第4話 悠真がいない帰り道は、少しだけ遠い
悠真が南門を出ていった翌朝、私は城塞都市リーベルの鐘で目を覚ました。
低く響く二度目の鐘は、日の出と城門の開門を知らせるものだ。日本にいた頃なら目覚まし時計を止めて、あと五分だけと布団をかぶっていた時間なのに、今では鐘の数を聞き分けて起きるようになっていた。
薄い毛布を押しのけ、枕元の石壁へ目を向ける。昨日までなら、そこには金色の縁取りをした木の扉があった。開けば悠真の《旅人の家》へ続き、冷たい砦の一室から、明るい台所や柔らかな寝台へ帰ることができた。
今朝あるのは、灰色の石を積んだ壁だけだ。
反射的に首元へ触れた指が、鎖も銅色の鍵もないことを確かめる。自分で返したのだから当然なのに、胸元が軽いことには、まだ身体のほうが慣れていなかった。
「カスミさん、起きていますか?」
扉の外から聞こえたのは、トルクの声だった。返事をすると、少し間を置いてから扉が細く開く。
「すみません。薬箱は横向きに積んでも平気でしょうか。どうしても荷台の隙間へ入らなくて」
「駄目。瓶の栓が緩んだら、着く頃には薬じゃなくて匂いだけになってるよ」
「やっぱりですか……」
十五歳の従騎士は、まだ寝癖の残る赤金色の髪をしょんぼりさせた。肩からは巻いた天幕を二つ提げ、両腕には鍋と桶を抱えている。セインの剣や鎧の手入れから馬の世話まで引き受ける働き者だけれど、一度に全部やろうとして身動きが取れなくなるところがある。
私は上着を羽織り、薬箱だけ受け取って一緒に中庭へ下りた。
昨夜まで何もなかった石畳には、出発用の荷物が小山のように積まれていた。六人分の寝具と着替え、天幕、食糧、調理道具、水桶、薬、魔術の触媒、それに武器の手入れ道具。悠真の家では戸棚や物置へ収まっていたものが、外へ出しただけで馬一頭より大きく見える。
「じゃから、重い袋を上へ載せるなと言うておるじゃろう。馬の背骨を折る気か」
荷物の前にしゃがんだガド爺が、白い髭を揺らして唸った。五十歳を過ぎても私たちの誰より太い腕で、トルクが二人がかりで運んだ穀物袋を軽々と下ろす。北の戦場を長く歩いてきた槍使いは、敵の間合いだけでなく、荷崩れしない結び目や雨の匂いにも詳しい。
「申し訳ありません。ですが、下にはリシュラさんの箱が」
「私の触媒箱を穀物の下へ置くという発想から、まず改めてちょうだい」
濃紺の外套をきっちり留めたリシュラが、羊皮紙から顔を上げずに言った。彼女の足元には、同じ大きさの黒い箱が三つ、角まで揃えて並べてある。王都の魔術院から勇者一行へ派遣された魔術師で、術式も荷造りも、線が半本ずれるだけで眉間に皺が寄る人だ。
「食糧は燻製肉と乾燥豆を中心に八日分。生の野菜は今日中に使う分だけにしたわ。全量へ保存術を掛ければ日持ちはするけれど、魔石を二十個近く消費するもの。狼の群れを二度焼ける量を、萎びた葉物のためには使えないでしょう?」
「葉物にも栄養はあるんだけど」
「だから今日中に食べるのよ」
返す言葉まで無駄がない。
この世界で一般に魔術と呼ばれるものは、リシュラのように術式を学び、自分や魔石に蓄えた魔力を決められた形へ変えて使う。火を点けるだけなら小さな魔道具でもできるけれど、広い場所の温度を何日も保つには、それに見合うだけの燃料が要る。
触れれば傷を治せる私の《白陽の手》や、魔石も術式もなしに家を作る悠真の力は、同じ魔法のように見えて仕組みが違うらしい。王都の神官たちが何度調べても由来を突き止められず、私たちがこの世界を渡った時に得た力だから、まとめて《渡界特典》と呼ばれていた。
「お待たせ。馬屋の親父さん、ようやく折れたよ」
明るい声とともに、小柄なノノが二頭の荷馬を引いて門から入ってきた。短く切った栗色の髪には藁が一本絡み、右の袖にはいつの間にか林檎が三つ入っている。年齢を聞くたび答えが変わる斥候は、人より先に道の異変を見つけるのと、人が隠している酒や食べ物を見つけるのが同じくらい得意だった。
「二頭とも借りられたの?」
「北砦を取り戻した勇者様ご一行なら半額でいいって。ただし、東の宿駅で別の馬に替えてくれってさ。こっちの葦毛は、重い荷を載せると人の足を踏むから気をつけて」
「どういう交渉をしたら、そんな大事なことが最後に出てくるんじゃ」
「最初に言ったら、ガド爺が借りないでしょ?」
ノノは悪びれず、袖から出した林檎を葦毛の鼻先へ差し出した。荷馬は途端におとなしくなり、ガド爺は額を押さえる。二人のやり取りを見て、トルクが笑いそうになった口元を引き締めた。
そこへ、書類筒を抱えたセインが戻ってきた。赤茶色の髪は既に整えられ、腰には白い鞘の聖剣がある。北部貴族の家に生まれ、十八歳で聖剣に選ばれた勇者は、王都の式典なら銀糸の礼装を着せられるけれど、旅支度の今は使い込んだ革鎧姿のほうがずっと自然に見えた。
「南門の通行証と、次の宿駅までの馬札を受け取ってきた。荷はこれで全部か?」
返事の代わりに、皆の視線が中庭の小山へ集まった。
セインは何も言わず外套を脱ぎ、いちばん大きな天幕を背負った。続けて私の手から薬箱まで取ろうとするので、身体を半歩引いて避ける。
「これは私が持つよ。治療する時、どこにあるか分からないと困るから」
「分かった。だが重ければすぐ言ってくれ」
「一昨日、同じことを三回言って叱られたの、もう忘れた?」
「日が変わったから、数え直していいのかと思った」
真顔で答えられ、怒るより先に笑ってしまった。恋人になってまだ一週間も経っていなくても、セインはこういうところで勇者らしくない。けれど、私が笑うのを待ってから天幕の紐を締め直した横顔には、北砦で倒れた私を抱えて走った時と同じ頑固さがあった。
「痴話喧嘩は歩きながらにせい。王都までの街道は逃げんが、雨雲は待ってくれんぞ」
ガド爺に急かされ、私たちはようやく荷物を二頭へ振り分けた。
南門へ向かう途中、何台もの補給馬車とすれ違った。どの荷台にも矢束や麦袋が山積みになり、側面には王国軍の青い紋章が描かれている。行き先は、私たちが数日前まで戦っていた北砦だ。
リーベルは、この国の北を守るために作られた城塞都市だった。古い内壁の外へ新しい壁を継ぎ足してきたせいで、通りはいくつもの門に分断されている。北側へ行くほど石は黒く、魔物の爪痕や、魔術の熱で溶けた跡が残っていた。
その先の街道を押さえる北砦が魔王軍に奪われれば、王国軍は山沿いの村へ食糧も兵も送れなくなる。私たちが命懸けで取り戻したのは建物ひとつではなく、こうして馬車が北へ進むための道だったのだと、列を作る車輪の音を聞いてようやく実感した。
「勇者様!」
沿道から呼ばれ、セインが足を止めた。籠を抱いた女の人が深く頭を下げ、その後ろで七、八歳くらいの男の子がこちらを見上げている。
「北砦にいる夫から、補給隊が着いたと便りが来ました。本当に、ありがとうございます」
「砦を守った兵たちの働きです。俺たちは門を開ける手伝いをしただけですから」
セインはそう答え、子どもと目の高さが近くなるように膝を折った。聖剣の勇者は、この国では魔王を討つ者であると同時に、人々の前へ希望を見せる役目も負っている。本人は立派な言葉を並べるより、壊れた荷車を押すほうが得意なのに、街では放っておいても人が集まった。
女の人は私にも頭を下げた。北砦で負傷した兵を治した《異邦の癒し手》だと、誰かから聞いたらしい。感謝されるのは嬉しい。それでも、自分の知らないところで呼び名だけが広がっていくことには、少し落ち着かなかった。
私と悠真がこの世界へ落ちてきたのは、四か月前だ。数十年に一度、別の世界から人が迷い込むことはあるらしく、王国と大神殿には《渡界者》を保護する決まりが残っていた。おかげで私たちは牢へ入れられず、言葉やこの国の暮らしを教えてもらえた。その一方で、何ができるのか、誰のために使うのかを知りたがる人が絶えないことも、四か月でよく分かっていた。
「この調子だと昼まで門を出られないよ。続きは凱旋式でまとめてお願い」
先に進んでいたノノが、人垣の向こうから手を振った。王侯貴族にも物怖じしない声でそう言えるのは、たぶん一行の中でノノだけだ。
セインは女の人へもう一度頭を下げ、私たちは南門を抜けた。
城壁の外で街道は二つに分かれている。幅の広い道を東へ進めば王都へ、白い花の咲く丘を越えて南西へ折れれば、海沿いの町セラーデへ至る。
昨日、悠真が選んだのは南西の道だった。
私は道標の前でほんの少しだけ足を緩めた。乾いた轍が丘の向こうへ消えており、もう後ろ姿が見えるはずもない。それでも、最後に振り返らなかった悠真の背中を思い出す。
セインは何も言わず、東へ向いたまま待っていた。先を歩くガド爺が槍の石突きで道を叩き、その音を合図にしたように、私は薬箱を持ち直した。
「行こう。王都へ」
自分から言って、東の街道へ足を踏み出した。
◇
王都へ続く街道には、一定の間隔で腰ほどの高さの石柱が立っている。表面を走る青い筋は、大気中の魔力を少しずつ溜め、弱い魔物が道へ近づくのを防ぐための術式だ。北砦が塞がれていた間も宿駅とリーベルを結ぶ道だけは保たれていたが、傷んだ石柱までは直す手が回らなかったらしい。
「右の二本は死んでる。次の丘まで、道の守りはないよ」
昼を過ぎた頃、先行していたノノが、ひび割れた石柱の上から身軽に飛び下りた。いつもなら冗談のひとつも添えるのに、今は鼻先を東へ向け、目を細めている。
「血の匂いがする。馬が一頭、それと人がひとり。姿はまだ見えないけど、鴉が集まり始めてる」
「魔物の痕跡は?」
セインが尋ねると、ノノは泥の付いた指を三本立てた。
「瘴狼が三頭以上。襲われてから、そう時間は経ってない」
ガド爺が槍を手に取り、リシュラは外套の留め具へ挿していた短い杖を抜いた。さっきまで荷物のことで言い争っていた二人が、合図もなく道の左右へ分かれる。
「トルク、馬を石柱の内側へ。カスミはわしの後ろじゃ」
「でも、怪我人がいるなら――」
「生きておれば、おぬしの出番は必ず来る。先に死体を増やすでない」
厳しい言い方だったが、振り返ったガド爺は、私がついてくるのを確かめるまで進まなかった。反論を飲み込み、薬箱の留め金だけを外して後に続く。
丘を越えると、王国の継走馬が道端に倒れていた。脚へ手綱を絡ませ、苦しそうに鼻を鳴らしている。その数歩先では、灰色の制服を着た伝令兵が背を丸め、三頭の獣に囲まれていた。
狼に似ているけれど、黒い牙は口に収まらないほど長く、肩からは煙のようなものが立ち上っている。私と悠真がこちらへ来た日に追い回された獣も、同じ牙をしていた。
いちばん手前の瘴狼が跳んだ。
草むらから飛んできた矢が、獣の前脚を地面へ縫い止める。姿を見失っていたノノは、いつの間にか街道脇の木へ上がっていた。
「一頭、止めた!」
残る二頭が声へ顔を向けた瞬間、セインが距離を詰める。鞘から抜かれた聖剣は陽光を受けたのではなく、それ自体が白く輝いた。刃が瘴狼の肩口を斬り抜けると、傷から噴いた黒い靄が火に触れた霜のように消えていく。
聖剣が勇者を選ぶのは、鋭いからだけではない。魔物を生む瘴気を断ち、魔王の強い魔力へ対抗できる者を、剣そのものが選ぶのだと大神殿では教えられた。
三頭目がセインの死角へ回ろうとしたところへ、ガド爺の槍が滑り込んだ。穂先で喉を狙うのではなく、長い柄で前脚を払い、獣の身体を街道の中央へ転がす。そこには既に、リシュラが杖先で描いた赤い術式が浮かんでいた。
「伏せなさい」
低い声の直後、術式から細い炎が噴き上がる。瘴狼だけを包んだ火は、私の頬へ熱が届く前に消え、焦げた草の匂いを残した。
木の上でもう一度弦が鳴り、前脚を縫い止められていた一頭の喉へ、ノノの二本目の矢が突き立った。
「道は空いた! トルク、盾を持って来い!」
ガド爺の声に、荷馬を繋ぎ終えたトルクが駆けてくる。伝令兵と獣の間へ盾を立てたのを確認し、私はその陰へ滑り込んだ。
伝令兵の右脇腹は制服ごと裂け、流れた血が土を黒く濡らしていた。息は浅く速い。傷の縁から鎖骨へ向かって細い黒筋が伸びているのは、牙にまとわりついた瘴気が身体へ入り込んだ印だった。
「聞こえますか? 今から傷を治します。少し熱くなりますからね」
返事はなかった。私は傷の上へ両手を重ね、《白陽の手》を使う。
掌から溢れた白金色の光が、破れた服を透かして身体へ沈んでいく。どこが傷つき、何が治るのを邪魔しているのか、触れている間だけは指先で形をなぞるように分かった。裂けた血管を繋ぎ、潰れかけた肺を戻し、入り込んだ瘴気を一筋ずつほどいていく。
代わりに、身体の芯から急に熱が奪われた。これを神官たちは魔力の消耗と呼ぶけれど、私には空腹と寝不足と発熱が一度に来たように感じられる。
黒い筋が消え、呼吸の音が深くなったところで、私は自分から手を離した。
「命に関わる傷と瘴気は治しました。失った血までは戻らないので、しばらく動かさないでください。左手の指も折れていますが、そちらは添え木で大丈夫です」
私の手首へ伸びかけていたセインの手が、途中で止まった。どうやら、また倒れるまで治し続けたら止めるつもりだったらしい。
「何?」
「いや。今日一度目を言わずに済んだ」
「ちゃんと加減できるよ」
「なら、その調子で頼む」
微笑んだセインの後ろから、ガド爺が私の顎を持ち上げた。瞼を覗かれ、手首で脈を取られる。
「ふらつきは?」
「少し寒いだけ」
「それをふらつく前と言うんじゃ。干し果物を食って座っておれ」
治療を受けた人より先に私が毛布で包まれそうになり、慌てて断った。ガド爺は口が悪く、怪我をしても痛くないと言い張るくせに、仲間の顔色が変わると誰より早く気づく。
トルクは私が頼む前に清潔な布と添え木を出し、伝令兵の左手を固定し始めた。結び目は少し不格好だったけれど、指先の色を確かめて締めすぎないようにしている。四か月前は血を見ただけで青くなっていた少年が、今は教えた手順を一つずつ声に出して確認していた。
「この人、王都の急使ね」
ノノが倒れた馬の鞍から、真鍮の筒を外して戻ってきた。蓋には王国の剣印が刻まれ、その下へ白い封蝋が重ねられている。
「しかも、宛名はセイン。王都から私たちを追いかけてきたみたい」
伝令兵が薄く目を開け、筒を探すように腕を動かした。セインが膝をつき、自分の名を告げると、力の抜けた顔に安堵が浮かぶ。
「勇者……殿。王命と、大神殿からの通達です。北砦の任が終わり次第、王都へ……」
「確かに受け取った。もう話さなくていい」
伝令兵は小さく頷き、そのまま目を閉じた。脈は安定している。ただ、このまま一人で馬へ乗せることはできそうになかった。
「瘴狼に、魔族は……」
途切れた言葉を聞き、ガド爺が獣の死骸のそばへしゃがみ込む。牙の根元と前脚を調べてから、首を横に振った。
「命令具も首輪の跡もない。足跡もこやつらだけじゃ。魔族に放たれた群れではなく、北から流れてきた野良じゃろう」
「魔王軍が使う瘴狼も、見た目は同じですよね。野良だと、どうして分かるんですか?」
トルクが聞き返すと、ガド爺は槍の石突きで瘴狼の牙を示した。
「軍に飼われた個体なら、首輪か命令具の跡が残る。進退を指示した者の足跡もな。魔族と魔物を一緒くたにしておると、そういう痕跡を見落とすぞ」
この世界へ来たばかりの頃、私は響きの似た二つの言葉を、ほとんど同じ意味だと思っていた。けれど魔族は言葉を話し、北に国と社会を持つ種族で、魔物は瘴気に呑まれて人も獣も見境なく襲うものだ。魔王軍が魔物を戦に使うせいで、襲われた人たちがどちらも「魔族の仕業」と呼ぶことは珍しくなかった。
「北砦の封鎖陣が壊れていた間に、山から南へ下りた個体でしょうね」
リシュラはひび割れた石柱の術式を確かめ、鞄から青い石片を一つ取り出した。
「この街道石も直しておくわ。応急処置にしかならないけれど、次の旅人が同じ目に遭う確率は下げられる」
効率に厳しい彼女が、頼まれてもいない修理へ魔石を使う。そのことを指摘すれば、きっと必要経費だと言うのだろう。
私たちは伝令兵を一頭の荷馬へ乗せ、その分の荷物を分けて背負うことにした。セインが触媒箱を一つ、ガド爺が食糧袋を二つ持ち、ノノは伝令兵の馬をなだめて引く。私も軽い毛布を持とうとしたけれど、トルクが先に抱え込んだ。
「これは僕の仕事です。カスミさんは薬箱をお願いします」
そう言う背中が荷物に埋もれかけていたので、毛布の半分だけ取り返した。
悠真がいれば、壁か木へ扉を作り、伝令兵を寝台へ運んで休ませることができただろう。荷物を載せ替える必要も、雨が来る前に宿駅へ着けるか心配する必要もない。
けれど、その言葉を口に出しても荷は軽くならない。私たちはそれぞれ持てる分を持ち、少し遅くなった列で東へ進んだ。
◇
夕方になる前に、予報どおり雨が降り始めた。
救助で時間を使ったため、目指していた宿駅までは届かない。ガド爺は街道から少し入った場所に古い守り石を見つけ、そこで夜を越すと決めた。
円形に並ぶ七本の石は、旅人が野営するため王国の街道沿いへ置かれたものだ。中央で火を焚けば術式が働き、瘴狼のような下級の魔物を遠ざける。ただし、強い魔物や山賊にまで効くわけではないので、見張りは必要になる。
ノノが雨の弱いうちに枯れ枝を集め、ガド爺とトルクが天幕を張る。セインは伝令兵を濡らさないよう外套で覆ってから、天幕の周囲へ水を逃がす溝を掘った。私は豆と干し肉を鍋へ入れ、リシュラは火の術式を守り石へ繋いでいく。
六人が別々に動いても、寝床と夕食の支度には一時間近くかかった。誰かが不平を言ったわけではない。ただ、悠真がいつも開いていた一枚の扉は、これだけの手間を向こう側へ置いてくれていたのだと分かった。
「カスミさん、器はこれで全部です」
トルクが敷布の上へ木の器を並べる。ひとつ、ふたつと無意識に数え、七つ目で彼の指が止まった。
私たちは昨日まで七人だった。
トルクが器を戻そうとすると、ノノがそのひとつを取り、眠っている伝令兵の枕元へ置いた。
「ちょうどいいよ。起きたら、この人もお腹が減るでしょ」
「……はい。多めによそっておきます」
鍋の中身は、悠真が作っていた料理よりずっと塩辛かった。乾燥豆の戻し方が足りず、噛むたび少し芯が残る。それでも雨の中で食べる温かいものはありがたく、ガド爺は二杯、ノノは三杯おかわりした。
「食糧は八日分だと言ったでしょう?」
「今日いっぱいで傷む野菜を残すよりいいって、リシュラが言ったんじゃない」
「豆まで今日中に食べ尽くせとは言っていないわ」
リシュラが配給表へ書き込み、ノノが鍋を抱えたまま逃げる。追いかけようと立ち上がったリシュラの裾をガド爺が踏み、火の周りに笑い声が広がった。
伝令兵が目を覚ましたのは、その少し後だった。薄めたスープを飲ませてから、セインは本人の見ている前で真鍮の筒を開いた。
中に入っていた書状には、赤い王印と白い大神殿印が並んでいた。王国の政務と大神殿の決定が同じ紙に記されることは少ないらしく、封を確かめたリシュラの眉がわずかに上がる。
セインは火のそばへ座り、雨に濡らさないよう紙を広げた。
「北砦における任務を完了、または継続不能と判断した時点で、勇者一行は速やかに王都へ帰還し、国王と大神殿へ報告すること」
「そこまでは予定どおりじゃな」
ガド爺が髭の水滴を払いながら言う。セインは頷いたものの、その先を読んだところで口を閉じた。
「何て書いてあるの?」
「《渡界者》カスミ・ミズノ、ユウマ・サハラの両名を同行させ、大神殿における再鑑定を受けさせること。以後の処遇と任については、王都で協議する――だそうだ」
焚き火で湿った枝が弾けた。
「再鑑定って、私たちの力をもう一度調べるということ?」
「おそらくはね。ただ、能力名も性質も最初の鑑定で記録しているわ。なぜ今になって二人揃ってなのかは、この書状だけでは分からない」
リシュラは書面へ目を走らせ、末尾にある日付を指でなぞった。
「これは北砦の結果が出る前に王都を発っている。勝利を聞いて、急に二人の力が欲しくなったわけではなさそうよ」
「でも、ユウマさんはもう……」
トルクが南の方角へ目を向けた。天幕の外は雨で閉ざされ、守り石の淡い青だけが滲んで見える。
「王命に背いたことになるんですか?」
「ならんよ」
ガド爺が即座に答えた。
「王に仕える誓いを立てたのはセインじゃ。カスミもユウマも、この国の民ですらない。客人に命令口調で頼み事を書いたのは、王都の役人の都合にすぎん」
「言い方は乱暴だけれど、法の上ではそのとおりよ」
リシュラが珍しくガド爺を訂正せずに続ける。
「昔、渡界者を領主が無理に戦わせて大きな争いになったことがあるそうなの。それ以来、王国と大神殿は、本人が臣従を誓わない限り《渡界者》を客人として扱うと定めているわ。保護を与える代わりに協力を求めることはできても、行き先までは縛れない」
保護と監視は、ときどき同じ顔をしている。王都で何度も質問を受けた時には息苦しく思ったけれど、その古い決まりがあったから、私たちは自分で勇者一行へ加わることを選べたのだろう。
「ユウマは、俺の命令で南方に残る転移伝承を調べていることにする」
セインが書状を巻き直しながら、静かに言った。
「それなら旅の目的は王命にも反しない。王都へは俺が説明する」
「そんな命令、いつ出したんじゃ?」
「ユウマが出発する前の夜だ。本人が帰還の手掛かりを探すと言っていたから、後から俺の命令だったことにした」
ガド爺は片方の眉を上げ、ノノは口笛を吹いた。トルクだけは、敬愛する勇者が平然と嘘をついたことをどう受け止めればいいのか分からないらしく、開いた口を閉じられずにいる。
「セインが責任を負う必要はないよ」
「俺は勇者で、ユウマは俺の友だ。こういう時に名前を使わず、いつ使う?」
彼は私を見ず、書類筒の蓋を締めた。格好をつけているようにも聞こえるのに、耳が少し赤い。悠真が出発前に「セインなら安心だ」と言った理由は、きっとこんなところにもあるのだと思った。
「ひとつだけ、確かめたい」
私は膝の上で両手を組んだ。治療で冷えていた指先には、焚き火の熱が戻り始めている。
「再鑑定が、日本へ帰る方法に関係していたら、悠真にも知らせたい。帰る手掛かりを見つけた時は必ず教えるって、出発前に約束したから」
「もちろんだ」
セインが答え、リシュラも頷いた。
「王都へ着けば、命令を出した神官へ理由を聞けるわ。帰還に関わるなら、情報を整理して送るべきね」
「関係なかったら?」とノノが尋ねる。
「居場所は知らないと答える。実際、海へ行くことしか聞いていないもの」
南の海がどれほど広いのか、私はまだ知らない。けれど、悠真が初めて自分で選んだ道を、王都の都合だけで引き戻したくはなかった。
「では、一行の答えは決まったな」
セインが皆を見回す。
「俺たちは予定どおり王都へ戻る。再鑑定の目的を確かめ、ユウマへ知らせるべきことだけを知らせる。南での行き先を推測で報告する者はいない。異論は?」
「ないわ。ただし報告書の文面は、私に確認させてちょうだい。あなたの嘘は正直すぎて、穴が多そうだもの」
「わしは構わん。海を見に行った若者一人も見逃せぬようなら、魔王と戦う前に王国のほうが息切れするじゃろう」
「ボクは海の場所なんて忘れたよ。たしか西だったかな?」
ノノは東を指差し、トルクが慌ててその手を下げさせた。
「僕も誰にも言いません。でも陛下の前で聞かれたら、上手く黙っていられるか……」
「なら、余計なことを尋ねられぬよう、わしの後ろで口を閉じておれ。それも従騎士の修行じゃ」
ガド爺に言われ、トルクはひどく真剣な顔で頷いた。たぶん王都へ着くまで、黙る練習まで始めるのだろう。
話がまとまったところで、リシュラが見張りの順番を決めた。治療をした私は最初から外されており、抗議する前にセインとガド爺から同時に睨まれる。仕方なく諦め、ノノと一緒に奥の天幕へ入った。
敷布越しの地面は固く、少し傾いていた。雨粒は頭上の布を細かく叩き、風が吹くたび、きつく張った縄が低く鳴る。《旅人の家》では扉を閉めれば外の嵐さえ遠くなったから、こんなに賑やかな夜は久しぶりだった。
眠る前に、私は荷物から紙と炭筆を取り出した。次の宿駅には王都と南部を結ぶ飛脚所がある。セラーデへ送っておけば、本人へ届く保証はなくても、勇者の証文を持つ旅人を宿の人が覚えているかもしれない。
悠真へ、と書いたところで、炭筆が止まる。
謝りたいことなら、いくつもあった。気づかなかったこと。告白されるまで、そばにいてくれるのが当たり前だと思っていたこと。けれど悠真は、謝られたら困ると言った。なら、私が書くべきなのは、自分の気持ちを軽くするための言葉ではない。
『私たちは王都へ向かっています。大神殿から、二人の再鑑定をするという連絡が来ました。理由はまだ分かりません。帰る方法に関係があるか、私が確かめてから必ず知らせます。今すぐ戻る必要はありません』
そこでいったん区切り、少し迷ってから一行だけ書き足した。
『追伸。今日は、倒れる前にちゃんと治療をやめました』
読み返すと、報告ばかりで手紙らしくない。それでも今は、これでいい気がした。
紙を丁寧に折り、宛名へセラーデの名を添える。胸元に鍵はもうなかったけれど、離れた相手へ言葉を届ける道までなくなったわけではない。
王都までの帰り道は、来た時より少し長くなる。
私は雨音を聞きながら目を閉じ、明日は自分が持つ荷物を、もう一度頭の中で数え直した。




