↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/8

第5話 魔王の娘は、僕より《旅人の家》と話が通じるらしい

 三十歩ほど先の街道には、動くものなど何も見えなかった。


 乾いた砂の上を細い風が撫で、古い水道橋の影から白い蝶が一羽飛び出してくる。鳥の声も聞こえず、獣の匂いもしない。それでも足を踏み出そうとした途端、奥歯の裏へ冷たい金属を押し当てられたような感覚が走った。


 僕は反射的に足を止め、背負っていた荷物を下ろした。


 視線を凝らしても、街道脇には背の低い草と砂地が続いているだけだ。けれど目で見えている景色とは別に、地面の下へ濁った赤色の塊が三つ沈んでいると分かった。


 理由は分からない。分からないまま近づく気にもなれず、道端の小石を拾って放り投げる。


 石が砂へ落ちた瞬間、その周囲が大きく盛り上がった。輪のように並んだ牙が地面から現れ、何もない空間へ噛みつく。少し遅れて、平たい蜥蜴に似た魔物が二頭、砂を跳ね上げながら這い出した。もう一頭は姿を隠したまま、赤い気配だけをゆっくりと移動させている。


「砂潜りか……」


 勇者一行にいた頃、ガド爺から南の乾いた土地にいると教わった魔物だった。砂へ潜って待ち伏せし、馬の脚へ食らいついて引き倒す。見つけるのは難しいが、縄張りから大きく離れて追ってくることはない。


 僕は短剣へ手を伸ばさず、水道橋の崩れた階段を使って街道の上へ回り込んだ。わざわざ戦って怪我をするより、避けられるものは避けたほうがいい。


 高いところから見下ろすと、砂潜りたちはしばらく石へ牙を立てていたが、獲物ではないと分かったらしく、一頭ずつ砂の中へ戻っていった。


 古い水道橋は、セラーデへ至る街道にある最後の大きな目印だ。《旅路の記録》によれば、ここから海沿いの町までは、あと一日歩けば着く。


 六日前までの僕なら、最初の一歩で噛みつかれていたと思う。


 ヴァレナに口づけられ、彼女の魔力を自分の保護領域へ受け入れてから、僕の身体には小さな変化が起きていた。


 最初に気づいたのは、目を覚ます前から、ヴァレナが起きているかどうか分かることだった。彼女が眠っている時は胸の奥にある薄紫色の糸が静まり、目覚めると水へ触れたような揺れが伝わってくる。傷が痛めば僕の左脇腹まで微かに疼き、魔力を使えば、糸が強く張った。


 それだけではない。夜明け前でも道の凹凸が見えるようになり、一日歩いた足の傷は翌朝になると薄く塞がっている。その代わり空腹になるのが早く、魔力の濃い場所では音のない耳鳴りに悩まされた。


 感じ取れる範囲は、今のところ五十歩ほどしかない。分かるのも魔力の濃さとおおまかな輪郭までで、相手が何を考えているか、こちらへ敵意を持っているかまでは読み取れなかった。ヴァレナの気配は深く静かな薄紫色に感じられ、魔物のものは形の崩れた濁りに近い。人間や魔道具の魔力は、それよりずっと淡かった。


 眠っている間に、自分のものではない景色を見ることもあった。


 黒い柱が並ぶ広間。床へ映る青い炎。見覚えのない小さな手が僕の袖を掴み、「姉上」と呼ぶ声。目覚めれば細かな部分は消えてしまうものの、夢にしては知らないものが多すぎた。


 どれも、あの口づけより前にはなかった変化だ。


 ヴァレナには話していない。


 彼女の身体の調子が勝手に伝わってくるなど、聞かされて気持ちのいい話ではないだろう。それに、これが一時的な魔力の残り香なのか、身体そのものが変わり始めているのか、僕にも判断できなかった。セラーデへ着くまで様子を見て、それでも続くようなら話そうと決めている。


 決めてから、既に四日経っていた。


 水道橋の上で荷物を背負い直すと、胸の奥にあった糸が急に引き絞られた。同時に左脇腹へ鋭い痛みが走り、思わず手を当てる。僕自身に傷はない。


「また何かしてるな……?」


 視界の端へ《旅路の記録》を呼び出す。地図に描かれた青い線は、明日にはセラーデへ届くところまで伸びていた。現在地を示す印の隣では、ヴァレナの薄紫色の印が家の中にいることを示している。


 湖を出てから今日まで、彼女を外へ出したことは一度もない。僕が人目のない場所で扉を開けて外へ出たあと、入り口を消し、夕方になれば数里先でまたつなぐ。ヴァレナはその間ずっと《旅人の家》に留まり、街道を歩くのは僕一人だった。


 口づけの翌日には台所まで歩けるようになっていたが、傷が完全に治ったわけではなかった。それに、角を持つ魔族を連れて人間の街道を進めば、追手より先に旅人や兵士へ見つかる可能性がある。本人も外へ出たいとは言わず、扉の内側に留まっていた。


 だからこそ、今の痛みは放っておけない。


 僕は水道橋を支える太い石柱の陰へ回った。街道から見えないことを確かめ、苔の生えた石へ手をつく。《旅人の家》を呼ぶと、金色の線が長方形を描き、見慣れた木の扉が現れる。


 取っ手へ手を掛けたところで、中からヴァレナの声が聞こえた。


「そこは、もう指二本分だけ低くしてちょうだい。ユウマは帰ると、最初に地図入れを置くでしょう? 今の高さでは肩が引っ掛かるわ」


 誰かと話している。


 追手が入り込んだのかと思い、腰の短剣を抜きかけた。しかし胸の奥にある彼女の気配は落ち着いており、家の中から敵意らしいものも感じない。


 少し待つと、木を内側から叩くような音が一度だけ鳴った。


「ええ。それでいいわ。次は洗い場の棚を――」


 僕は扉を開けた。


「誰と話してるんですか?」


「お帰りなさい、ユウマ」


 ヴァレナは驚きもせず、居間の壁へ片手を当てたまま振り返った。


 湖で着ていた黒い服は裂け、血と泥で使えなくなっていたため、今は僕の予備のシャツと旅用のズボンを貸している。袖は折っても少し長く、青みを帯びた黒髪は邪魔にならないよう首の後ろで結ばれていた。小さな角を隠す必要のない家の中では、髪を右へ流している。


 立って話せるほどには回復したものの、左脇腹を庇う姿勢はまだ残っていた。


「この家と話していたのよ」


「家と?」


「ええ」


 ヴァレナは当然のように答えたが、僕は玄関を一歩入ったところで動けなくなった。


 そこは、朝まで使っていた《旅人の家》とは別の家に見えた。


 これまで靴を脱ぐだけだった狭い玄関には、灰色の平石を敷いた一角が増えている。足を載せると、靴と裾に付いていた砂が細かな光になって床へ吸い込まれた。壁には外套と荷物を掛ける棚が作られ、僕の地図入れを置くのにちょうどいい高さまで、小さな台が張り出している。


 台所と居間の広さは変わっていないはずなのに、使っていなかった戸棚が壁へ埋まり、卓を畳めるようになったことで、二人がすれ違っても肩をぶつけない余裕ができていた。魔石灯も天井の中央から壁際へ移され、昼間に近い柔らかな光を部屋全体へ広げている。


 廊下の途中には、昨日までなかった薄い扉まであった。


「あれは何ですか?」


「洗い場よ。身体を拭くたび、台所で湯を沸かして桶を運んでいたでしょう? 水場から管を分けてもらったの。温かい湯も出るわ」


 扉を開けると、人一人が立てる程度の石張りの空間があり、壁から金属の管が伸びていた。下には排水用らしい溝がある。湯へ肩まで浸かれる広さはないが、桶と布だけで身体を洗うよりはずっと楽そうだった。


 隣の棚には、昨夜洗って干したはずの僕の服が、乾いた状態で畳まれている。


「何をしたら、一晩でこうなるんですか?」


「だから、この家へ相談したのよ」


「僕は百日以上ここで暮らしてますけど、相談に乗ってもらったことなんて一度もありませんよ」


「あなた、相談したことがあるの?」


 聞き返され、言葉に詰まった。


 家を出してほしい、水を出してほしい、扉を閉じたいと念じたことは何度もある。だが、この棚は動かせるのか、もっと暮らしやすくする方法はないかと、問いかけた覚えはなかった。能力とは命令して使うものだと思っていたからだ。


 それでも、自分の家が客の言うことだけ聞いたようで、素直に納得はできない。


 僕は居間の壁へ向き直った。


「《旅人の家》。前から、こういうことができたのか?」


 返事はなかった。壁の木目も、魔石灯の明るさも変わらない。


 ヴァレナが隣へ来て、同じ場所へ掌を重ねる。薄紫色の光が指の間から壁へ染み込み、木目に沿って細い金色の線が走った。


「この方は、今まで使わなかった機能があったのかと聞いているわ」


 コツ、と壁の奥で音が鳴った。


「あるそうよ」


「今の一回で、そこまで分かるんですか?」


「音を数えているわけではないわ。触れた魔力の返り方で、おおよその意味が分かるの。この子は言葉を持っているというより、形を変えることで意思を示すのね」


「この子……」


 自分の能力が、知らないところで呼び方まで貰っていた。


 目の前へ、遅れて半透明の文字が浮かぶ。


『《一時同行者》による居住補助機能の利用を確認しました』


『既存設備の配置、温度、清浄機能について、同行者からの提案を受け付けます』


『所有権、出入口、目的地、家屋拡張に関する権限は、所有者にのみ帰属します』


 少なくとも、勝手に家を奪われる心配はないらしい。


「どうしてヴァレナさんには話が通じるんですか?」


「高位の魔族は、自分の魔力を土地や住処へ馴染ませる術を幼い頃から教わるの。魔族の城は、石を積んだだけの建物ではないもの。長く暮らす者の魔力を覚え、扉を守り、時には部屋の形まで変えるわ」


 ヴァレナの指が壁の金色をゆっくりとなぞった。


「父の城――黒曜宮も、父の魔力で生きているような場所だった。私は第一子だから、文字を読むより先に、壁や扉の機嫌を聞く方法を教えられたのよ」


「王族の必修科目が、家との会話なんですか?」


「侵入者を最初に知るのは、そこに住む者ではなく壁でしょう? 役に立つわ。それに、幼い弟が菓子を隠した場所を探す時にも便利だったもの」


 ヴァレナはわずかに口元を緩めた。


 黒い柱の間で僕の袖を掴み、「姉上」と呼んだ小さな手を思い出す。喉まで出かかった言葉を、僕は飲み込んだ。


 夢のことまで話せば、魔力のつながりが僕の中へどれだけ入り込んでいるか、認めることになる。まだ、その覚悟はなかった。


「それで、どこまで変えたんですか?」


「空間そのものは広げていないわ。使っていなかった奥行きと家具の配置を変えただけ。洗い場と乾燥棚、それから玄関を通る時に、外から付いた魔力の痕跡を落とす機能を使えるようにしたの」


「最後のは、随分大事な機能じゃないですか」


「あの男の追跡術を解析したのでしょうね。痕跡を見分けられるなら、泥と同じように入り口で落とせないかと尋ねたら、できると答えたわ」


 棚の位置より先に、それを教えてほしかった。


 とはいえ、外を歩いて戻る僕が追跡術を付けられても、玄関で洗い落とせるなら安全は増す。勝手に家を改造されたことへの文句が、少しだけ言いにくくなった。


「もしかして、浴室も作れますか?」


 期待を込めて尋ねると、ヴァレナが壁へ同じ問いを伝えた。


 今度は床の下から、先ほどより重い音が二度返ってくる。


「駄目だそうよ」


「どうしてですか?」


「浴室は、最初の目的地へ辿り着いた時に得られる《家屋拡張》の候補だから、先に与えることはできない、と言っているわ」


「そこまで分かっているなら、僕に直接言ってくれてもいいのに……」


 家は沈黙したままだった。


「あなたの家は、融通が利かないところだけ主人に似ているわね」


「六日で随分仲良くなりましたね」


「あなたが朝から夕方まで留守にするからでしょう?」


 言い返せずにいると、ヴァレナの顔から急に血の気が引いた。壁へ触れていた手が滑り、反対の手で左脇腹を押さえる。


 同時に、僕の胸へつながった糸が強く震えた。


「座ってください」


「この程度なら平気よ」


「平気な人は、立っているだけでそんな顔をしません」


 僕は椅子を引き、返事を待たずに彼女の腕を支えた。ヴァレナは何か言いたそうに僕を見たが、抵抗せず腰を下ろす。


「外から戻ったばかりなのに、よく見ているのね」


「六日も同じ家で暮らせば分かりますよ」


 嘘ではない。全部でもなかった。


 ヴァレナは目を細めたものの、それ以上は追及しなかった。


     ◇


 昼食には、干し肉と豆を煮たスープを作った。


 新しくできた洗い場のおかげで鍋へ水を運ぶ手間は減ったが、料理そのものまで家がしてくれるわけではない。ヴァレナが棚へ相談している間に固くなったパンを薄く切り、火で炙ってスープへ添える。


「改築の相談をする時、魔力を使ったんでしょう?」


「ほんの少しよ。この家はほとんど自分の力で動いているわ。私は、どこへ力を流せば意思が届くか探っただけ」


「傷が治るまでは、その少しも控えてください」


「もう傷口は塞がっているわ」


「聖銀に焼かれた内側は、まだ痛むんですよね?」


 ヴァレナの手が止まった。


 僕が知っているはずのないことまで言ってしまったかと思ったが、彼女は脇腹へ目を落とし、包帯の上を指でなぞった。


「痛むことくらい、動きを見れば分かるものね」


「そういうことです」


 危ういところで納得してくれたらしい。


 食事を終えたあと、僕は台所の戸棚から預かっていた武器を取り出した。黒い鞘の短剣、長靴に隠していた薄い刃、それに三本の針を卓上へ並べる。


「動けるようになったら返すと約束しましたから。今なら、もう大丈夫だと思います」


 ヴァレナはすぐには手を伸ばさなかった。


「本当に返していいの?」


「返してから僕を刺すつもりなら、聞いても答えは同じでしょう?」


「それもそうね」


 彼女は短剣だけを取り、残りは卓上へ置いたままにした。鞘尻の金具を捻ると、僕が知らなかった細い空洞が開き、中から爪ほどの黒い石が出てくる。


「それは?」


「私が狙われた理由よ」


 ヴァレナが石へ魔力を流すと、卓上に黒と赤の光が広がった。大陸北部の地図らしい。文字は読めないが、北砦とリーベルを結ぶ街道の形は、勇者一行で何度も見たものと同じだった。


 赤い線が北砦を越え、王国側の村へ枝分かれしている。端には、魔王ゼルグラードのものらしい大きな印が浮かんでいた。


「父が出していない命令の記録よ」


「魔王の印があるのに?」


「印そのものは本物よ。だから問題なの。父の印と軍の伝令網を管理できる者が、命令を偽造している」


 彼女は地図の一点へ指を置いた。赤い光が揺れ、聞き取れない低い声が石から流れ始める。魔族の言葉のはずなのに、声へ込められた命令の輪郭だけが、胸の奥へ直接触れてきた。


 砦を越えろ。村を焼け。証人を残すな。


 言葉として理解できたわけではない。それでも、そんな意味であることが分かってしまう。


 僕は表情へ出さないよう、地図だけを見つめた。


「魔王軍が南へ攻めているのは、全部その偽の命令なんですか?」


「いいえ」


 ヴァレナは迷わず否定した。


「父は人間の王国と争っているし、北の要地を奪うことも命じてきたわ。あなたに、父が人間の味方だと信じてほしいわけではないの。ただ、この春は北砦より南へ軍を進めず、民間の村へ手を出さないよう命じていた。それを破り、戦を広げようとしている者がいるのよ」


 襲われた村と、埋葬された兵士たちのことを思い出す。目の前の記録が本物だとしても、それだけで魔王軍が敵でなくなるわけではない。


 だが、魔王の命令とは別に動く者がいることは、ヴァレナを追った男の存在が証明している。


「ヴァレナさんは、それを調べていたんですか?」


「父の代理として、北の軍を巡察していたの。命令と実際の動きが合わないことに気づき、伝令所からこの《影録石》を持ち出したわ。けれど、父へ直接届ける前に、あの男に追いつかれた」


「あの人は、魔王の側近なんですよね?」


「宮廷の伝令術を束ねる者よ。私が幼い頃には、魔術の教師でもあったわ」


 淡々とした声だったが、石を押さえる指先は白くなっていた。


 信頼していたのかどうか、僕には断定できない。それでも、ただの敵へ向けるより複雑なものが、その沈黙には混じっているように見えた。


「通常の伝令術を使えば、先にあの男へ内容が届く。だから私は南へ逃げ、セラーデを目指していたの。あの町には、王国にも魔王軍にも属さない古い《潮鏡》が残っているわ。海を渡る商人が使う連絡路なら、父の私印へ記録を送れる」


「星沈みの湖は、その途中だったんですね」


「ええ。聖銀を受けた時点で、月蛍砂まで辿り着かなければ助からないと分かっていたわ。ただ、湖の中で力尽きるところまでは予定していなかったけれど」


「普通はそこまで予定に入れませんよ」


 軽く返したつもりだったが、ヴァレナは笑わなかった。


「あの男たちは、影録石を取り返せないなら、私の死体を人間側の土地へ残すつもりだったのでしょう。身体に聖銀が刺さっていれば、父は人間に殺されたと考える。たとえ疑ったとしても、第一子を殺されて何もしなければ、魔王としての立場を失うわ」


「それで戦争を広げる理由になる」


「そういうことよ」


 ヴァレナは光を閉じ、黒い石を掌へ握り込んだ。


「あなたがこれを知れば、勇者たちへ知らせるため北へ戻るかもしれないと思った。だから、あの時は話さなかったの」


「今は、話しても戻らないと思ったんですか?」


「セラーデまで、あと一日なのでしょう? 町から手紙を送るほうが、あなたが十日以上の道を引き返すより早いわ。それに――」


 そこで言葉を切り、ヴァレナは僕をまっすぐ見た。


「六日間、あなたが私を売らなかったから。遅すぎるとは分かっているけれど、私も同じだけ信用しなければ不公平でしょう」


 最初から信じていたわけではなく、試されていたらしい。気分がいいとは言えなかったが、魔王の娘が人間の家へ命と証拠を預けていることを考えれば、無理もないとも思う。


「軍が動くまで、どれくらいありますか?」


「偽の命令どおりなら、早くても二十日後よ。北砦を失った直後に大軍を動かせるほど、向こうの補給にも余裕はないわ」


「なら、明日セラーデからセインへ知らせます。影録石のことと、魔王軍の中に勝手に戦いを広げようとしている人がいることを」


「私の名を出せば、あなたまで疑われるわ」


「魔王の娘を家に匿っているとは書きません。信じてもらえる範囲で、危険だけ伝えます」


 セインなら、証拠のない話でも無視はしないだろう。リシュラは情報の出所を気にするはずなので、聖銀に追跡術が仕込まれていたことと、北砦の白艾をヴァレナが知っていたことも添えたほうがいい。ガド爺なら、魔物の動きから裏を取れるかもしれない。


 仲間ではなくなっても、伝える方法はある。


「ただし、これから僕の旅へ関わる危険を知った時は、話してください。僕が戻るか進むかは、自分で決めます」


「分かったわ。約束する」


「本当に?」


「口づけの前に説明するという約束も、まだ破っていないでしょう?」


「それは、破る機会がなかっただけです」


 ヴァレナの口元へ、ようやく笑みが戻った。


「では、あなたも約束して。私の身に関わる変化があれば、隠さず話すこと」


 胸の奥にある薄紫色の糸が、僕の返事を待つように小さく震えた。


「……分かりました」


 今すぐ打ち明けられないまま答えたせいで、思ったより声が低くなった。


 自分から隠し事をするなと求めておきながら、僕は既に約束へ反している。セラーデへ入って安全を確かめたら、今度こそ話さなければならない。


 ヴァレナは何も言わなかった。ただ、僕の顔を探るように数秒見つめてから、影録石を短剣の鞘へ戻した。


     ◇


「私の話ばかりしたわね」


 武器を腰へ戻したヴァレナが、今度は壁に掛けた《旅路の記録》へ目を向けた。彼女には文字が見えないものの、リーベルから南へ伸びる線と二つの印は見えるらしい。


「あなたは、なぜ勇者一行を離れたの? 北へ進む前に抜けたということは、何か理由があったのでしょう?」


 いつか聞かれるとは思っていた。


 魔王軍の内側にある争いまで話したのだから、僕だけ曖昧な答えで済ませるのも不公平だろう。それでも、口へ出す前には少し時間が必要だった。


「好きだった人が、セインと恋人になったからです」


「セインというのは、勇者ね」


「はい。香澄は、僕と同じ世界から来た女の子です。三年半くらい好きでした。でも僕は何も言えないままで、こちらへ来て一緒に旅をしている間に、香澄はセインを好きになった」


 ヴァレナは椅子へ座り直しかけ、背もたれへ手を置いたまま動きを止めた。同情するような言葉が返ってくると思っていた僕へ、淡い金色の瞳が思いがけない鋭さを帯びて向けられる。


「同じ世界から来た――では、あなたも《渡界人》なのね?」


「……その言葉、知っているんですか?」


「ええ。人間の王国では《渡界者》と呼ぶそうだけれど、魔王領では《渡界人》と呼ぶわ。あなたの家がこちらの空間術と噛み合わないのも、渡界人が得た力なら腑に落ちるもの」


 王都の神官たちから、渡界者は数十年に一度しか現れないと聞かされていた。そんな珍しい存在を言い表す言葉が魔王領にもあり、しかもヴァレナの口から迷いなく出てくるとは思っていなかった。


「ヴァレナさんは、渡界人に会ったことがあるんですか?」


「父が客として黒曜宮へ招いた者もいれば、私が巡察先で知り合った者もいるわ。直接言葉を交わしたのは三人よ。生まれた世界も、こちらへ来た時に得た力も、それぞれ違っていた」


「三人も……」


「渡界人が人間の王国だけへ現れるわけではないでしょう? それに魔族には、あなたたち人間より長く生きる者も多いもの」


 言われてみれば当然だった。僕は人間側の記録しか知らず、目の前のヴァレナが見た目どおりの年齢なのかさえ聞いていない。


 彼女はまだ何かを確かめるように僕を見ていた。


「香澄も渡界人なのね。二人は、別々にこちらへ来たの?」


「いえ。放課後の教室に一緒にいて、次に目を開けた時も同じ森でした」


「同じ場所から、同じ場所へ?」


「はい」


 ヴァレナの指先が、背もたれの縁を一度だけ叩いた。それから椅子へ腰を下ろしたものの、視線は僕ではなく、何もない卓上へ向いている。


「それは、私が知っている例とは違うわ。会った三人は全員、一人でこちらへ来たの。黒曜宮に残る古い記録でも、同じ渡りで複数人が現れた例は、ほとんどなかったはずよ」


「二人だったことに、何か意味があるんですか?」


「分からないわ。ただ、渡界そのものを調べていた一人は、同じ裂け目から二人が来たなら、近くにいたから巻き込まれたとは限らない、と話していた。裂け目より先に、二人をまとめて渡した側の理由を疑うべきだと」


 二人を渡した側。その言葉で、森の中で意識を取り戻した直後のことを思い出した。姿を見せない何者かから、香澄は《白陽の手》を、僕は《旅人の家》を与えられた。なぜ僕らだったのかを考える余裕もないまま、黒い牙を持つ獣に追われ、それから四か月を生き延びることだけで精一杯だった。


「僕と香澄は、誰かに一緒に選ばれたってことですか?」


「可能性の話よ。その人も証明できたわけではないし、私もあなたたちが渡るところを見たわけではないもの。ただ、偶然だと決めつける理由もないでしょう?」


「その渡界人は、今どこに?」


「分からないわ。何年も前に黒曜宮を出てから、私も会っていないの。ただ、調べた記録の一部は、城の客人用の書庫へ預けていたはずよ」


「王都の神官たちは、元の世界へ帰れた渡界者の記録は残っていないと言っていました」


「人間の王都にない記録が、世界のどこにもないとは限らないわ。もっとも、帰る方法が書かれているとは約束できない。期待だけを持たせるのは嫌なの」


 今すぐ北へ向かえば確かめられる話ではない。黒曜宮がどこにあるのかも知らず、ヴァレナ自身でさえ、父のもとへ戻れるか分からない状況だ。それでも、各地の伝承を一つずつ探すつもりだった僕の旅に、人間側の地図へ載っていない手掛かりが加わった。


「話を遮ってしまったわね。その香澄は、あなたの想いを知っていたの?」


「付き合うと聞かされた日に、初めて話しました」


「それなら、彼女があなたを裏切ったわけではないのね」


「そうです。セインが奪ったわけでもありません。二人とも僕に残ってほしいとは言ってくれたけど、近くで今までどおりに笑える自信がなかったんです」


 卓上に残ったパン屑を指で集める。六日前よりは落ち着いて話せたものの、香澄の名前を出せば、胸の奥にはまだ鈍い痛みが残った。


「それに、《旅人の家》は自分で行き先を選ばなければ成長しない能力でした。勇者一行では、皆の後ろについて歩いていただけだったから。一度くらい、自分が見たい場所へ行ってみようと思ったんです」


「それが、海?」


「まずは海です。その後は、各地に残る転移の伝承を調べようと思っています。元の世界へ帰る道が、本当にないのか知りたい。さっき聞いた黒曜宮の記録も、いつか確かめたいです」


「潮鏡で父と連絡がついたら、記録が無事かどうか尋ねるわ」


「いいんですか?」


「あなたは私のために、勇者へ危険を知らせるのでしょう? 私だけ助けられたままでは落ち着かないもの」


「帰りたいの?」


 すぐに頷こうとして、できなかった。


 家族には会いたい。日本の食べ物や風呂、電気の明かりが恋しくなる日もある。帰る方法を探すと香澄へ約束したことも、嘘ではなかった。


 けれど、この世界で過ごした四か月まで、なかったことにしたいわけではない。セインたちと歩いた時間も、目の前にいるヴァレナを助けたことも、僕が選んだものだった。


「帰る道があるなら、知っておきたいです。その時に帰るかどうかは、見つけてから決めます」


「道を知ることと、その道を選ぶことは別だものね」


 ヴァレナは静かに頷き、短剣の鞘へ指を添えた。


「私が会った三人も、同じ問いには違う答えを返したわ。帰ることだけを望んだ人もいれば、二度と戻らないと決めた人もいた。季節が変わるたび、答えを変えた人もね」


「私は、生まれた時から魔王の第一子だった。歩く道は周囲が用意し、外れれば国の都合を理由に戻されたわ。だから、何も決めずに海を見に行くという旅は、少し理解しにくかったの」


「今も理解できませんか?」


「いいえ。今は少しだけ羨ましいわ」


 窓のない家の中で、彼女は地図の南端を見た。


「私がセラーデへ行くのは、父へ影録石を届けるため。そこから先は、返事の内容によって変わるでしょうね。父がまだ自由に動けるなら北へ戻る。既にあの男たちに囲まれているなら、味方を探して別の道を選ぶことになるわ」


「一人で?」


「そのつもりだったわ」


 胸の奥の糸が、微かに冷えた。


 それがヴァレナの感情なのか、僕自身が覚えた不安なのかは分からない。分からないことを理由に口を閉じれば、また誰かの決めた道を歩くことになる気がした。


「潮鏡から返事が来るまでは、ここにいればいいですよ」


 ヴァレナがこちらを見る。


「傷は、もう塞がっているわ」


「内側はまだ痛むんでしょう。それに、あの追手が諦めたとも思えません。今外へ出して、また湖みたいな場所で拾うことになったら困ります」


「二度も拾われるつもりはないのだけれど」


「僕も二度拾うつもりはありません。だから、しばらく外へ出さないという話です」


 言ってから、ずいぶん強引な言い方になったと気づいた。


 ヴァレナは怒る代わりに、考えるように目を伏せた。やがて短剣の柄から手を離し、居間の壁へ指先を触れる。


「この家は、私が同行を続けても構わないと言っているわ」


「家より先に、ヴァレナさんの返事を聞いてるんですけど」


「私も、もう少し置いてもらえるなら助かる。潮鏡から返事が届くまで、数日はかかるでしょうから」


「では、それまでは一時同行者のままで」


「ええ。その代わり、住まわせてもらう分は働くわ。この家との仲介と、魔族領の知識なら提供できる。料理は期待しないでちょうだい」


「そこは期待してません。ただし、これ以上家を変える時は、先に僕へ相談してください」


 壁の奥から、不満そうな低い音が一度鳴った。


「今、家が反対しませんでした?」


「改築ではなく、必要な整備だと言っているわ」


「どちらにしても相談してください」


 今度は壁だけでなく、食器棚まで小さく鳴った。


 家主の僕より、六日前に来た魔王の娘の味方をするつもりらしい。


 目の前へ金色の文字が浮かんだ。


『所有者と一時同行者の目的を確認しました』


目的地セラーデ到着後も、同行状態を継続します』


『共有事項――便りを届ける』


 壁の地図では、僕の青い印とヴァレナの薄紫色の印から細い光が伸び、明日の目的地で一つに重なった。


 セラーデへ着けば、僕は海を見る。セインへ手紙を出し、ヴァレナは潮鏡から父親へ影録石を送る。それから《旅人の家》へ浴室を増やし、できることなら久しぶりに肩まで湯へ浸かる。


 その先の行き先は、まだ決めなくていい。


「明日、海へ着くのか」


 地図を見ながら呟くと、居間の魔石灯が一度だけ明るくなった。


 命令でも選択肢でもない言葉へ、《旅人の家》が返事をしたのは初めてだった。


「聞こえたでしょう?」


 ヴァレナが楽しそうに尋ねる。


「今のは、たまたま灯りが揺れただけかもしれません」


「融通が利かないだけでなく、素直でもないのね」


 胸の奥で、薄紫色の糸が温かく緩んだ。


 それが彼女の安堵なのか、僕自身のものなのか、今はまだ分からない。分からないまま、僕は明日へ続く二本の光を眺めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。