第5話 魔王の娘は、僕より《旅人の家》と話が通じるらしい
三十歩ほど先の街道には、動くものなど何も見えなかった。
乾いた砂の上を細い風が撫で、古い水道橋の影から白い蝶が一羽飛び出してくる。鳥の声も聞こえず、獣の匂いもしない。それでも足を踏み出そうとした途端、奥歯の裏へ冷たい金属を押し当てられたような感覚が走った。
僕は反射的に足を止め、背負っていた荷物を下ろした。
視線を凝らしても、街道脇には背の低い草と砂地が続いているだけだ。けれど目で見えている景色とは別に、地面の下へ濁った赤色の塊が三つ沈んでいると分かった。
理由は分からない。分からないまま近づく気にもなれず、道端の小石を拾って放り投げる。
石が砂へ落ちた瞬間、その周囲が大きく盛り上がった。輪のように並んだ牙が地面から現れ、何もない空間へ噛みつく。少し遅れて、平たい蜥蜴に似た魔物が二頭、砂を跳ね上げながら這い出した。もう一頭は姿を隠したまま、赤い気配だけをゆっくりと移動させている。
「砂潜りか……」
勇者一行にいた頃、ガド爺から南の乾いた土地にいると教わった魔物だった。砂へ潜って待ち伏せし、馬の脚へ食らいついて引き倒す。見つけるのは難しいが、縄張りから大きく離れて追ってくることはない。
僕は短剣へ手を伸ばさず、水道橋の崩れた階段を使って街道の上へ回り込んだ。わざわざ戦って怪我をするより、避けられるものは避けたほうがいい。
高いところから見下ろすと、砂潜りたちはしばらく石へ牙を立てていたが、獲物ではないと分かったらしく、一頭ずつ砂の中へ戻っていった。
古い水道橋は、セラーデへ至る街道にある最後の大きな目印だ。《旅路の記録》によれば、ここから海沿いの町までは、あと一日歩けば着く。
六日前までの僕なら、最初の一歩で噛みつかれていたと思う。
ヴァレナに口づけられ、彼女の魔力を自分の保護領域へ受け入れてから、僕の身体には小さな変化が起きていた。
最初に気づいたのは、目を覚ます前から、ヴァレナが起きているかどうか分かることだった。彼女が眠っている時は胸の奥にある薄紫色の糸が静まり、目覚めると水へ触れたような揺れが伝わってくる。傷が痛めば僕の左脇腹まで微かに疼き、魔力を使えば、糸が強く張った。
それだけではない。夜明け前でも道の凹凸が見えるようになり、一日歩いた足の傷は翌朝になると薄く塞がっている。その代わり空腹になるのが早く、魔力の濃い場所では音のない耳鳴りに悩まされた。
感じ取れる範囲は、今のところ五十歩ほどしかない。分かるのも魔力の濃さとおおまかな輪郭までで、相手が何を考えているか、こちらへ敵意を持っているかまでは読み取れなかった。ヴァレナの気配は深く静かな薄紫色に感じられ、魔物のものは形の崩れた濁りに近い。人間や魔道具の魔力は、それよりずっと淡かった。
眠っている間に、自分のものではない景色を見ることもあった。
黒い柱が並ぶ広間。床へ映る青い炎。見覚えのない小さな手が僕の袖を掴み、「姉上」と呼ぶ声。目覚めれば細かな部分は消えてしまうものの、夢にしては知らないものが多すぎた。
どれも、あの口づけより前にはなかった変化だ。
ヴァレナには話していない。
彼女の身体の調子が勝手に伝わってくるなど、聞かされて気持ちのいい話ではないだろう。それに、これが一時的な魔力の残り香なのか、身体そのものが変わり始めているのか、僕にも判断できなかった。セラーデへ着くまで様子を見て、それでも続くようなら話そうと決めている。
決めてから、既に四日経っていた。
水道橋の上で荷物を背負い直すと、胸の奥にあった糸が急に引き絞られた。同時に左脇腹へ鋭い痛みが走り、思わず手を当てる。僕自身に傷はない。
「また何かしてるな……?」
視界の端へ《旅路の記録》を呼び出す。地図に描かれた青い線は、明日にはセラーデへ届くところまで伸びていた。現在地を示す印の隣では、ヴァレナの薄紫色の印が家の中にいることを示している。
湖を出てから今日まで、彼女を外へ出したことは一度もない。僕が人目のない場所で扉を開けて外へ出たあと、入り口を消し、夕方になれば数里先でまたつなぐ。ヴァレナはその間ずっと《旅人の家》に留まり、街道を歩くのは僕一人だった。
口づけの翌日には台所まで歩けるようになっていたが、傷が完全に治ったわけではなかった。それに、角を持つ魔族を連れて人間の街道を進めば、追手より先に旅人や兵士へ見つかる可能性がある。本人も外へ出たいとは言わず、扉の内側に留まっていた。
だからこそ、今の痛みは放っておけない。
僕は水道橋を支える太い石柱の陰へ回った。街道から見えないことを確かめ、苔の生えた石へ手をつく。《旅人の家》を呼ぶと、金色の線が長方形を描き、見慣れた木の扉が現れる。
取っ手へ手を掛けたところで、中からヴァレナの声が聞こえた。
「そこは、もう指二本分だけ低くしてちょうだい。ユウマは帰ると、最初に地図入れを置くでしょう? 今の高さでは肩が引っ掛かるわ」
誰かと話している。
追手が入り込んだのかと思い、腰の短剣を抜きかけた。しかし胸の奥にある彼女の気配は落ち着いており、家の中から敵意らしいものも感じない。
少し待つと、木を内側から叩くような音が一度だけ鳴った。
「ええ。それでいいわ。次は洗い場の棚を――」
僕は扉を開けた。
「誰と話してるんですか?」
「お帰りなさい、ユウマ」
ヴァレナは驚きもせず、居間の壁へ片手を当てたまま振り返った。
湖で着ていた黒い服は裂け、血と泥で使えなくなっていたため、今は僕の予備のシャツと旅用のズボンを貸している。袖は折っても少し長く、青みを帯びた黒髪は邪魔にならないよう首の後ろで結ばれていた。小さな角を隠す必要のない家の中では、髪を右へ流している。
立って話せるほどには回復したものの、左脇腹を庇う姿勢はまだ残っていた。
「この家と話していたのよ」
「家と?」
「ええ」
ヴァレナは当然のように答えたが、僕は玄関を一歩入ったところで動けなくなった。
そこは、朝まで使っていた《旅人の家》とは別の家に見えた。
これまで靴を脱ぐだけだった狭い玄関には、灰色の平石を敷いた一角が増えている。足を載せると、靴と裾に付いていた砂が細かな光になって床へ吸い込まれた。壁には外套と荷物を掛ける棚が作られ、僕の地図入れを置くのにちょうどいい高さまで、小さな台が張り出している。
台所と居間の広さは変わっていないはずなのに、使っていなかった戸棚が壁へ埋まり、卓を畳めるようになったことで、二人がすれ違っても肩をぶつけない余裕ができていた。魔石灯も天井の中央から壁際へ移され、昼間に近い柔らかな光を部屋全体へ広げている。
廊下の途中には、昨日までなかった薄い扉まであった。
「あれは何ですか?」
「洗い場よ。身体を拭くたび、台所で湯を沸かして桶を運んでいたでしょう? 水場から管を分けてもらったの。温かい湯も出るわ」
扉を開けると、人一人が立てる程度の石張りの空間があり、壁から金属の管が伸びていた。下には排水用らしい溝がある。湯へ肩まで浸かれる広さはないが、桶と布だけで身体を洗うよりはずっと楽そうだった。
隣の棚には、昨夜洗って干したはずの僕の服が、乾いた状態で畳まれている。
「何をしたら、一晩でこうなるんですか?」
「だから、この家へ相談したのよ」
「僕は百日以上ここで暮らしてますけど、相談に乗ってもらったことなんて一度もありませんよ」
「あなた、相談したことがあるの?」
聞き返され、言葉に詰まった。
家を出してほしい、水を出してほしい、扉を閉じたいと念じたことは何度もある。だが、この棚は動かせるのか、もっと暮らしやすくする方法はないかと、問いかけた覚えはなかった。能力とは命令して使うものだと思っていたからだ。
それでも、自分の家が客の言うことだけ聞いたようで、素直に納得はできない。
僕は居間の壁へ向き直った。
「《旅人の家》。前から、こういうことができたのか?」
返事はなかった。壁の木目も、魔石灯の明るさも変わらない。
ヴァレナが隣へ来て、同じ場所へ掌を重ねる。薄紫色の光が指の間から壁へ染み込み、木目に沿って細い金色の線が走った。
「この方は、今まで使わなかった機能があったのかと聞いているわ」
コツ、と壁の奥で音が鳴った。
「あるそうよ」
「今の一回で、そこまで分かるんですか?」
「音を数えているわけではないわ。触れた魔力の返り方で、おおよその意味が分かるの。この子は言葉を持っているというより、形を変えることで意思を示すのね」
「この子……」
自分の能力が、知らないところで呼び方まで貰っていた。
目の前へ、遅れて半透明の文字が浮かぶ。
『《一時同行者》による居住補助機能の利用を確認しました』
『既存設備の配置、温度、清浄機能について、同行者からの提案を受け付けます』
『所有権、出入口、目的地、家屋拡張に関する権限は、所有者にのみ帰属します』
少なくとも、勝手に家を奪われる心配はないらしい。
「どうしてヴァレナさんには話が通じるんですか?」
「高位の魔族は、自分の魔力を土地や住処へ馴染ませる術を幼い頃から教わるの。魔族の城は、石を積んだだけの建物ではないもの。長く暮らす者の魔力を覚え、扉を守り、時には部屋の形まで変えるわ」
ヴァレナの指が壁の金色をゆっくりとなぞった。
「父の城――黒曜宮も、父の魔力で生きているような場所だった。私は第一子だから、文字を読むより先に、壁や扉の機嫌を聞く方法を教えられたのよ」
「王族の必修科目が、家との会話なんですか?」
「侵入者を最初に知るのは、そこに住む者ではなく壁でしょう? 役に立つわ。それに、幼い弟が菓子を隠した場所を探す時にも便利だったもの」
ヴァレナはわずかに口元を緩めた。
黒い柱の間で僕の袖を掴み、「姉上」と呼んだ小さな手を思い出す。喉まで出かかった言葉を、僕は飲み込んだ。
夢のことまで話せば、魔力のつながりが僕の中へどれだけ入り込んでいるか、認めることになる。まだ、その覚悟はなかった。
「それで、どこまで変えたんですか?」
「空間そのものは広げていないわ。使っていなかった奥行きと家具の配置を変えただけ。洗い場と乾燥棚、それから玄関を通る時に、外から付いた魔力の痕跡を落とす機能を使えるようにしたの」
「最後のは、随分大事な機能じゃないですか」
「あの男の追跡術を解析したのでしょうね。痕跡を見分けられるなら、泥と同じように入り口で落とせないかと尋ねたら、できると答えたわ」
棚の位置より先に、それを教えてほしかった。
とはいえ、外を歩いて戻る僕が追跡術を付けられても、玄関で洗い落とせるなら安全は増す。勝手に家を改造されたことへの文句が、少しだけ言いにくくなった。
「もしかして、浴室も作れますか?」
期待を込めて尋ねると、ヴァレナが壁へ同じ問いを伝えた。
今度は床の下から、先ほどより重い音が二度返ってくる。
「駄目だそうよ」
「どうしてですか?」
「浴室は、最初の目的地へ辿り着いた時に得られる《家屋拡張》の候補だから、先に与えることはできない、と言っているわ」
「そこまで分かっているなら、僕に直接言ってくれてもいいのに……」
家は沈黙したままだった。
「あなたの家は、融通が利かないところだけ主人に似ているわね」
「六日で随分仲良くなりましたね」
「あなたが朝から夕方まで留守にするからでしょう?」
言い返せずにいると、ヴァレナの顔から急に血の気が引いた。壁へ触れていた手が滑り、反対の手で左脇腹を押さえる。
同時に、僕の胸へつながった糸が強く震えた。
「座ってください」
「この程度なら平気よ」
「平気な人は、立っているだけでそんな顔をしません」
僕は椅子を引き、返事を待たずに彼女の腕を支えた。ヴァレナは何か言いたそうに僕を見たが、抵抗せず腰を下ろす。
「外から戻ったばかりなのに、よく見ているのね」
「六日も同じ家で暮らせば分かりますよ」
嘘ではない。全部でもなかった。
ヴァレナは目を細めたものの、それ以上は追及しなかった。
◇
昼食には、干し肉と豆を煮たスープを作った。
新しくできた洗い場のおかげで鍋へ水を運ぶ手間は減ったが、料理そのものまで家がしてくれるわけではない。ヴァレナが棚へ相談している間に固くなったパンを薄く切り、火で炙ってスープへ添える。
「改築の相談をする時、魔力を使ったんでしょう?」
「ほんの少しよ。この家はほとんど自分の力で動いているわ。私は、どこへ力を流せば意思が届くか探っただけ」
「傷が治るまでは、その少しも控えてください」
「もう傷口は塞がっているわ」
「聖銀に焼かれた内側は、まだ痛むんですよね?」
ヴァレナの手が止まった。
僕が知っているはずのないことまで言ってしまったかと思ったが、彼女は脇腹へ目を落とし、包帯の上を指でなぞった。
「痛むことくらい、動きを見れば分かるものね」
「そういうことです」
危ういところで納得してくれたらしい。
食事を終えたあと、僕は台所の戸棚から預かっていた武器を取り出した。黒い鞘の短剣、長靴に隠していた薄い刃、それに三本の針を卓上へ並べる。
「動けるようになったら返すと約束しましたから。今なら、もう大丈夫だと思います」
ヴァレナはすぐには手を伸ばさなかった。
「本当に返していいの?」
「返してから僕を刺すつもりなら、聞いても答えは同じでしょう?」
「それもそうね」
彼女は短剣だけを取り、残りは卓上へ置いたままにした。鞘尻の金具を捻ると、僕が知らなかった細い空洞が開き、中から爪ほどの黒い石が出てくる。
「それは?」
「私が狙われた理由よ」
ヴァレナが石へ魔力を流すと、卓上に黒と赤の光が広がった。大陸北部の地図らしい。文字は読めないが、北砦とリーベルを結ぶ街道の形は、勇者一行で何度も見たものと同じだった。
赤い線が北砦を越え、王国側の村へ枝分かれしている。端には、魔王ゼルグラードのものらしい大きな印が浮かんでいた。
「父が出していない命令の記録よ」
「魔王の印があるのに?」
「印そのものは本物よ。だから問題なの。父の印と軍の伝令網を管理できる者が、命令を偽造している」
彼女は地図の一点へ指を置いた。赤い光が揺れ、聞き取れない低い声が石から流れ始める。魔族の言葉のはずなのに、声へ込められた命令の輪郭だけが、胸の奥へ直接触れてきた。
砦を越えろ。村を焼け。証人を残すな。
言葉として理解できたわけではない。それでも、そんな意味であることが分かってしまう。
僕は表情へ出さないよう、地図だけを見つめた。
「魔王軍が南へ攻めているのは、全部その偽の命令なんですか?」
「いいえ」
ヴァレナは迷わず否定した。
「父は人間の王国と争っているし、北の要地を奪うことも命じてきたわ。あなたに、父が人間の味方だと信じてほしいわけではないの。ただ、この春は北砦より南へ軍を進めず、民間の村へ手を出さないよう命じていた。それを破り、戦を広げようとしている者がいるのよ」
襲われた村と、埋葬された兵士たちのことを思い出す。目の前の記録が本物だとしても、それだけで魔王軍が敵でなくなるわけではない。
だが、魔王の命令とは別に動く者がいることは、ヴァレナを追った男の存在が証明している。
「ヴァレナさんは、それを調べていたんですか?」
「父の代理として、北の軍を巡察していたの。命令と実際の動きが合わないことに気づき、伝令所からこの《影録石》を持ち出したわ。けれど、父へ直接届ける前に、あの男に追いつかれた」
「あの人は、魔王の側近なんですよね?」
「宮廷の伝令術を束ねる者よ。私が幼い頃には、魔術の教師でもあったわ」
淡々とした声だったが、石を押さえる指先は白くなっていた。
信頼していたのかどうか、僕には断定できない。それでも、ただの敵へ向けるより複雑なものが、その沈黙には混じっているように見えた。
「通常の伝令術を使えば、先にあの男へ内容が届く。だから私は南へ逃げ、セラーデを目指していたの。あの町には、王国にも魔王軍にも属さない古い《潮鏡》が残っているわ。海を渡る商人が使う連絡路なら、父の私印へ記録を送れる」
「星沈みの湖は、その途中だったんですね」
「ええ。聖銀を受けた時点で、月蛍砂まで辿り着かなければ助からないと分かっていたわ。ただ、湖の中で力尽きるところまでは予定していなかったけれど」
「普通はそこまで予定に入れませんよ」
軽く返したつもりだったが、ヴァレナは笑わなかった。
「あの男たちは、影録石を取り返せないなら、私の死体を人間側の土地へ残すつもりだったのでしょう。身体に聖銀が刺さっていれば、父は人間に殺されたと考える。たとえ疑ったとしても、第一子を殺されて何もしなければ、魔王としての立場を失うわ」
「それで戦争を広げる理由になる」
「そういうことよ」
ヴァレナは光を閉じ、黒い石を掌へ握り込んだ。
「あなたがこれを知れば、勇者たちへ知らせるため北へ戻るかもしれないと思った。だから、あの時は話さなかったの」
「今は、話しても戻らないと思ったんですか?」
「セラーデまで、あと一日なのでしょう? 町から手紙を送るほうが、あなたが十日以上の道を引き返すより早いわ。それに――」
そこで言葉を切り、ヴァレナは僕をまっすぐ見た。
「六日間、あなたが私を売らなかったから。遅すぎるとは分かっているけれど、私も同じだけ信用しなければ不公平でしょう」
最初から信じていたわけではなく、試されていたらしい。気分がいいとは言えなかったが、魔王の娘が人間の家へ命と証拠を預けていることを考えれば、無理もないとも思う。
「軍が動くまで、どれくらいありますか?」
「偽の命令どおりなら、早くても二十日後よ。北砦を失った直後に大軍を動かせるほど、向こうの補給にも余裕はないわ」
「なら、明日セラーデからセインへ知らせます。影録石のことと、魔王軍の中に勝手に戦いを広げようとしている人がいることを」
「私の名を出せば、あなたまで疑われるわ」
「魔王の娘を家に匿っているとは書きません。信じてもらえる範囲で、危険だけ伝えます」
セインなら、証拠のない話でも無視はしないだろう。リシュラは情報の出所を気にするはずなので、聖銀に追跡術が仕込まれていたことと、北砦の白艾をヴァレナが知っていたことも添えたほうがいい。ガド爺なら、魔物の動きから裏を取れるかもしれない。
仲間ではなくなっても、伝える方法はある。
「ただし、これから僕の旅へ関わる危険を知った時は、話してください。僕が戻るか進むかは、自分で決めます」
「分かったわ。約束する」
「本当に?」
「口づけの前に説明するという約束も、まだ破っていないでしょう?」
「それは、破る機会がなかっただけです」
ヴァレナの口元へ、ようやく笑みが戻った。
「では、あなたも約束して。私の身に関わる変化があれば、隠さず話すこと」
胸の奥にある薄紫色の糸が、僕の返事を待つように小さく震えた。
「……分かりました」
今すぐ打ち明けられないまま答えたせいで、思ったより声が低くなった。
自分から隠し事をするなと求めておきながら、僕は既に約束へ反している。セラーデへ入って安全を確かめたら、今度こそ話さなければならない。
ヴァレナは何も言わなかった。ただ、僕の顔を探るように数秒見つめてから、影録石を短剣の鞘へ戻した。
◇
「私の話ばかりしたわね」
武器を腰へ戻したヴァレナが、今度は壁に掛けた《旅路の記録》へ目を向けた。彼女には文字が見えないものの、リーベルから南へ伸びる線と二つの印は見えるらしい。
「あなたは、なぜ勇者一行を離れたの? 北へ進む前に抜けたということは、何か理由があったのでしょう?」
いつか聞かれるとは思っていた。
魔王軍の内側にある争いまで話したのだから、僕だけ曖昧な答えで済ませるのも不公平だろう。それでも、口へ出す前には少し時間が必要だった。
「好きだった人が、セインと恋人になったからです」
「セインというのは、勇者ね」
「はい。香澄は、僕と同じ世界から来た女の子です。三年半くらい好きでした。でも僕は何も言えないままで、こちらへ来て一緒に旅をしている間に、香澄はセインを好きになった」
ヴァレナは椅子へ座り直しかけ、背もたれへ手を置いたまま動きを止めた。同情するような言葉が返ってくると思っていた僕へ、淡い金色の瞳が思いがけない鋭さを帯びて向けられる。
「同じ世界から来た――では、あなたも《渡界人》なのね?」
「……その言葉、知っているんですか?」
「ええ。人間の王国では《渡界者》と呼ぶそうだけれど、魔王領では《渡界人》と呼ぶわ。あなたの家がこちらの空間術と噛み合わないのも、渡界人が得た力なら腑に落ちるもの」
王都の神官たちから、渡界者は数十年に一度しか現れないと聞かされていた。そんな珍しい存在を言い表す言葉が魔王領にもあり、しかもヴァレナの口から迷いなく出てくるとは思っていなかった。
「ヴァレナさんは、渡界人に会ったことがあるんですか?」
「父が客として黒曜宮へ招いた者もいれば、私が巡察先で知り合った者もいるわ。直接言葉を交わしたのは三人よ。生まれた世界も、こちらへ来た時に得た力も、それぞれ違っていた」
「三人も……」
「渡界人が人間の王国だけへ現れるわけではないでしょう? それに魔族には、あなたたち人間より長く生きる者も多いもの」
言われてみれば当然だった。僕は人間側の記録しか知らず、目の前のヴァレナが見た目どおりの年齢なのかさえ聞いていない。
彼女はまだ何かを確かめるように僕を見ていた。
「香澄も渡界人なのね。二人は、別々にこちらへ来たの?」
「いえ。放課後の教室に一緒にいて、次に目を開けた時も同じ森でした」
「同じ場所から、同じ場所へ?」
「はい」
ヴァレナの指先が、背もたれの縁を一度だけ叩いた。それから椅子へ腰を下ろしたものの、視線は僕ではなく、何もない卓上へ向いている。
「それは、私が知っている例とは違うわ。会った三人は全員、一人でこちらへ来たの。黒曜宮に残る古い記録でも、同じ渡りで複数人が現れた例は、ほとんどなかったはずよ」
「二人だったことに、何か意味があるんですか?」
「分からないわ。ただ、渡界そのものを調べていた一人は、同じ裂け目から二人が来たなら、近くにいたから巻き込まれたとは限らない、と話していた。裂け目より先に、二人をまとめて渡した側の理由を疑うべきだと」
二人を渡した側。その言葉で、森の中で意識を取り戻した直後のことを思い出した。姿を見せない何者かから、香澄は《白陽の手》を、僕は《旅人の家》を与えられた。なぜ僕らだったのかを考える余裕もないまま、黒い牙を持つ獣に追われ、それから四か月を生き延びることだけで精一杯だった。
「僕と香澄は、誰かに一緒に選ばれたってことですか?」
「可能性の話よ。その人も証明できたわけではないし、私もあなたたちが渡るところを見たわけではないもの。ただ、偶然だと決めつける理由もないでしょう?」
「その渡界人は、今どこに?」
「分からないわ。何年も前に黒曜宮を出てから、私も会っていないの。ただ、調べた記録の一部は、城の客人用の書庫へ預けていたはずよ」
「王都の神官たちは、元の世界へ帰れた渡界者の記録は残っていないと言っていました」
「人間の王都にない記録が、世界のどこにもないとは限らないわ。もっとも、帰る方法が書かれているとは約束できない。期待だけを持たせるのは嫌なの」
今すぐ北へ向かえば確かめられる話ではない。黒曜宮がどこにあるのかも知らず、ヴァレナ自身でさえ、父のもとへ戻れるか分からない状況だ。それでも、各地の伝承を一つずつ探すつもりだった僕の旅に、人間側の地図へ載っていない手掛かりが加わった。
「話を遮ってしまったわね。その香澄は、あなたの想いを知っていたの?」
「付き合うと聞かされた日に、初めて話しました」
「それなら、彼女があなたを裏切ったわけではないのね」
「そうです。セインが奪ったわけでもありません。二人とも僕に残ってほしいとは言ってくれたけど、近くで今までどおりに笑える自信がなかったんです」
卓上に残ったパン屑を指で集める。六日前よりは落ち着いて話せたものの、香澄の名前を出せば、胸の奥にはまだ鈍い痛みが残った。
「それに、《旅人の家》は自分で行き先を選ばなければ成長しない能力でした。勇者一行では、皆の後ろについて歩いていただけだったから。一度くらい、自分が見たい場所へ行ってみようと思ったんです」
「それが、海?」
「まずは海です。その後は、各地に残る転移の伝承を調べようと思っています。元の世界へ帰る道が、本当にないのか知りたい。さっき聞いた黒曜宮の記録も、いつか確かめたいです」
「潮鏡で父と連絡がついたら、記録が無事かどうか尋ねるわ」
「いいんですか?」
「あなたは私のために、勇者へ危険を知らせるのでしょう? 私だけ助けられたままでは落ち着かないもの」
「帰りたいの?」
すぐに頷こうとして、できなかった。
家族には会いたい。日本の食べ物や風呂、電気の明かりが恋しくなる日もある。帰る方法を探すと香澄へ約束したことも、嘘ではなかった。
けれど、この世界で過ごした四か月まで、なかったことにしたいわけではない。セインたちと歩いた時間も、目の前にいるヴァレナを助けたことも、僕が選んだものだった。
「帰る道があるなら、知っておきたいです。その時に帰るかどうかは、見つけてから決めます」
「道を知ることと、その道を選ぶことは別だものね」
ヴァレナは静かに頷き、短剣の鞘へ指を添えた。
「私が会った三人も、同じ問いには違う答えを返したわ。帰ることだけを望んだ人もいれば、二度と戻らないと決めた人もいた。季節が変わるたび、答えを変えた人もね」
「私は、生まれた時から魔王の第一子だった。歩く道は周囲が用意し、外れれば国の都合を理由に戻されたわ。だから、何も決めずに海を見に行くという旅は、少し理解しにくかったの」
「今も理解できませんか?」
「いいえ。今は少しだけ羨ましいわ」
窓のない家の中で、彼女は地図の南端を見た。
「私がセラーデへ行くのは、父へ影録石を届けるため。そこから先は、返事の内容によって変わるでしょうね。父がまだ自由に動けるなら北へ戻る。既にあの男たちに囲まれているなら、味方を探して別の道を選ぶことになるわ」
「一人で?」
「そのつもりだったわ」
胸の奥の糸が、微かに冷えた。
それがヴァレナの感情なのか、僕自身が覚えた不安なのかは分からない。分からないことを理由に口を閉じれば、また誰かの決めた道を歩くことになる気がした。
「潮鏡から返事が来るまでは、ここにいればいいですよ」
ヴァレナがこちらを見る。
「傷は、もう塞がっているわ」
「内側はまだ痛むんでしょう。それに、あの追手が諦めたとも思えません。今外へ出して、また湖みたいな場所で拾うことになったら困ります」
「二度も拾われるつもりはないのだけれど」
「僕も二度拾うつもりはありません。だから、しばらく外へ出さないという話です」
言ってから、ずいぶん強引な言い方になったと気づいた。
ヴァレナは怒る代わりに、考えるように目を伏せた。やがて短剣の柄から手を離し、居間の壁へ指先を触れる。
「この家は、私が同行を続けても構わないと言っているわ」
「家より先に、ヴァレナさんの返事を聞いてるんですけど」
「私も、もう少し置いてもらえるなら助かる。潮鏡から返事が届くまで、数日はかかるでしょうから」
「では、それまでは一時同行者のままで」
「ええ。その代わり、住まわせてもらう分は働くわ。この家との仲介と、魔族領の知識なら提供できる。料理は期待しないでちょうだい」
「そこは期待してません。ただし、これ以上家を変える時は、先に僕へ相談してください」
壁の奥から、不満そうな低い音が一度鳴った。
「今、家が反対しませんでした?」
「改築ではなく、必要な整備だと言っているわ」
「どちらにしても相談してください」
今度は壁だけでなく、食器棚まで小さく鳴った。
家主の僕より、六日前に来た魔王の娘の味方をするつもりらしい。
目の前へ金色の文字が浮かんだ。
『所有者と一時同行者の目的を確認しました』
『目的地到着後も、同行状態を継続します』
『共有事項――便りを届ける』
壁の地図では、僕の青い印とヴァレナの薄紫色の印から細い光が伸び、明日の目的地で一つに重なった。
セラーデへ着けば、僕は海を見る。セインへ手紙を出し、ヴァレナは潮鏡から父親へ影録石を送る。それから《旅人の家》へ浴室を増やし、できることなら久しぶりに肩まで湯へ浸かる。
その先の行き先は、まだ決めなくていい。
「明日、海へ着くのか」
地図を見ながら呟くと、居間の魔石灯が一度だけ明るくなった。
命令でも選択肢でもない言葉へ、《旅人の家》が返事をしたのは初めてだった。
「聞こえたでしょう?」
ヴァレナが楽しそうに尋ねる。
「今のは、たまたま灯りが揺れただけかもしれません」
「融通が利かないだけでなく、素直でもないのね」
胸の奥で、薄紫色の糸が温かく緩んだ。
それが彼女の安堵なのか、僕自身のものなのか、今はまだ分からない。分からないまま、僕は明日へ続く二本の光を眺めていた。




