。


「調べてください。ただ、少し待ってもらってもいいですか?」


「構わないわ。温泉へ入ったあとがいいでしょうね。身体が温まれば魔力の流れも緩むから」


 ヴァレナはそう言い、僕の皿に残っていた魚を指差した。


「その前に食べてしまって。冷めるわ」


 深刻な話をしていたはずなのに、最後は夕食の心配になった。


 食事を終えると、僕は新しく買った布と着替えを持って立ち上がった。


「では、先に入ってきます」


「ええ。私は片づけてからにするわ」


 その返事を、僕は順番を待つという意味だと思った。


     ◇


 温泉は、想像していた以上だった。


 身体を洗ってから足先を入れると、少し熱めの湯が十二日間歩き続けた筋肉へ染み込んでくる。岩へ背中を預け、ゆっくり肩まで沈めば、足の裏に残っていた痛みまで湯の中へ溶けていくようだった。


 天井近くを白い湯気が流れ、岩の隙間では湯が絶えず音を立てている。閉ざされた家の中だと分かっていても、坪庭の青白い光を眺めていると、山奥の宿へ来たような気分になれた。


「ごくらく、ごくらく……」


 日本にいた頃なら、わざわざ声に出したことはない。それでも四か月ぶりに肩まで湯へ浸かれば、言ってみたくもなる。


 胸の奥にある糸は、いつもより広くほどけていた。ヴァレナの気配が居間から廊下へ移り、浴室へ近づいてくるのも分かったが、僕は目を閉じたまま動かなかった。脱衣所で待ち、僕が上がる頃合いを見ているのだろうと思ったのだ。


 硝子戸の開く音がした。


「湯加減はどう?」


 問いかけられ、何も考えずに目を開けた。


 戸口に、ヴァレナが立っていた。


 青みを帯びた黒髪は結ばず肩へ流れ、小さな黒い角が湯気の上に覗いている。それ以外は、隠すものが何もなかった。都合よく湯気が濃くなることもなく、僕は一糸まとわぬ彼女の姿を、顔から足先まで正面からはっきり見てしまった。


 目を逸らすまで、一秒もなかったと思う。


 ただ、人間の目は一秒で困るほど多くのものを覚えるらしい。


「な、何をしてるんですか!?」


 僕は坪庭のほうへ顔を向け、顎まで湯へ沈んだ。急に動いたせいで波が立ち、岩の縁から湯が溢れる。


「何って、入浴よ。ここはそのための部屋なのでしょう?」


「服は!?」


「脱衣所に置いたわ。服を着たまま入る習慣なの?」


「そういう意味じゃありません! 僕が入ってるでしょう!」


「見れば分かるわ」


 ヴァレナの足音が、濡れた石の上を近づいてくる。僕は振り返らないまま、手探りで岩の脇に置いた予備の布を掴み、後ろへ差し出した。


「これを巻いてください」


「湯へ入れば濡れるわよ?」


「分かってます。お願いしますから!」


 背後で布を広げる音がした。胸の糸から伝わる彼女の気配は驚くほど落ち着いており、慌てているのが僕だけだという事実が、余計に恥ずかしい。


「巻いたわ。もうこちらを見ても平気よ」


 言われても、すぐに確かめる勇気はなかった。横目で少しずつ振り返ると、ヴァレナは布を身体へ巻きつけたまま、湯船の反対側から入ろうとしている。


「どうして一緒に入るんですか?」


「魔王領では、同じ住処で暮らす者が大きな浴槽を共に使うのは珍しくないわ。黒曜宮の湯殿も、時間を分けてはいなかったもの」


「日本では、家族でもない男女は普通分かれます」


「口づけはしても、湯へ入るのは駄目なの?」


「あれは必要があったからです!」


「今日も必要があるでしょう? 温まったあとのほうが、魔力を調べやすいと説明したわ」


 確かに説明はされた。けれど僕は、互いに風呂を済ませて服を着たあとで調べるのだと思っていた。


「僕が先に入るとも言いましたよね?」


「ええ。だから、あなたが先に入ったでしょう?」


 言葉は通じているのに、意味が通じていなかった。


 ヴァレナは湯船へ足を入れ、僕の向かい側に腰を下ろした。巻いた布が湯へ浮かないよう片手で押さえながら、肩までゆっくり沈んでいく。やがて岩へ背を預けると、淡い金色の目を細め、長く息を吐いた。


「なるほど。これは気持ちがいいわね」


「それは何よりです」


 僕は坪庭の丸石から視線を動かさずに答えた。


「傷の奥が、少し軽くなるわ。毎日使ってもいいのでしょう?」


「好きに使ってください。ただし、入る前に声を掛けて、返事を待って、一人ずつです」


「ずいぶん条件が増えたわね」


「今、増えた理由を見たでしょう?」


 ヴァレナが小さく笑った気配がした。湯気の向こうから感じる薄紫色の魔力は、水へ溶けるように広がり、僕の胸へつながった糸と何度も重なる。先ほど手首へ触れられた時より、輪郭がはっきりしていた。


「ユウマ。こちらを向いて」


「その状態でですか?」


「魔力の通り道を調べるのよ。何をするかは、先に説明したでしょう?」


 今度こそ、ヴァレナは僕の返事を待った。


 逃げたい理由なら十分にある。湯船の中で、ついさっき裸体を見てしまった相手と向き合い、さらに口づけまで交わすなど、日本にいた頃の僕なら想像するだけで顔を覆っていたはずだ。


 それでも、彼女の魔力が僕の身体へ残っていることは冗談では済まない。痛みや気配だけでなく、記憶まで流れ込んでいる。調べてもらうと決めたのは僕自身だった。


 息を整え、ゆっくりとヴァレナへ向き直る。


 彼女は布を巻いたまま、湯船の中央近くまで移動していた。肩へ張りついた黒髪から雫が落ち、湯の表面に小さな輪を作っている。


「……お願いします。調べてください」


「ええ。嫌だと思ったら、すぐに離れて」


 ヴァレナが片手を伸ばし、僕の頬へ触れた。指先から薄紫色の魔力が伝わり、胸の奥にある糸が強く張る。


「目を閉じて」


「それは言われなくても閉じます」


 彼女の口元がわずかに緩んだのを最後に、僕は目を閉じた。


 唇が重なり、今度はすぐには離れなかった。触れた場所から薄紫色の熱が息の奥へ流れ込み、湯でほどけていた魔力の道を、迷いなく深く辿ってくる。


 追手を欺くためだった一度目とは違い、僕は理由を聞き、自分で頷いた。


 そのうえでヴァレナは、白い湯気の中、僕へもう一度深く口づけた。

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