↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/8

第2話 夜に光る湖で、死にかけの魔族を拾った

 湖が光り始めたのは、山の端へ太陽が沈みきった直後だった。


 最初に淡く輝いたのは、水際に溜まっていた青白い砂だった。そこから細かな光が湖底を走り、風に揺れる水面の下で幾重にも枝分かれしていく。やがて対岸まで続く湖全体が、夜空をひっくり返して沈めたような色に染まった。


 城塞都市リーベルを出て四日目。僕は街道から半日ほど西へ外れ、《星沈みの湖》と呼ばれる場所まで来ていた。


 立ち寄った葡萄酒の村で話を聞かなければ、わざわざ道を外れることはなかったと思う。


『昼間はただの湖さ。見るなら陽が落ちるまで待ちな』


 干し葡萄を売ってくれた老婆はそう言い、暗くなったら水へ入らないよう念を押した。湖底に混じる《月蛍砂(げっけいさ)》は、日中に大気から吸い込んだ魔力を夜になると光へ変える。その輝きへ寄ってくる獣もいるため、地元の者は夕暮れ前に漁を終えるらしい。


 それでも見たいと思った僕は湖畔へ寄り、明るいうちに夕食を済ませた。知らない場所へ自分の都合で立ち寄るのも、陽が沈むのを何もせず待つのも、勇者一行にいた頃にはなかった贅沢だった。


 僕の前に浮かぶ《旅路の記録》には、街道から湖までの細い道が新しく描き加えられている。目的地のセラーデへ近づいてはいないが、能力から急ぐよう催促されることもない。


 遠回りまで旅として認めてくれるらしい。


「来てよかったな」


 誰へ言うでもなく呟き、僕は波打ち際へしゃがんだ。


 水は底の小石が数えられるほど澄んでいる。青白い光を掌ですくおうとすると、細かな砂だけが指の隙間を抜け、水面には黒い影が残った。


 その影が、不自然に長かった。


 初めは流木だと思った。けれど波が引いた時、暗い塊の先から白い指が現れ、爪が小石を引っ掻くように動いた。


「人……?」


 立ち上がるのと、水へ踏み込むのはほとんど同時だった。


 岸から二十歩ほど離れた浅瀬に、誰かがうつ伏せで倒れている。水は膝より低いものの、顔の半分まで沈んでいた。


 濡れた小石へ足を取られながら近づき、まず肩を掴んで仰向けにする。水面へ現れたのは、僕より少し年上に見える女性だった。


 青みを帯びた黒髪が頬へ張りつき、濡れた外套の下には黒い革鎧を着ている。顔立ちは人間と変わらない。唇から血の気が失われているせいもあり、眠っているというより、精巧に作られた人形が水へ捨てられているように見えた。


「聞こえますか?」


 返事はない。


 鼻と口を水面から出し、首筋へ指を当てる。脈は見つけるのに時間がかかるほど弱かったが、まだ途切れてはいなかった。


 左脇腹の革鎧が裂け、そこから暗い赤色の血が水へ流れ込んでいる。湖の青い光は血へ触れた途端に強く瞬き、何かを避けるように周囲へ散っていた。


 傷口を確かめようと髪を払った時、右のこめかみに黒いものが見えた。


 最初は髪飾りかと思った。親指ほどの長さしかなく、頭の形に沿って後ろへ寝ている。けれど根元は皮膚とつながり、磨かれた石のような表面には、ごく細い筋が何本も走っていた。


 角だ。


「魔族……」


 声に出すと、女性のまぶたがわずかに動いた。


 魔族には、誰が見ても魔物としか思えない姿の者もいれば、翼や尾のほかは人間に近い者もいる。ガド爺によれば、強大な魔力を持つ魔族ほど余分な特徴が消え、外見だけでは人と見分けにくくなるらしい。


『向こうの将軍と市場ですれ違っても、角を隠されれば分からんぞ』


 教わった時は大げさな話だと思っていたが、目の前の女性は小さな角を除けば本当に人間と変わらなかった。


 まぶたがゆっくりと持ち上がる。現れた瞳は薄い金色で、瞳孔だけが獣のように縦へ細かった。


 女性は僕を見た途端、右手で手首を掴んできた。死にかけているとは思えないほど指が食い込み、反射的に振り払おうとして踏みとどまる。


「ゆう、しゃ……」


 掠れた声だった。


「違う。今は、ただの旅人です」


 嘘ではないが、四日前までその勇者と行動していたことは黙っておいた。


 僕の返事を理解したのかどうか、女性の指から力が抜ける。腕が水へ落ちた拍子に、握られていた青白い砂が傷口の近くへこぼれた。


 白い光が、脇腹の奥で一度だけ瞬いた。


 傷には刃か矢の一部が残っている。その周囲から伸びていた白い筋へ月蛍砂の光が触れると、焼けた鉄を水へ沈めたような音がして、女性の身体からわずかに力が抜けた。


 彼女は偶然、湖へ倒れたのではない。


 この砂が必要で、ここまで来たのだ。


 そう気づいたところで、僕は動けなくなった。


 魔族は、セインたちが北で戦っている相手だ。僕自身、魔族に率いられた魔物の群れを二度見ている。襲撃された村も、埋葬された兵士も見た。すべての魔族が同じ考えだと決めつけるつもりはないが、この女性が人を殺していないという保証もなかった。


 助けたあとで襲われるかもしれない。見逃した結果、別の誰かが殺される可能性だってある。


 だからといって、このまま岸へ戻ればどうなるかは、考えるまでもない。最寄りの村まで急いでも二時間はかかり、魔族を連れて行けば治療より先に武器を向けられるだろう。


 新しく使えるようになった《道標への帰還》も、登録済みの道標がなければ働かない。まだ最初の目的地にすら着いていない僕には、帰還先が一つもなかった。


 水へ浸かった膝から、じわじわと冷たさが上がってくる。僕の手には、彼女の血が付いていた。


「……本当に、自由気ままな旅になるのか?」


 文句を言う相手はいない。


 見なかったことにして海へ向かう自分を想像してみた。セラーデへ着き、能力で浴室を作り、久しぶりの湯へ肩まで浸かる。その時になっても、水へ沈みかけていた顔と、手首へ食い込んだ指の感触は思い出す気がした。


 風呂へ入るたびに胸の奥が重くなる旅は、あまり自由とは言えない。


「助けるけど、起きていきなり噛みつくのはやめてくださいよ」


 意識のない相手へ断ってから、僕は湖を見回した。


 岸近くに、人の背丈ほどある平たい岩がある。片手をその表面へ当てて《旅人の家》を呼ぶと、金色の線が長方形を描き、岩へ木製の扉が現れた。


 意識のない人間でも、僕が客として招くつもりなら家へ入れられる。そのことは負傷した兵士を運んだ時に確かめていた。


 女性を岸まで引き上げ、濡れた外套を担架代わりにして扉の前まで運ぶ。水を吸った衣服と革鎧は予想以上に重く、ほんの数歩なのに息が上がった。肩を支えて抱き起こすと、冷えきった身体から湖水が絶え間なく滴った。


 扉をくぐって踵で閉めると、湖のさざ波と湿った夜気が一緒に途切れた。女性を空いている寝室まで運び、寝台へ横たえた。


 ここは四日前まで香澄が使っていた部屋だった。出発前にシーツを替え、残っていた私物もすべて返してある。扉が閉じたままなのを気にしていたくせに、まさか次に開ける理由が死にかけの魔族を寝かせるためだとは思わなかった。


「海へ着く前に、ずいぶんなものを拾ったな……」


 返事はなく、女性の呼吸はさらに浅くなっている。


 僕は感傷へ浸るのをやめ、旅用の救急箱を取りに台所へ走った。


     ◇


 最初にしたのは、武器を外すことだった。


 腰には黒い鞘の短剣があり、右の長靴には薄い刃が一本隠されていた。外套の襟からも針が三本出てきたので、すべて台所へ運び、戸棚の奥へ入れておく。


 人を助けようとしている最中に身体を探るのは気が引けたが、目を覚ました直後に刺されるよりはいい。助けると決めたことと、相手を無条件で信用することは別だった。


 革鎧の脇を留めている紐は、血を吸って固まっていた。短剣で切って外し、その下の服も傷の周りだけ慎重に裂く。


 左脇腹には、指二本ほどの幅がある刺し傷が開いていた。周囲の皮膚は白く変色し、細い亀裂のような光が臍の近くまで伸びている。傷口から流れる血は多くない。けれど止血できているのではなく、もう流せる血が少ないために見えた。


「これは、僕にどうにかできる傷なのか……?」


 救急箱の中には止血用の粉、消毒薬、包帯、それに香澄が作った治癒薬が二本入っている。勇者一行を離れる僕へ、神官長が持たせてくれたものだった。


 治癒薬を傷の端へ一滴だけ落とす。


 淡い緑色の液体が触れた途端、白い亀裂が明るさを増した。女性の背中が寝台から浮き、閉じた唇の間から苦しそうな息が漏れる。


「駄目か」


 慌てて薬を拭い取ると、光は元の強さへ戻った。


 人間に合わせて作られた治癒薬が魔族にも使えるとは限らない。そもそも、傷に残っているものが治癒を妨げている可能性もある。


 香澄から教わった応急処置では、身体へ深く刺さった物を素人が抜いてはいけない。抜いた途端に出血が増え、そのまま命を落とすことがあるからだ。


 けれど、あの白い光を放置しても助からない。


 寝台脇の桶へ落ちた雫が青白く輝いた。女性の髪や衣服から滴った湖水には月蛍砂が混じっており、それが傷から漏れる光へ反応している。


 僕は清潔な布と金属製の鉢を抱え、玄関へ戻った。


 扉を開ければ、外は先ほどと同じ湖畔へつながっている。夜の湖は青い光を絶えず岸へ送り、風が吹くたび、薄い波が明滅しながら小石の間へ入り込んでいた。


 なるべく強く光っている場所から湖水と砂をすくい、布を使って大きなごみだけを取り除く。魔力を吸う砂なら、傷に残った白い何かを弱められるかもしれない。


 確証はなかった。それでも、女性自身が最後まで砂を握っていたことだけは、ほかのどんな知識より信用できた。


 部屋へ戻り、月蛍砂を包んだ濡れ布で傷の周囲を覆う。青白い光と、身体の内側から滲む白い光が触れ合い、細かな泡を立て始めた。


 亀裂の輝きが少しずつ弱くなる。


「効いてる……」


 布を替えながら続けると、これまで白い光に紛れていた異物の輪郭が見えてきた。傷の奥に、乳白色の金属片が斜めに刺さっている。矢尻か、細い槍の穂先が折れたものらしい。


 僕は火起こしの魔道具をひとつ取り出した。リシュラが餞別として七つも押しつけてきた品が、旅へ出て四日目で役立つとは思わなかった。


 救急箱に入っていた小型の鉗子を酒で拭い、青い火へかざす。十分に冷めるのを待つ間に包帯と止血粉を手の届く位置へ置き、女性の身体を横向きにした。


「抜きますよ。聞こえていなくても、勝手にやるのは嫌なので一応言っておきます」


 鉗子の先で金属片を掴もうとした時、女性の手が動いた。


 指先が僕の袖を弱々しくつまむ。


「それ、を……抜いて……」


「分かっていたんですか?」


「聖銀の……欠片よ。残せば、心臓まで……焼かれるわ」


 途中で声が途切れ、唇の端から細い息が漏れた。


「抜いたら血が出ます。止められる保証はありません」


「残しても……朝までは、もたないわ」


 縦長の瞳孔が僕を見た。焦点は定まっていない。それでも、判断をこちらへ任せている目には見えなかった。


「分かりました。動かないでください」


 女性がわずかに顎を引く。


 月蛍砂の布を傷へ押し当てたまま、金属片を鉗子で挟んだ。抵抗が強く、少し引いただけで血が溢れる。


 一度手を止め、刺さっている向きを確かめた。闇雲に引けば傷を広げる。外へ出ている端をほんの少し持ち上げ、入った時と同じと思われる角度へ合わせてから、ゆっくり力を込めた。


 女性の指が袖を強く握り、喉の奥で押し殺した声が鳴る。


 やがて、指の長さほどある聖銀の欠片が傷から抜けた。


 金属片は白い炎に包まれたが、月蛍砂を入れた鉢へ落とすと激しい音を立てて沈んだ。青白い砂が一斉に輝き、乳白色だった金属は見る間に灰色へ変わっていく。


 そちらへ気を取られている余裕はなかった。


 傷から新しい血が流れ出している。折り畳んだ布で強く圧迫し、出血が少し落ち着いたところで止血粉を使う。女性の呼吸が一度途切れたように感じ、首筋へ指を押し当てた。


 脈は弱い。それでも、先ほどよりは規則的だった。


「名前は?」


 意識をつなぎ止めるため、僕は声を掛けた。


 返事はない。包帯を巻き終え、もう一度呼びかけようとした時、女性の唇がかすかに動いた。


「ヴァレナ……」


「ヴァレナさん。眠るなら、あと少し待ってください。水は飲めますか?」


 問いへの答えは返らなかった。けれど名前を聞く前より呼吸が深くなり、白く変色していた皮膚からも、わずかに色が戻り始めている。


 僕は血に濡れた布を替え、濡れた髪と身体を乾いた布で拭いた。冷えきった足元へ湯を入れた革袋を置き、寝台脇へ椅子を運ぶ。


 これで助かるかどうかは分からない。


 できることを終えた途端、手の震えが止まらなくなった。鉗子を握っている間は気づかなかったが、背中まで汗で濡れている。


「僕は治癒術師じゃないんだけどな……」


 眠るヴァレナから文句は出なかった。


 夜が深くなるにつれて、熱を失っていた身体は逆に高い熱を持ち始めた。僕は冷たい布を額へ載せ、呼吸と脈を確かめ、傷から血が滲むたびに包帯を替えた。


 玄関を開けて湖水を汲むたび、外の光は少しずつ弱くなっていく。月蛍砂が蓄えていた魔力を使い果たし始めているのだろう。それでも夜明け前まで、岸辺だけは消え残った星のように淡く輝いていた。


     ◇


 椅子へ座ったまま、ほんの少し眠っていたらしい。


 衣擦れの音で目を開けると、寝台の上から金色の瞳がこちらを見ていた。


 ヴァレナは上半身を起こそうとして、傷へ触れた途端に顔を歪めた。枕へ身体を戻したものの、視線だけは僕から外さない。


「武器を探しているなら、台所の戸棚です」


「なぜ、私の考えていることが分かるの?」


「目を覚まして最初に腰と長靴を見たからです。短剣と薄い刃と針が三本ありました。なくしてはいないので、動けるようになったら返します」


 ヴァレナは何も答えず、室内を見回した。


 魔石灯の明かり、木の壁、寝台脇に置かれた月蛍砂の鉢。窓がないことへ気づいたらしく、眉がわずかに寄る。


「ここはどこ?」


「僕の家です。場所としては、説明が難しいんですけど」


「湖畔の建物ではないわね。外からは何も見えなかった」


 意識を失う前にも、扉が現れるところは見えていたらしい。弱っていても観察する余裕があったのかと思うと、改めて警戒したほうがよさそうだった。


「《旅人の家》という僕の能力です。今は星沈みの湖へ入り口をつないでいます」


「空間魔法なのね。人間が一人で維持できる規模ではないわ」


「僕にも仕組みは分かりません。水、飲めますか?」


 ヴァレナは差し出したカップをすぐには受け取らなかった。僕の手と顔を交互に見たあと、ようやく両手で持つ。唇を濡らす程度に口へ含み、妙な味がしないことを確かめてから、残りを少しずつ飲んだ。


「私が魔族だと分かっているの?」


「角が見えたので」


「それなら、なぜ助けたの?」


 予想していた質問だったのに、うまい答えは出てこなかった。


「あそこで見つけてしまったから、でしょうか」


「答えになっていないわ」


「僕だって、助けていい相手なのかは分かりませんでした。でも見捨てて海へ行ったら、念願の風呂へ入っても気分が悪そうだったので」


「風呂?」


「こっちの話です」


 ヴァレナの眉がさらに寄る。命を救った理由としては、かなり頼りなく聞こえたらしい。


「私があなたを殺すかもしれないとは、考えなかったの?」


「考えました。だから武器を預かっています。それにこの家では、僕が客の許可を取り消せば、その人を入り口の外へ戻せます」


 以前、酔って暴れたガド爺を一度だけ追い出したことがある。あの時は雪の積もった野営地だったので、三十秒もしないうちに謝罪が聞こえてきた。


 死にかけのヴァレナへ同じことをすれば、助けた意味がなくなる。だが、何の備えもないわけではないと知ったのか、彼女は探るような目を少しだけ緩めた。


「あなたは勇者ではないと言ったわね」


「はい」


「けれど、あの火の道具には勇者一行の魔術師が使う印がある。包帯に使った止血粉からも、北砦で育つ白艾の匂いがしたわ」


 今度は僕が黙る番だった。


 火起こしの魔道具を見ただけでリシュラの品だと分かるなら、この女性は魔王軍の中でも低い立場ではない。そもそも、人間にしか見えない姿をしている時点で、それなりの魔力を持つはずだった。


「四日前まで、勇者一行にいました。今は抜けて、南の海へ向かっている途中です」


「勇者の仲間が、魔族を助けたというの?」


「元仲間です。さっきから何度か言っていますけど、今はただの旅人なので」


 ヴァレナは僕を見つめたまま、しばらく黙っていた。やがて傷へ響かない程度に浅く息を吐く。


「人間の中にも、理解しがたい者がいるのね」


「魔族に言われたくありません。死にかけた状態で湖に入るほうが、僕には理解できないですよ」


「月蛍砂がなければ、聖銀に内側から焼かれていたわ。追手を振り切るには、ほかに道がなかったの」


 無謀に見えた行動にも、彼女なりの理由はあったらしい。


「追手って、人間ですか?」


 ヴァレナは答える前に、カップを寝台脇へ置いた。細い指が縁から離れず、目だけが玄関のある方角へ向けられる。


「まず、あなたの名を聞かせて」


「佐原悠真です。こっちではユウマで通しています」


「ユウマ。私の名はヴァレナ・ゼルグラード」


 ゼルグラード。


 その名を知らないはずがない。勇者一行にいた百日あまり、地図の北端を指して何度も聞かされた、魔王軍の頂点に立つ者の名だ。僕たちが北へ進んでいた最大の理由でもある。


「ゼルグラードって……魔王!?」


 思わず椅子から腰が浮き、膝を寝台の縁へぶつけた。鈍い音にヴァレナが眉を寄せたので、慌てて座り直す。


「魔王ゼルグラードは私の父よ。私はその第一子にあたるわ」


「それって、つまり……魔王の娘?」


「人間の言い方なら、そうなるわ」


 僕は寝台にいる女性と、戸棚へしまった武器、それから血の染みた包帯へ順番に目を向けた。


 勇者パーティーを抜けて四日。自由な旅の最初に助けた相手が、よりによって魔王の娘らしい。


「念のために聞きますけど、その追手とは話し合えますか?」


「相手によるわ。私を刺した者たちなら――」


 ヴァレナが言い終える前に、玄関のほうから硬い音が聞こえた。


 コツ、コツ、コツ、と一定の間隔を置いた三度の音だった。


 誰かが扉を叩いている。


 僕が内側から開かない限り、《旅人の家》の入り口は外から見えない。百日以上使ってきたが、閉じた扉を訪ねてきた者など一人もいなかった。


『警告――外部から《旅人の家》の境界へ干渉されています』


 目の前へ赤い文字が浮かぶ。


 寝台から、シーツの擦れる音がした。ヴァレナは起き上がれないまま、顔だけを玄関へ向けている。その横顔から、先ほどまで残っていたわずかな血の気が消えていた。


 扉の向こうから、穏やかな男の声が届く。


「ヴァレナ殿下。そこにおられるのでしょう。お迎えに参りました」


 僕がヴァレナを見ると、彼女は痛みに耐えるように息を詰め、はっきりと言った。


「開けないで。私を刺した男よ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。