第3話 魔王の娘に、いきなり口づけされた
『《旅人の家》は、外部からの境界干渉に抵抗しています』
目の前に浮かんだ赤い文字が細かく揺れ、その周囲へ金色の光が幾筋も走った。
ヴァレナの言葉を聞くより先に、僕は湖畔へつないだ入り口を消そうと念じていた。いつもなら扉は跡形もなく消えるはずなのに、今は玄関の向こうから強く押さえつけられているようで、能力が応じない。
『所有者の保護を優先します』
『外部干渉中につき、入り口の接続を解除できません』
「解除できないって……」
玄関の扉が、取っ手へ誰も触れていないのに、内側へ押し込まれるように軋んだ。
木目に沿って淡い金色の線が浮かび、扉の外周を素早く巡っていく。押し入ろうとする力を、《旅人の家》がどうにか押し返しているらしい。
この家を使い始めて百日以上になるが、中にいて外から圧力を感じたのは初めてだった。雨も風も魔物の咆哮も、扉を閉じればすべて途切れた。砦のそばへ大岩が落ちた夜でさえ、食器棚の皿一枚揺れなかった家が、今は呼吸を堪えるように低く軋んでいる。
「この空間の主よ。中で私の声を聞いているのでしょう?」
扉越しに聞こえた男の声は、先ほどと変わらず穏やかだった。
僕は思わずヴァレナを見る。彼女は枕へ沈んだまま、答えるなと伝えるように小さく首を振った。
男は僕の名前を知らない。それどころか、扉が現れた時にはヴァレナを抱えて家へ入っていたので、僕の姿さえ満足に見ていないはずだった。それなのに、この空間に主人がいて、今も声を聞いていると確信している。
「あなたに危害を加えるつもりはありません。そちらには、主人と招かれた客を分ける規則があるのでしょう? ヴァレナ殿下への招きを解き、こちらへ出していただければ、それで済みます」
首筋に残っていた汗が、急に冷たくなった。
客としての許可を取り消せば、その相手を入り口の外へ戻せる。その仕組みまで、男には見えているらしい。
『境界への侵入術式を拒絶しました』
新しい文字が浮かんだ直後、固い物で扉を引っ掻くような音が響いた。金色の線が一斉に明るくなり、魔石灯の光が玄関のほうへ細く引き伸ばされる。
ヴァレナが包帯の上から脇腹を押さえた。顔色は悪いままだが、金色の瞳だけは扉をまっすぐ見据えている。
「あの男は、言葉だけで諦めるような人ではないわ」
「分かっています」
僕は寝台脇の椅子から立ち、台所の戸棚へ向かった。預かっていた武器のうち、黒い鞘の短剣だけを取り出して腰へ差す。使い方はガド爺から習ったものの、人を相手にした経験などない。それでも、何も持たずに扉が破られるのを待つ気にはなれなかった。
「少し借ります」
「好きにして。ただし、あの男を相手に刃の長さはあまり意味を持たないわ」
「安心できるかどうかの問題です」
僕が玄関と寝室の間へ立つと、外の男が小さく笑った。
「お返事がないということは、殿下のお話を信じておられるのですね。事情をご存じない方を巻き込むのは、私としても本意ではないのですが」
「刺した本人が迎えを名乗っている時点で、あまり信用できませんよ」
口を開くつもりはなかった。それでも、こちらの様子を一方的に探られたまま黙っているより、少しでも話を引き延ばしたかった。
ヴァレナが僕を見たが、止めはしなかった。
「声が届くなら話は早いです。本人が嫌がっているので、扉は開けません」
「殿下が何をなさったのか、お聞きになりましたか?」
「まだです」
寝台のほうから、シーツを握る小さな音がした。ヴァレナは口を挟まず、男の次の言葉を待っている。
「それなのに、私より殿下を信じると?」
「あなたが脅しながら家へ入ろうとしていることと、ヴァレナさんが死にかけていたことは、この目で見ました。その二つだけなら、どちらを扉の内側へ置くか迷いません」
自分でも、ずいぶん思い切ったことを言っていると思う。
ヴァレナが人間へ何をしたのか、僕は知らない。男の言葉がすべて嘘だとも限らなかったが、だからといって、助けたばかりの負傷者を刺した相手へ放り出す理由にはならない。
扉の向こうが静かになった。
男が怒ったのか、別の方法を試しているのかは分からない。音のない時間が長くなるにつれて、かえって掌へ汗が滲んだ。
やがて、先ほどより近くから声がした。
「規模こそ立派ですが、この空間魔法はひどく洗練されていません。幾重もの境界を、力任せに重ねているだけです。私なら、すぐに破れます」
僕には反論のしようがなかった。《旅人の家》は与えられた能力であって、僕が術式を組み立てたわけではない。洗練されているかどうか以前に、どうやって存在しているのかすら知らない。
「ただし、手荒に境界を破れば、この空間と結びついているあなたも無事では済みませんよ? 扉を開けていただければ、余計な危険を負わずに済むのですが」
丁寧な口調のまま、今度ははっきりと僕の命を秤へ載せてきた。
扉の中央が、ゆっくりと内側へ沈み始める。
木が曲がっているわけではなかった。水面へ指を押しつけた時のように、扉とその周囲の空間そのものが歪んでいる。台所の食器棚で皿が触れ合い、寝室の床まで細かく震えた。
『二度目の侵入術式を拒絶しています』
『《旅人の家》は所有者の旅路を保護します』
『境界干渉を解析中――抵抗を継続します』
赤と金の文字が重なり、視界の端で明滅する。
能力は抗っている。だが、「拒絶しました」ではなく「拒絶しています」と表示されているのが嫌だった。押し返しきれず、今も力比べが続いているということだろう。
「ユウマ」
呼ばれて振り返ると、ヴァレナが寝台の上で片手を差し出していた。
「どうしました?」
彼女は歪み始めた玄関を一度見てから、浅く息を吐いた。
「仕方ないわね。こちらへ来て」
「今ですか?」
「今でなければ意味がないの。私の手が届くところまで来てちょうだい」
何か方法があるらしい。
僕は短剣の柄から手を離し、寝台へ近づいた。ヴァレナは身体を起こそうとしたものの、傷が痛んだのか途中で眉を寄せ、枕へ背中を預け直す。
「もっと近くへ。顔も」
「何をするつもりですか?」
「説明している時間はないわ」
声は弱っていたが、目には迷いがなかった。
耳元で何かを伝えるつもりだろうか。そう考えて寝台へ片膝をつき、顔を近づける。濡れていた黒髪はすでに乾いており、薬草と、微かに鉄に似た血の匂いがした。
「これくらいですか?」
「ええ。十分よ」
ヴァレナの指が僕の襟へ掛かった。
引き寄せられたと思った時には、冷たい唇が触れていた。
何が起きたのか理解できず、息が止まる。けれどそれは一瞬触れただけのものではなかった。首の後ろへ細い腕が回り、逃げ道を塞ぐように顔の角度を変えられる。重なった唇から吐息まで奪われ、玄関の軋みも、寝台へついた手の感触も一瞬遠のくほど、長く深い口づけだった。
傷を負っている人を押し退けるわけにもいかず、僕は寝台へ片手をついたまま固まった。
やがて、唇の触れている場所から熱が流れ込んできた。
最初は人肌の温度かと思ったが、それは口の奥から喉を抜け、細い光の筋となって胸へ落ちていく。僕の中にある何かと触れ合った途端、金色と薄紫色が混ざった光が皮膚の下を走った。
『客人から所有者への魔力接続を検知しました』
驚いて目を見開くと、ヴァレナの顔越しに新しい文字が浮かんでいる。
『客人ヴァレナ・ゼルグラードの魔力情報を、所有者の保護領域へ受け入れますか?』
その下に、《許可する》《拒否する》という二つの選択肢が現れた。
何をしようとしているのか、ようやく少しだけ分かった。
外では男がヴァレナの気配を探り、この家へ干渉している。彼女は自分の魔力を僕へつなぐことで、その目を欺こうとしているのだろう。
正しい保証はない。それでも、扉は今も歪み、ヴァレナの腕には残った力のすべてを使っているような震えがあった。
僕は浮かせた右手で、《許可する》の文字へ触れた。
床が大きく揺れた。
玄関を守っていた金色の線が壁と床を伝い、寝台の脚からシーツへ這い上がってくる。それは僕とヴァレナを一度だけ囲み、彼女から流れ込んできた薄紫色の光を包むと、胸の奥へ溶けるように消えた。
扉を押し潰していた力が、唐突に弱まる。
「おや? 気配が……」
男の声から、初めて余裕が消えた。
「ヴァレナ殿下?」
問いかけへ返事はない。
ヴァレナは口づけを解かず、僕の首へ回した腕も緩めなかった。もう十分ではないかと思ったが、外の気配が消えたと確信できるまでは離すつもりがないらしい。
男の足音が、扉のすぐ外を左右へ移動する。時折立ち止まり、そのたびに境界の一部が探るように震えたが、先ほどまでの強い圧力は戻ってこなかった。
「これは……どういうことでしょうね」
声が遠ざかり、また近づく。僕にはひどく長く感じられたものの、実際には十数呼吸ほどだったのかもしれない。
やがて、男は扉の前で足を止めた。
「どうやら、殿下は別の場所へ移られたらしい。空間の主よ、先ほどは失礼しました。私も無関係な方を殺したいわけではありませんので、どうぞ旅をお続けください」
最後まで丁寧だったからこそ、その言葉を善意とは受け取れなかった。
濡れた小石を踏む音が、一歩ずつ遠ざかっていく。途中で一度止まり、こちらを振り返ったような間があった後、足音は完全に聞こえなくなった。
『外部からの境界干渉が停止しました』
『周辺に同一の干渉源は確認できません』
表示を読んだ直後、ヴァレナの腕から力が抜けた。
ようやく唇が離れる。
彼女は枕へ沈み、僕は寝台へ手をついたまま動けなかった。触れていた場所だけが妙に熱い。呼吸の仕方まで忘れていたことに気づき、遅れて大きく息を吸うと、薬草と血の匂いに彼女の温かな息が混ざっていた。
「……今のは、何ですか?」
「口づけよ」
「それは分かっています!」
思ったより大きな声が出た。
ヴァレナは僕の反応へ驚いた様子もなく、乱れた呼吸を整えている。ただ、傷へ響いたらしく、包帯の上へ置いた指には力が入っていた。
「あの男は、聖銀の欠片へ追跡術を仕込んでいたの。欠片を抜いた後も、傷には術の痕跡が残っていたのでしょうね。月蛍砂の力が強い間は抑えられていたけれど、夜明けが近づいて湖の光が弱まり、再び私の気配を拾われたのよ」
夜の間は何度も汲んでいた湖水が、明け方にはほとんど光らなくなっていた。あの男がこの場所へ来た時刻とも合う。
「口づけたのは?」
「私の魔力を、あなたのものへ一時的に重ねるためよ。この家は客人の気配を完全には隠せなくても、所有者であるあなたは境界そのものと重なっている。私をあなたの保護領域へ入れてもらえば、外からは個別に見つけられなくなると思ったの」
「それなら、手を握るとかでは駄目だったんですか?」
「できなくはないわ。ただ、今の私では魔力を渡すまでに時間がかかるもの。呼吸と魔力の通り道を直接重ねるのが、いちばん早かったのよ」
必要だったと言われても、簡単に納得できるものではない。
僕は指先で自分の唇へ触れた。まだ柔らかな感触と、冷たさから熱へ変わっていった温度が残っている。
初めての口づけは、いつか香澄と交わすものだと、誰にも言わず勝手に思っていた。そんな未来がないことは四日前に分かったはずなのに、胸のどこかには捨てきれない形で残っていたらしい。
それが魔王の娘に追手を撒くため奪われるとは、さすがに想像したこともない。
「……僕、初めてだったんですけど」
ヴァレナの金色の瞳が、ほんのわずかに見開かれた。
「そうだったの」
「だから何をしてもいい、というわけではありませんからね?」
「分かっているわ。あなたを巻き込んだうえ、断る時間まで奪ったことは謝る。ごめんなさい」
彼女は冗談で済ませず、枕の上で静かに頭を下げた。傷の痛みを隠す余裕もないはずなのに、謝罪の言葉だけは濁さなかった。
「次からは、先に説明してください」
「説明したら、素直に顔を近づけてくれた?」
「それは……」
すぐに答えられない僕を見て、ヴァレナの口元が微かに緩む。
「それでも、次があるなら説明するわ」
「ないことを願っています」
そう答えたものの、唇へ残る熱のせいで、説得力があるようには聞こえなかった。
◇
口づけの騒ぎで傷が開き、包帯には新しい血が滲んでいた。
僕はヴァレナを寝かせ直し、月蛍砂を包んだ布と止血粉を使って処置をやり直した。彼女は痛みに眉を寄せながらも、今度は意識を失わず、僕の手元を黙って見ている。
「あの男は、本当にいなくなったと思いますか?」
「少なくとも、この家のすぐ外にはいないのでしょう? あなたの能力がそう言っているなら、私の感覚より信用できるわ」
彼女には、僕の前へ浮かぶ文字が見えていないらしい。
最後の包帯を結んだところで、別の表示が現れた。
『境界干渉の解析を完了しました』
『《旅人の家》は、同一術式による干渉への耐性を獲得しました』
少なくとも、まったく同じ方法で簡単に破られる心配は減ったようだった。
「洗練されていないと言われましたけど、うちも一応、学習はするみたいです」
「ええ。あの男は見誤っているわ」
ヴァレナは天井から壁へ視線を巡らせ、何かを確かめるように指先を動かした。
「この家は、空間魔法ではないのでしょうね。少なくとも、人間や魔族が術式を組んで作る空間とは違うわ。あの男には構造が読み取れなかったから、力任せに境界を重ねているように見えたのでしょう」
「それなら、破られることはなかったんですか?」
「いいえ。仕組みが違っても、十分な力があれば扉をこじ開けることはできる。あの男には、その力があるわ」
安心しかけたところへ、きちんと不安を戻された。
「何者なんですか?」
僕が尋ねると、ヴァレナはすぐには答えなかった。寝台脇の鉢では、月蛍砂に埋もれた聖銀の欠片が灰色に濁っている。
「魔王軍の内側にいる者よ。ただし、父の命令で私を追っているわけではない」
それだけでも、魔王軍が一枚岩ではないことは分かった。ヴァレナはさらに何かを言いかけたが、僕の顔を見て口を閉じる。
「その理由まで今話せば、あなたをもっと深く巻き込むことになるわ」
「もう十分巻き込まれている気がします」
「そうね。けれど、知れば勇者一行へ戻りたくなるかもしれない」
その言葉に、僕の手が止まった。
セインたちへ伝えたほうがいい事態なのだろう。魔王の娘が何者かに襲われ、勇者一行が使う道具と北砦の薬草を知っていた。追手は聖銀を使い、異空間へ干渉できるほどの力を持っている。
知らなかったことにはできない。
それでも、今すぐ北へ引き返す自分を想像すると、旅立ちの日に決めたことまで手放してしまう気がした。香澄とセインへ今すぐ顔を合わせたくない気持ちは、もちろんある。けれど、それだけではなく、二人と別れた理由までこの一件へ預けたくなかった。
僕は自分で南を選んだ。ヴァレナを助けると決めたのも僕で、その結果をすべて勇者へ渡して終わりにはしたくなかった。
「もしセインたちに危険が及ぶ話なら、次の町から手紙を出します。でも、それと僕が勇者一行へ戻ることは別です。僕は南へ行きます」
「魔王の娘を家へ入れたまま?」
ヴァレナは試すように尋ねたが、答えはもう決まっていた。
「傷の治っていない人を、刺した男が捜している場所へ置いていけません」
「私が、あなたの敵になるかもしれなくても?」
「その時は客の許可を取り消します。できれば、そんなことにならないでほしいですけど」
ヴァレナは何も言わず、僕を見つめた。金色の瞳にはまだ警戒が残っていたが、やがて根負けしたように一度だけ目を伏せる。
「分かったわ。傷が塞がるまで、この家に置いてもらえる?」
「そのつもりです。ただし、勝手に武器を取り戻さないこと。この家のことを誰かへ話さないこと。それから僕を殺さないこと」
「どれも当然の条件ね」
彼女があまりにも真顔で頷くので、最後の一つを付け加えるのが急に恥ずかしくなった。それでも、曖昧なままにはしておきたくない。
「あと、さっきのようなことをする時は、先に説明すること」
「それも約束するわ」
今度は迷わず答えたので、僕も頷いた。
『所有者と客人の間で、旅路を共有する意思を確認しました』
目の前に、青い文字が浮かぶ。
『ヴァレナ・ゼルグラードを《一時同行者》として登録します』
「ちょっと待ってください」
「どうしたの?」
「いえ……僕の家が、思っていたより話を大きく受け取ったみたいです」
《旅路の記録》を開くと、セラーデへ続く青い線の途中、僕の現在地を示す印の横に、これまでなかった薄紫色の光が増えていた。
一人で出発したはずの旅の現在地に、二つの印が並んでいた。




